聖書研究祈祷会 2019年8月21日
【聖域を破壊する教え】
ある人が「宇宙の中心は太陽であり、地球は他の惑星と一緒にその周りを回っている」と主張したとき、「宇宙の中心は地球であり、星々はその周りを回っている」と考えていた人たちは、彼らを激しく非難しました。
こいつらは何かおかしなことを教えている。我々の伝統と知識を汚し、何もかも混乱させ、全てをひっくり返そうとしている!
科学が発達し、進化論が唱えられ、世間一般に普及し浸透していく中、創世記に書いてある天地創造を「文字通りの事実」と捉えている人たちは、学校で進化論を教えることを非難しました。
こいつらは間違ったことを教えている。聖書と伝統を蔑ろにし、信仰を根幹から破壊している!
ナチスのユダヤ人虐殺、日本の慰安婦の実態が、多くの証拠と証言によって世界中に知られる中、虐殺や性暴力は誇張された主張であると訴えている人たちは、学者や証言者を非難しました。
こいつらは間違った歴史を教えている。我々の自信とプライドを汚し、国民を内側から壊そうとしている!
これらの訴えは、たいていの場合、非難する相手への中傷を伴って展開されます。「進化論はマルクス主義、共産主義、無神論、不道徳など、我々の道徳観と文化を貶めるあらゆるものの根源だ[1]」「ホロコーストを史実と主張するような人たちは皆、明らかに間違った噂を広めてきた[2]」
もちろん、それらが拡散される際には、フェイクニュースや発言の文脈を無視した意見が数多く見られます。
自分にとって「当然の」「侵し難い聖域」である考えが、他の誰かによって蹂躙され、覆され、混乱へと向かうとき、誹謗中傷を伴う非難は、たやすく私たちを扇動します[3]。
【フェイクニュース】
そして今、皆さんと読んだ聖書箇所では、エルサレムでキリスト教を教え広めていたパウロが、アジア州のユダヤ教徒からこう非難されていました。
「この男は、民と律法とこの場所を無視することを、至るところでも教えている」……進化論を支持する人が攻撃されるときのように、パウロはユダヤ人から咎められます。
なぜ、彼はこんなにも伝統的なユダヤ人から非難を受けることになったんでしょう? それは他の例に漏れず、彼の教えていることが、当時あたりまえに受け入れられていた思想や立場を覆すものだったからです。
たとえば、「律法に従うことは、神の民に属すると告白した者全員の義務ではない」という主張や、「改宗した異邦人の男性が、包皮の一部を切り取る割礼を受けていなくても、神の目にはユダヤ人と同等に見なされる」という教えです[4]。
今のキリスト教界で言えば、「同性愛のキリスト者が異性愛に矯正されていなくても、神の目には悔い改めたキリスト教徒と同等に見なされる」と主張するような、界隈に議論を巻き起こす教えでした。
なにせ、「旧約聖書に規定されていることを無視する発言」と、誰もが思うことだったので、炎上必至だったわけです。
あっという間に、パウロは五旬祭のために集まってきたユダヤ人に取り囲まれ、逮捕され、大騒ぎになってしまいます。彼らはパウロの主張を非難するだけにとどまらず、こんなことまで言い始めます。
「(この男は)ギリシア人を境内に連れ込んで、この聖なる場所を汚してしまった」
これが本当ならたいへんなことでした。なぜなら、エルサレム神殿に入ることは、ユダヤ人でなければ赦されなかったからです。
実際、神殿の内庭と外庭を隔てる囲いには、「いかなる異邦人も神殿の周りの柵と囲いより内へ入ることを禁じる。もし(この禁を犯して)逮捕された者は何人であっても、そのために生じる死罪の責めを自ら負わねばならぬ」とありました。
また、神殿の外庭には、非ユダヤ人の信仰者も入れるように「異邦人の庭」という場所が備えられていましたが、それも改宗者にならなければ侵入を許されない場所でした。
実際、「異邦人の庭」の壁には、「改宗していない者は誰であれ、ここに入れば自らの頭上に死をもたらすであろう」とほのめかす碑文もあったんです[5]。
けれども、パウロが異邦人をエルサレム神殿の中へ連れ込んだというのは、明らかにフェイクニュースでした。彼らは、エフェソ出身の異邦人トロフィモが、以前、パウロと一緒にエルサレムへ来たのを見かけて、そう思い込んでしまったようです。
しかし、実際のところ、パウロと行動を共にした彼が、ユダヤ人の気持ちを逆なでする、このような違反をわざわざするとは考えられないことでした[6]。
【死を予感させる展開】
さて、誤解から捏造されたニュースによって逮捕されてしまったパウロは、あれよあれよと言う間に境内の外へ連れ出され、暴徒と化した民衆に殴り殺されそうになります。
ちょうどそのとき、エルサレム中が混乱状態に陥っていると報告を受けた千人隊長が、慌てて兵を出動させました。
千人隊長は、直ちに百人隊長と兵隊を率いて駆けつけます。少なくとも200人のローマ兵が駆けつけたのを見て[7]、群衆はようやくパウロを殴るのをやめました。
ローマ帝国の支配下にあったユダヤ人は、ローマの許可なく死刑を執行することが許されていなかったからです。
千人隊長は、パウロが何らかの反乱を起こそうとするメシア運動の首謀者かと思い、取り調べのため彼を兵営に連れて行きます。
しかし、一旦止んだ群衆の暴行は再び始まりそうになり、パウロが殴られるのを避けるため、兵士たちは彼を担いで連れて行かねばなりませんでした。大勢の民衆が、「その男を殺してしまえ」と叫びながらついてきたんです。
