在宅礼拝 2020年5月3日
招 詞
あなたは再び「捨てられた女」と呼ばれることなく、あなたの土地は再び「荒廃」と呼ばれることはない。あなたは「望まれるもの」と呼ばれ、あなたの土地は「夫を持つもの」と呼ばれる。主があなたを望まれ、あなたの土地は夫を得るからである。(イザヤ書62:4)
讃美歌
讃美歌419番「さあ、共に生きよう」1〜3節を歌いましょう。(動画では権利関係に配慮して歌いませんが、『讃美歌21』をお持ちの方はぜひ、この賛美を味わいつつ、御言葉を受け取る準備をしましょう)
お祈り
共に祈りを合わせましょう。
◆復活と希望の主である私たちの神様。この一週間も、私たち一人一人の思いを聞いてくださり感謝致します。どうか今、私たちにもあなたの思いを聞かせてください。
◆主なる神よ、この一週間、思いと言葉と行いによって、あなたを悲しませてしまったことをお赦しください。どうか今、私たちが傷つけた人を癒してください。
◆主なる神よ、この一週間、不安と混乱と対立によって、疲れと痛みが残っています。どうか今、私たち自身も癒してください。
◆主なる神よ、この一週間、様々な挑戦や発見がありました。回復や和解の知らせがありました。どうか今、一緒に喜ぶ人を与えてください。
◆主なる神よ、この一週間、落胆することもありました。緊急事態宣言の延長や、訃報の知らせもありました。どうか今、一緒に励まし、支える相手を与えてください。
◆主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
聖 書
聖書の言葉を聞きましょう。ヨハネによる福音書21:15〜19
*当ブログ全体における聖書の引用を適切な範囲内で行うため、後ほど聖書箇所のみ記載し、本文をカットすることがあります。後からご覧になる方は、該当する聖書箇所を日本聖書協会の「聖書本文検索」か、手元に新共同訳聖書がある方はそちらからお読みください。 |
メッセージ
ペトロの修羅場
自分が裏切った相手、あるいは見捨てた相手と再会したとき、「私のこと愛してる?」って3度も聞かれたら……「やばい!」ってなりますよね? これが夫婦の間柄なら、頭をよぎるのは離婚の危機。この前のやらかしで信頼が完全に失われた。自分の愛が試されている。さて、どうやって返事をしよう?
「私が君を愛しているのは、君がよく知っているじゃないか」……咄嗟にこうやって返したものの、他に言葉が出てこない。壊れたロボットのように、3回聞かれて3回とも同じ返事をしてしまう。日が昇ったばかりの食卓で、朝一にこんなやりとりが始まったら、まさに地獄のスタートです。
大切な人との関係が終わるかもしれない。それも自業自得な理由から……不穏な空気が漂うのは、イエス様が復活した後、弟子たちと3度目に再会した場面。本来なら、死んだはずの人が甦り、愛する人が帰ってきたから、またみんなで食事ができるという感動的なシーンです。
しかし、「あなたのためなら命を捨てる」と言いながら、イエス様を見捨ててしまったペトロの場合、そうは問屋が卸しません。イエス様は他の弟子たちもいる中、名指しでペトロに尋ねます。「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」……我が子の一人が「弟とお姉ちゃんより自分のこと好き?」って聞いてくるような難問です。
どう答えても、よりやばい空気が漂うでしょう。「もちろん、他の兄弟以上に、あなたのことを愛しているわ」なんてみんなの前で言えません。「ヤコブやヨハネやトマス以上に、あなたのことを愛しています!」って本人のいる前で返せるわけがないんです。一緒にいた他の弟子たちも気まずかったでしょう。いわゆる修羅場、こんな状況遭遇したくありません。
先行き不安な展開
ペトロはみんなを貶めないよう言葉を選んで答えた結果、非常にしんどい思いをします。「わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます」……自分が見捨てた相手に対し、この説得力のない言葉を3回繰り返すわけですから。「じゃあ、何で見捨てたの?」「何で私のこと知らないって言ったの?」そんな返しが来ないか、私だったらビクビクします。
そう、復活したイエス様と2度も再会してきたのに、今まで全く責められなかった。それが3度目になって、ついに「仕返し」が始まった。自分が3度イエス様の弟子であることを否定したために、「あなたはわたしを愛しているか」と、3度みんなの前で尋ねられる……いわゆる公開処刑ですよね?
ちょっと待ってください、イエス様! あなたはもう赦されたわけじゃないんですか? 自分を見捨てた弟子たちに向かって「平和があるように」と言ったじゃないですか? それなのに、今になって自分の犯した責任を取るようペトロに試練を与えるんですか? 過ちを犯した分、苦労するようにおっしゃるんですか?
