交換講壇(於:蘇原教会)2021年10月17日
お祈り
◆神様、あなたは祈りに応えて恵みを与えてくださいます。どうか今、岐阜地区を覚えてそれぞれの教会に集まっている一人一人と、自宅で、施設で、職場で、屋外で、あなたの言葉を受けようとしている人を祝福してください。
◆蘇原教会のために祈ります。コロナ禍により、短い時間で礼拝を守っている一人一人にあなたからの恵みが、十分もたらされますように。どうか今、顔と顔を合わせられない人たちにも、新しい喜びと励ましがありますように。
◆子どもたちのために祈ります。今年もまた、地区サマーキャンプを蘇原教会で開くことが叶いませんでした。しかし、あなたはなお、子どもたちに恵みと成長をもたらします。どうか今、教会に連なる子どもたちみんなに、あなたの慈しみがありますように。
◆教会員と牧師のために祈ります。今年度から、蘇原教会に赴任された川上野ゆり先生にあなたの支えと導きがありますように。教会員一人一人も、健康と体調が支えられ、新しく生きていく力が日々与えられ、その輪が広がっていきますように。
◆私たちを支え、導き、送り出すイエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
聖 書
聖書の言葉を聞きましょう。ヨハネの黙示録7:9〜17(新共同訳より抜粋)
*当ブログ全体における聖書の引用を適切な範囲内で行うため、後ほど聖書箇所のみ記載し、本文をカットすることがあります。後からご覧になる方は、該当する聖書箇所を日本聖書協会の「聖書本文検索」か、手元に新共同訳聖書がある方はそちらからお読みください。 |
メッセージ
せっかく、岐阜地区の交換講壇で、皆さんと顔を合わせられたのに、教団の聖書日課で当たった箇所は、この時期に読み上げるのが、ちょっとためらわれるところでした。なにせ、黙示録の著者に、神様が見せた天上の礼拝は、あまりにも、今の私たちの礼拝とギャップがあります。
「あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆」……私たちの方は、県を跨いで集まるどころか、もともと集まっていた仲間でさえ、顔を合わせにくくなっています。天上の礼拝では、集まった人たちが大声で叫んで、神を賛美していますが、私たちは声を出すこと、賛美することも制限されます。
「彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく、太陽も、どのような暑さも、彼らを襲うことはない」……一方、私たちは、記録的な猛暑に苦しみ、8月には豪雨で不安な日々を過ごし、感染症の拡大に、未だ怯えながら過ごしています。教会に来れば不安が消し飛び、心配事もなくなって、喜びあふれた礼拝ができる……とは、お世辞にも言えません。
いつになったら、マスクを外せるんだろう? いつになったら、思いっきり歌えるんだろう? いつになったら、大勢で集まれるんだろう? そんな日は、もう来ないんだろうか? 教会が人でいっぱいになる日、会堂が賛美で満たされる日は、私が生きている間に来るんだろうか?
黙示録に記された、天上の礼拝の様子は、果たして、皆さんに希望を与えてくれるでしょうか? これを聞いて、力が湧いてくるでしょうか? むしろ、現実への諦めを覚えた人の方が、多いかもしれません。いつか、そういう日が来るといい。神の国でそんな光景を見れたらいい。だけど、私の教会ではあり得ない。私の体験にはなり得ない。
「救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、小羊とのものである」……天上の神殿で、声高らかに宣言されるとき、皆さんも自分がそこにいると、思えるでしょうか? 自分も一緒に言えるでしょうか? 「救いは、わたしたちのものです」「わたしたちに与えられています」と。私たちも、そのように礼拝できる日が来るんだと。
いや、無理だろう……ここに書いてあることは現実味がない。私たちから遠く離れた話に見える。辛くて苦しい今の状況と正反対のことを書いているに過ぎないんじゃないか? 事実、黙示録が書かれた当時の状況は、かつて教会にいた人々にとっても、お気楽なものではありませんでした。
迫害が厳しくなり、伝道は難しく、キリスト教徒は財産を没収されたり、棄教を迫られたりしていました。人々は散り散りになり、目立たないように小さく集まって、恐る恐る聖書を読み、小声で神を賛美しました。いつ、解散させられるか分からない。いつ、礼拝できなくなるか分からない。何ならまともに礼拝するなんて、ものすごく難しかった。
どうやら、今の私たちと重なる部分があったようです。何も気にせず集まって、大声で歌い、毎週喜びに溢れていた……とはお世辞にも言えない、小さな群れの人々が、黙示録の言葉を受け取りました。そこには、天上で礼拝する人たちについて、とんでもないことが書いてあります。
「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである」汚れた衣を、小羊の血で洗う。そんなことしたら余計に汚れます。衣は赤く染まります。血によって真っ白になるわけがない!……にもかかわらず、「小羊の血で洗って白くした」と表現される……あり得ない、そんなこと起こらない、何言ってんの?