最初ユダヤ人に捕らえられ、その後ローマ兵に連行され、「その男を殺してしまえ」と群衆たちに叫ばれる……かつて、十字架にかけられる直前のイエス様が経験していった出来事です[8]。
これらは読者に、パウロもこのまま殺されてしまうかもしれない……という「死」を予感させる展開です。
さらに、パウロは22章で、弁明のためユダヤ人にこう語り始めます。「兄弟であり父である皆さん、これから申し上げる弁明を聞いてください」
これは、最初に殉教したキリスト者であるステファノが、死ぬ前に最後に行なった弁明の際、始めたときの言葉とほぼ同じです[9]。
ステファノは立派に証と弁明をしましたが、そのまま人々から石打たれ、命を絶たれることになりました。
パウロもこの後、力強いメッセージを語りますが、結局彼も、ステファノと同じように殺されてしまうんだろうか? そんな展開を予期させる、非常にハラハラするシーンです。
何とかして、パウロは強力な「死」という展開から逃れなければなりません。ステファノ以上に、群衆たちを納得させ、身の潔白を証明する話をしなければなりません。
あるいは、このまま「死」を免れないなら、十字架にかかったイエス様のように、殉教していったステファノのように、キリスト者として恥じることのない証をしなければなりません。
【使命と過ちの告白】
ところが、この後に続くパウロの証言は、群衆たちを納得させることも、キリスト者として恥じない姿を見せることにもなりません。
なぜなら、彼は「自分は境内に異邦人を連れ込んだりなどしていない」という一番重要な事実を言わず、むしろ「私は神様から異邦人のために遣わされている」と主張するからです。
これは当然、ますますユダヤ人の反感を買うことになりました。さらに、キリスト者として恥じない証をするかと思えば、自分は過去にキリスト教徒を迫害し、男女を問わず縛り上げ、殺すことさえしてきたんだと自白します。
これでは、ステファノに共感し、パウロのことも助けたいと思いかけていた人たちにまで、印象を悪くしてしまうでしょう。
パウロの弁明は、ユダヤ人に対しても、キリスト者に対しても、本来弁明にならないものでした。味方を作りにくい、不利な告白になるものでした。
なにせ、自分が間違えた過去、誤っていた過去を認め、人々に受け入れがたい教えを撤回しないで続けたからです。にもかかわらず、パウロの語ったこの弁明は、現代のキリスト者に最も力を与えている証と言っても過言ではありません。
キリスト者の証、キリスト者の弁明と聞くとき、私は最初「キリスト教を信じている人はいかに良い人か、いかに心のしっかりした人か」ということを「証」するものだと思ってました。
「キリスト者である自分の潔白、誠実さ」を語るものだと思ってました。けれども、本当は違うんです。
パウロは、神様からキリストを証しするように告げられたとき、「主よ、わたしが会堂から会堂へと回って、あなたを信じる者を投獄したり、鞭で打ちたたいたりしてきたことを、この人々は知っています。また、あなたの証人ステファノの血が流されたとき、わたしもその場にいてそれに賛成し、彼を殺す者たちの上着の番もしたのです」と答えました。
自分の過ち、自分の恥じをみんなが知っている。自分がどれだけ信用に値しない者か、ユダヤ人にもキリスト者にも受け入れがたい存在か、彼は痛いほど感じていました。
けれども、証とはこのような痛みを伴うものなんです。一見、味方なんて誰もできないような、自分を責める人しか現れないような、そんな体験を告白していくパウロの証……
それが今、私たちの信仰を力づけ、支えているという事実……ここから、私たちも学びたいと思います。
単に、自分を弁護することではなく、自分の背後に弁護してくださる神様がいる……そう信じるからこそ、告白できる証をしていきましょう。
「行け、わたしがあなたを遠く異邦人のために遣わすのだ」
[1] マイクル・シャーマー著、岡田靖史訳『なぜ人はニセ科学を信じるのかⅡ』早川書房、2003年、46頁5行〜47頁4行参照。
[2] マイクル・シャーマー著、岡田靖史訳『なぜ人はニセ科学を信じるのかⅡ』早川書房、2003年、186頁4〜9行参照。
[3] W.H・ウィリモン著、中村博武訳『現代聖書注解 使徒言行録』日本基督教団出版局、1990年、252頁10〜12行参照。
[4] ウィリアム・ニール著、宮本あかり訳『ニューセンチュリー聖書注解 使徒言行録』日本キリスト教団出版局、2007年、298頁3〜6行参照。
[5] ウィリアム・ニール著、宮本あかり訳『ニューセンチュリー聖書注解 使徒言行録』日本キリスト教団出版局、2007年、292頁3〜8行参照。
[6] ウィリアム・ニール著、宮本あかり訳『ニューセンチュリー聖書注解 使徒言行録』日本キリスト教団出版局、2007年、292頁15〜19行参照。
[7] ウィリアム・ニール著、宮本あかり訳『ニューセンチュリー聖書注解 使徒言行録』日本キリスト教団出版局、2007年、293頁11〜13行参照。
[8] 眞山光彌「使徒言行録」『新共同訳 新約聖書注解I』日本基督教団出版局、2013年、366頁下段4〜8行参照。
[9] ウィリアム・ニール著、宮本あかり訳『ニューセンチュリー聖書注解 使徒言行録』日本キリスト教団出版局、2007年、294頁18〜19行参照。