そう、このシーンは明らかに、先行き不安なペトロの未来を暗示しています。「わたしの羊を飼いなさい」と命じるイエス様は、彼に不吉な将来を予告します。「はっきり言っておく、あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れていかれる。」
まるで、いつかペトロが捕らえられ、引いていかれ、処刑されるような言い方です。実際、「両手を伸ばして」という表現は、十字架刑を表す専門用語でもありました。ご丁寧に残酷な注釈までついています。「ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。」
彼の未来は決まりました。イエス様の弟子であることを否定したペトロは、いつか、自分が見捨てたイエス様と同じように捕らえられ、引いていかれ、十字架にかかって殺される。「わたしと同じ苦しい道をたどるんだ」と直々に宣告を受けたんです。福音書の最後にこんな話が来るって、なんて後味が悪いんでしょう。
神の国へ向かう道
けれども、これは本当に、後味が悪いだけの意地悪な予言なんでしょうか? ペトロにはどう聞こえたんでしょう? イエス様が祭司長たちに捕まったとき、その後を追いかけていったのは、たった一人だけでした。そう、ペトロは約束を果たそうと、最後まで頑張った、最も忠実な弟子なんです。けれども、最後の最後にイエス様の側まで行けなかった。
「お前もあの男の弟子だ」「確かにあの男と一緒にいた」……敵陣のど真ん中で疑われ、恐ろしくなり、本当に命を捨ててもついていくつもりだった方のことを「知らない」と答えてしまった。自分の行きたくないところ、痛みと苦しみと死が待っている、処刑場まで行きたくなくて、3度も大切な人を否定した。
あの時、なんで私は逃げ出したのか? 鞭打たれ、釘打たれ、唾を吐かれる十字架の道……行きたくないところへ行く覚悟を直前まで持っていたのに! 私たちもそうです。心の底から愛している、死んでも守る覚悟がある、そんな大切な人のために、いざ行動しようとしたらできなかった、足がすくんで震えてしまった。そんな経験をしていきます。
嘘をつき、後悔し、言い訳し、もう二度と自分は信頼してもらえないと落胆します。決定的な失敗、明らかな証拠を前に、自分と再び関係を築いてくれるはずがない。期待してくれるわけがない……ところが、イエス様は最も情けない姿を見せたペトロに対し、最も大胆な予告をします。
あなたは今まで行きたいところへ行っていた。痛みや苦しみを避けてきた。私と歩んでいく道も拒絶し、背を向けられた。しかし、これからは違う。あなたが歩めなかった道、私と一緒に行く道を今度こそ歩めるようになる。あなたが行きたくないところ、足がすくんでいた道も、必ず通れるようになる。
その先には、あなたが本当に行きたかった、たどり着きたかった場所がある。命を捨ててもついて行きたかった、私の待っている場所が。だから、わたしに従いなさい。私の大切な子羊、私の愛する羊たちを世話しなさい。私は今もあなたに信頼し、今もあなたに期待する。あなたは私にならう者、私の子であり、私の弟子。
聞こえたでしょうか? 夜が明ける中、炭火をおこし、パンを裂き、私たちのために朝食を用意していたイエス様が語られます。「わたしに従いなさい」……さあ、与えられたパンを食べ、私たちの務めを果たしに行きましょう。
主の祈り
共に、主イエス・キリストが弟子たちに教えられた、最も基本的な祈りを祈りましょう。
天にまします我らの父よ。
願わくは御名をあがめさせたまえ。
御国を来たらせたまえ。
みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧を今日も与えたまえ。
我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。
我らを試みにあわせず、悪より救いだしたまえ。
国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり。
アーメン。
愛 餐
今日は月の第一日曜日なので、本来なら聖餐式を行います。しかし、画面越しの方々へ、パンと杯を聖別して渡すのは難しいため、代わりにそれぞれの自宅でできる愛餐式を行います。用意するパンと水は特別なものではなく、普段の食卓に出てくるもので大丈夫です。共に神様から受けた祝福を分かち合い、神の国のしるしにあずかりましょう。
讃美歌
最初に、讃美歌432番「重荷を負う者」の1節、2節を歌いましょう。(権利関係に配慮して動画内では歌いませんが、『讃美歌21』をお持ちの方はぜひ、この賛美を味わいつつ、食事にあずかる準備をしましょう)
招き
かつて、私たちの主イエス・キリストは、パンを求めて集まってきた群衆にこう言われました。「わたしは命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。わたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。(ヨハネ 6:35、57より)」
