ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『恐ろしかったんだ』 ミカ書5:1〜3、ルカによる福音書2:1〜20

礼拝メッセージ 2018年12月23日          

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【恐怖の中のクリスマス】

 とうとうこの日がやってきました。本来は25日まで、あと2日ありますが、私たちは今日クリスマスを祝います。救い主イエス・キリストの誕生をお祝いする日、そんなめでたい日なのに、ちょっと似つかわしくないメッセージのタイトルが読まれました。「恐ろしかったんだ」……!

 

 先生、今日はクリスマスですよ? 近くの学校から聖歌隊も来てくれました。あんな綺麗な讃美歌の後で、恐ろしい話をしないでください。この後、信仰を告白する高校生もいます。もうちょっと明るいタイトルにしましょうよ。

 

 そうですね。確かに今日はクリスマスです。元気に明るくいきましょう。さあ皆さん、あなたの心は、喜びに満たされているでしょうか? 声高らかに、神様を賛美する準備ができているでしょうか?

 

 けれどもちょっと前、私はこんなニュースを耳にしました。ある教会が、産業廃棄物の処理場に囲まれ、騒音で礼拝ができなくなった。ある幼稚園が、隣に大きなビルを建てられ、園庭に日が当たらなくなった。ある人は重い病にかかり、ある人は重度の怪我を負い、ある人は生活の術を失った……どれも、私の身近な人たちに起きていることです。

 

 この先どうなるのだろう? どうしたらいいのだろう? クリスマスを迎えたとは言っても、みんな何かしらの不安や恐怖を抱えています。讃美歌なんて、歌う気持ちになれない。みんなと食事をする元気なんてない。今の自分に、クリスマスなんて似つかわしくない。そう感じている人もいるでしょう……

 

 しかし、クリスマスとは、本来そういう人たちの出来事なのです。

 

 私たちは、ルカによる福音書を通して、天使からお告げを受けた3人の話を聞くことができます。イエス様の母となるマリア、マリアの親戚であるエリサベトとザカリア、生まれて来たイエス様を初めて訪問した羊飼いたち……彼らも皆、天使から救いの訪れを聞いたとき、喜びよりも、不安や恐怖を感じていました。「びっくりした」「驚いた」という程度のものではありません。それこそ、死の恐怖を感じていました。

 

【老夫婦の不安と恐怖】

 老齢の妻に、いきなり子どもができることになった祭司ザカリア。彼は、初めに天使を見たとき、不安と恐怖の念に襲われます。当然です。正体不明の存在が、自分と2人きりの部屋に、突然現れたのです。何が起こるか分かりません。命を取られるかもしれない! そう思ったとき、彼はこう告げられます。「恐れることはない……あなたの妻エリサベトは男の子を産む。」

 

 ザカリアとエリサベトは、長年子どもができずにいました。最初から子どもができない体であったことは、もう明白……しかも、2人とも既に年老いていました。彼は妻に子どもができるなんて信じられず、言われたとおりになる証拠が欲しいと願います。すると天使は彼の口を利けなくして、この特別な出来事が、子どもの生まれるしるしだと語ります。

 

 子どもが生まれるまで口を利けなくされたザカリアは、祭司としての仕事ができなくなりました。牧師である私がしゃべれなくなるような大事件! 聖職者のスキャンダルです。神様の前で悪いことをしたと思われ、周りから裁かれるかもしれません。一方、妻のエリサベトは、さらなる苦境に立たされました。不妊の女だった自分に、子どもができると言われても、彼女の体は年老いて弱っています。

 

 お腹の中で、順調に子どもが育っていく保証はありません。非常に危険な高齢出産です。その上、子どもが生まれてくるまで、頼りの夫とは話せません。ザカリアと同じく、エリサベトも不安と恐怖の念に襲われたでしょう。死の危険を感じたでしょう。それが、救い主の誕生を予告される、半年前の出来事でした。

 

【マリアの戸惑いと不安】

 彼らの後で、自分にも子どもができると知らされたマリア。彼女もまた、天使の言葉に戸惑って、考え込まざるを得ませんでした。当然です。まだ結婚していない自分が、子どもを産むなんて一大事です。ただでさえ、赤ちゃんを産むというのは命がけです。この時代に至っては、病院さえありません。

 

 天使から「おめでとう」と言われても、喜んでいいのか分かりません。しかも、生まれる子は救い主、神の子だと言われます。どうやって育てろと言うのでしょう? 彼女は聖職者じゃないのです。田舎に住んでいる13歳か14歳くらいの少女……せめて、祭司や神殿の関係者なら、心の準備ができたかもしれません。

 

 恐ろしいことでした。自分がどうなるか分かりませんでした。もしも婚約中に妊娠したことが分かって、浮気をしたと思われれば、婚約者から縁を切られてしまうでしょう。そうなると、独りで子を産まなければなりません。それどころか、浮気をした罪で、石打の刑にされるかもしれないのです。マリアには、死の危険がありました。将来の不安がありました。それが、2000年前に告げられた、クリスマスの訪れでした。

 

【羊飼いたちの恐怖】

 しばらく経って、イエス様が生まれた後、夜通し羊の群れの番をしていた羊飼いたちに主の天使が現れました。突然訪れた天使と、自分たちを照らす光に、彼らは非常に恐れます。まばゆい光は、神様が現れるしるしの一つと思われていました。しかし、イスラエルでは昔から、神様を直接見たら死んでしまうと言われていました。羊飼いたちも、最初に感じたのは、死の恐怖でした。

 