もし、小羊じゃなかったら、その血で洗うと言われてなかったら、もう少し、納得しやすかったでしょう。石鹸で洗って白くした、洗剤につけて白くした、何なら白く染め直したと言われた方が、イメージしやすかったでしょう。小羊の血が、衣の汚れを落としたり白く染めたりすることなんて、できないんですから。
でも、できないこと、ありえないことをされた方が、この表現を見る度に思い出されます。死んだのに生き返った方、見捨てられたのに会いに来た方、鍵がかかっていたのに入ってきた方……あの方が、自ら血を流して、贖われた全ての人。その中の一人が、私だという事実を思い出させる。
天上の礼拝に集まった者たち、その衣を洗った小羊の血とは、まさに、あり得ない和解と平和をもたらした、イエス・キリストの流した血です。自分に従えない者、自分を見捨てた者、自分を裏切った者のために、流した血。その傷跡を見せて、信じるように促して地上にいる者を天の民、神の民へと変えてきた方。
おそらく、イエス様の血が流れたとき、逃げ出してしまった弟子たちは、衣に付着した血のように、自分たちの罪を、洗い落とすことはもうできないと思ったでしょう。ついていけなかった、従えなかった、散り散りになってしまった……もはや、イエス様と顔を合わせることも、一緒に歌うことも、同じテーブルに着くことも、できないだろう。
ところが、イエス様の血は、落とせないシミになったどころか、彼らの衣を、真っ白に輝かせます。鍵をかけた家から飛び出して、各地に教会を建て、仲間を作っていく、新しい生き方をもたらします。12人しかいなかった、むしろ、数を減らしてしまったあの弟子たちが、あらゆる国民、種族、民族に、信仰の輪を広げました。
今、天上で行われている礼拝は、私たちがここで行っている礼拝と、隔てられてはいないんです。この小さな輪が、蘇原の輪が、岐阜地区の輪が、弟子たちの小さな一室から始まったように、世界の教会、天上の礼拝と一つになって、全ての人を神の国へと招いていくんです。限られた小さな賛美は、天上の礼拝の大合唱へ重なっていきます。
言葉にならない祈り、かすれた声の賛美、震える信仰告白が今、あなた自身と、あなたに触れる人たちの希望と力になりますように。
お祈り
天の神様、あなたは地上の私たちと、いつも共におられます。
全ての者の声を、言葉を、振る舞いを、心からの献げ物として受け取ります。
今ここにいる一人一人、またそれぞれに連なる友や家族が、
あなたから受け取った恵みと、自身の応答によって、
ますます豊かな生き方ができますように。
私たちを支え、導き、起こされる、イエス・キリストのお名前によって祈ります。
アーメン。
祝 福
共に、神様の祝福を受けましょう。
派 遣
玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、命の水の泉へ導き、神が彼らの目から涙をことごとく/ぬぐわれる。(ヨハネの黙示録7:17より)
祝 福
願わくは主があなた(がた)を祝福し、あなた(がた)を守られるように。
願わくは主が御顔を向けてあなた(がた)を照らし/あなた(がた)を恵まれるように。
願わくは主が御顔をあなたに向け/あなたに平安を賜るように。(『讃美歌21』93-7③)