また、主は水を求めてやって来たサマリアの女性に言われました。「わたしが与える水を飲む者は、決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。(ヨハネ 4:14)」
主は、山上で少年から受け取ったわずかなパンを祝福し、空腹だった5千人以上の人々に分けられ、全ての者が食べて満腹になりました。この食卓は、キリストが神の国のしるしとしてなされた、あの「5千人の給食」のように、主の祝福による神の国のしるしです。
信仰を告白した者があずかる聖餐式ではありませんので、神の祝福を分かち合うため、集まっておられる人々は、共に食事にあずかりましょう。
感謝の祈り
感謝の祈りをささげましょう。
恵みと祝福の源なる私たちの神様、あなたは私たちに「命のパン」「命の水」をお与えになります。足りないものを満たし、欠けている力を養います。あなたは私たちを死の恐れから解放するため、御子イエス・キリストを遣わされ、貧しい者、嫌われ者、負い目のある者たちと、共に食事にあずかりました。
様々なやましさや後ろめたさがある人も、悩みや葛藤がある人も、疑いや迷いがある人も、あなたは隔たりなく近づかれ、同じテーブルにつかれます。あなたが与えるパンと水は、信じない者を信じる者に、悲しむ者を喜ぶ者に、争う者をとりなす者に変えられます。どうか今、あなたから受けた恵みと祝福を、私たちも互いに分け合う者とならせてください。あなたの愛と平和が豊かに現されますように。アーメン。
分かち合い
共に、パンと水を分け合いましょう。普段、聖餐を受けられない人も、このパンと水は信仰を「告白している」「していない」にかかわらず、一緒にいただくことができます。どうぞ、用意されたパンと水を受け取って、神の祝福にあずかりましょう。
主は言われます。「わたしの父が天からまことのパンをお与えになる。(ヨハネ6:32)」私たちもいただいたパンを食べましょう。あなたの内側から、生きた力が溢れ出るように。
主は言われます。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。(ヨハネ7:37)」私たちもいただいた水を飲みましょう。あなたの内側から、生きた水が流れ出るように。
献げ物
感謝の応答として献金をしましょう。自宅で礼拝を守っておられる方は、再び集まって礼拝する日に、本日献げたものをお持ち寄りください。共に祈りを合わせましょう。
愛と平和の主である私たちの神様、今ここで、あなたの祝福を分かち合う食事にあずかれたことを感謝致します。日々、あなたがもたらされる日用の糧も、心を養う御言葉の糧も、必要なとき、必要な仕方で備えられてきました。
足りない者には与える者が、失くした者には見つける者が、一人の者にはつながる者がもたらされます。どうか今、私自身も、あなたからいただくつながり、発見、恵みの数々を、共に分け合う者として、送り出してください。主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
讃美歌
讃美歌419番「さあ、共に生きよう」4節、5節を歌いましょう。(こちらも、権利関係に配慮して動画内では歌いませんが、『讃美歌21』をお持ちの方はぜひ、この賛美に込められた応答の思いに心を合わせましょう)
とりなし
神の祝福にあずかった者として、とりなしの務めを果たしましょう。
◆神様、あなたは祈りに応えて恵みを与えてくださいます。どうか今、わたしたちがささげる祈りをお聞きください。
◆世界の国民と政府のために祈ります。主よ、政治に携わる人々に、知恵と勇気と良心を与え、全ての場所に、自由と平和をもたらしてください。
◆世界に広がる全ての教会のために祈ります。主よ、教会を聖霊によって力づけ、その信仰を新たにし、私たちの一致と結びつきを強めてください。
◆教会員のために祈ります。主よ、私たち全てを、御言葉によって豊かに養い、あなたの愛と平和を伝える者として送り出してください。
◆一緒に礼拝できなかった人のために祈ります。主よ、病気や衰え、仕事や様々な事情のために、一緒に礼拝できない人たちを、あなたが癒し回復してください。
◆身近な人のために祈ります。主よ、私たちの家族や友人、仲間たちが、あなたの愛を知れますように、私自身を用いてください。
◆幼稚園、教会学校、地域の子どもたちを覚えて祈ります。主よ、子どもたちの健康と安全を守り、疲れを癒し、安らぎと成長をもたらしてください。
◆苦しんでいる人のために祈ります。主よ、病気や怪我、悩みや苦しみを抱える人たちに、あなたからの平安と、必要な助けを与えてください。
◆今も生きておられ、とりなしてくださる方、主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
祝 福
共に、神様の祝福を受けましょう。
あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守られるように。平和の神が、あなたがたと共におられるように。アーメン。
(フィリピの信徒への手紙4:7、9より)