 そんな中、天使は彼らに「恐れるな」と呼びかけ、「あなたがたのために救い主がお生まれになった」と語ります。ようするに、「民を代表して救い主の誕生を祝いに行け」と言ったわけです。けれども、彼らが簡単に天使の言葉を受け入れるはずがありません。なにせ彼らは羊飼い……今で言えば3K「きつい、汚い、危険」の三拍子揃った仕事です。狼や盗賊から羊を守るため、夜通し番をしていた彼らは、体を洗う暇さえありませんでした。

 

 家に帰ることもできず、毎晩のように野宿をしていた彼らは、動物の匂いと汗の匂いでたいへんなことになっていたでしょう。何日も野宿をしていると、どんな匂いになるか、皆さんはご存知でしょうか? 渋谷に住んでいた頃、私はときどき訪れる路上生活者と出会っては、その匂いを何度も嗅ぎました。

 

 とても、赤ちゃんのいる家に連れて行けるとは、思えない匂いでした。また、そんな状態だったので、彼らは普段から礼拝へ行くことも、ままなりませんでした。神様の与えた掟である律法を、きちんと守れない生活をしている。そんな汚れきった自分たちが、この世の救い主、新しい王様を出迎えたりすれば、きっと拒絶されるに違いない。

 

 それどころか、下手に見に行こうとすれば、救い主を守っているはずの守衛や門番に殺されてしまうかもしれない。彼らが恐れたのは当然でした。たとえ招待状をもらったって行こうとは思えないはずでした。

 

【恐れが喜びに変わる】

 けれども、恐れと不安で動けなかった彼らに、天使の一言が変化を与えます。「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう」……飼い葉桶、自分たちが普段から動物の世話で使っている、動物のご飯を入れる箱。その中で、救い主が生まれたと言われる! 明らかに、王宮や神殿の話ではありません。

 

 もしも、救い主が王宮や神殿で生まれたのなら、羊飼いたちが見に行っても、入り口で門前払いされ、入ることができなかったでしょう。しかし、飼い葉桶の中にいる赤ん坊に会おうとして、遮る者は誰もいません。その子は、臭くて汚い、自分たちと同じところで、自分たちが出迎えても拒絶されないところで、生まれてきてくれたのです。

 

 天使が離れて天に去ったとき、羊飼いたちはこう言わずにはいられませんでした。「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」……天使からお告げを受けた人たちは、皆最初は恐怖を覚えました。戸惑い、驚き、不安を抱きました。恐ろしかったのです。しかし、その恐怖はやがて喜びに変えられました。

 

 高齢出産を控えたエリサベトは、5ヶ月経って、いよいよ膨らんできた自分のお腹を見て思いました。子を産めなかった私が、年老いて弱っていた体が、立派に子どもを宿している。神様は本当に、私に子を産ませてくれるのだ。私に喜びを与えてくれるのだ!

 

 離婚と処刑の危機を感じていたマリアは、天使から、親戚のエリサベトも妊娠したと聞いて安心します。自分と同じ、子を産めるはずのない人間が妊娠している。死と隣り合わせの人間が守られている。神様は私を一人にはなさらない。そうだ、エリサベトを訪ねてみよう。彼女と一緒に、私もこの子を産んで育てよう。そうして、天使の言葉を受け入れたのでした。

 

 不安、恐怖、驚き、戸惑い……喜びとはほど遠かった者たちが、喜べるようになりました。「おめでとう」という天使の言葉に、最初は恐怖しか感じなかった者たちが、声高らかに神様を賛美するようになりました。

 

【信仰を告白する恐怖】

 「恐ろしかったんだ」……そう言わざる得ない経験の一つに、洗礼を受ける、信仰を告白するという瞬間があります。いいのだろうか? 本当にいいのだろうか? そう思いながら、洗礼や堅信礼を受けた人たちが、この教会にも何人かいるでしょう。

 

 私もその一人です。私が「神様を信じます」と告白したのは、中学2年生のときでした。洗礼を受けたいとは、そんなに思っていませんでした。双子の弟が受けたいと言いだし、自分は嫌だと言えないまま、ずるずるとその日が近づいてきました。本当は乗り気じゃないと、口にする勇気がなく、黙って洗礼を受けていく自分……どうなるか分からない恐怖がありました。

 

 神様がどう思っているか不安でした。「洗礼を受けてから後悔するかも」「やっぱりするんじゃなかったと思うかも」「みんなから責められるかも」……正直、信仰を告白して良かったと思う日が訪れるとは、ほとんど期待していませんでした。ところが、期待さえしていなかった変化が、私に訪れました。

 

 ある教会員のおばあちゃん、脳梗塞の後遺症で、誰かの助けがなければ、椅子に一人で座ることもできない……そんな彼女が、毎週私の後ろに座って、「おばあちゃんは幸せ者だよ」と言うのです。満足に動くことのできない体、たくさんの人の手を借りなければ、生活できない自分の人生……それを、幸せだと言って、私の後ろで讃美歌を歌うのです。

 

 この人を幸せにしているのが神様でなくて何だろう。この人が信じている神様を、私は一緒に信じているのだ。それがどんなに喜ばしいことであるか、私は彼女を通して知らされたのです。

 

 今このとき、もう一人、喜ばしい知らせを伝える者が与えられようとしています。子どもの頃、幼児洗礼を受け、家族と教会員の一人一人に見守られ、ここまで育ってきてくれました。高校3年生のクリスマス、彼女は自分の口から信仰を告白すると決心しました。

 

 もしかすると、ちょっと緊張しているかもしれません。どこかで、本当に自分が受けていいのかな? このまま堅信礼を受けていいのかな? と不安や恐怖を感じているかもしれません。大丈夫です。かまいません。その恐れは、やがて喜びの訪れとなるからです。ここにいる一人一人の先輩たちが、そのことを証ししてくれます。

 

 「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。」

 

 共に、聖書が語ってくれたこと、神様が与えてくれた喜ばしい知らせを、伝える者となりましょう。