ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『どれが本当の洗礼?』 使徒言行録19:1〜10

聖書研究祈祷会 2023年10月11日


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案 内

華陽教会では、賛美中のマスク・消毒・換気・加湿・三密回避の座席調整をした上で、聖書研究祈祷会を配信と並行して行っています。共に今、教会にいる人も、配信を見ている人も、互いのために祈りを合わせ、聖書の言葉を味わいましょう。

 

讃美歌

マスクをお付けいただき、讃美歌21の67番「貴きイェスよ」を歌います。諸事情でマスクの着用ができない方は、歌うのをご遠慮いただき、心で賛美を合わせましょう。

 

お祈り

ひと言お祈りをします。共に心を合わせましょう。

◆愛と平和の源である、私たちの神様。今日もまた、あなたによって守られて、聖書研究祈祷会を始めることができ、感謝いたします。どうか今、ここに集まった人たちと、自宅で、施設で、職場で、屋外で、あなたの言葉を求めている人を導いてください。

◆私たちの神様。土曜日には、芽含幼稚園の運動会を良い天気の中、迎えることができ、感謝致します。どうか今、練習してきたダンスや競技を精一杯披露してきた子どもたちにあなたの祝福がありますように。家族と成長の喜びを分かち合うことができますように。

◆私たちの神様。今週も、様々な出来事に直面し、自信を失くしたり、落ち込んだり、力を奪われている人たちがいます。どうか今、気づきと励ましを、慰めと回復を、仲間と助けが与えられ、新しく歩むことができるように、私たちを互いに遣わしてください。

◆私たちの神様。来週の日曜日には、牧師が福岡へ出張のため、隠退教師の鈴木重正先生がメッセージをしてくださいます。どうか今、先生とご家族に、奉仕を担う人たちに、礼拝へ集う一人一人に、あなたの恵みが豊かにもたらされますように。

◆人と人との間におられる、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

聖書朗読

聖書の言葉を聞きましょう。使徒言行録19:1〜10の新共同訳と聖書協会共同訳を朗読します。

*日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、配信終了後に聖書箇所のみ記載し、本文をカットしています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

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ClaudiaによるPixabayからの画像

メッセージ

洗礼(バプテスマ)とは、キリスト教の入信式で、公に「神様を信じます」と告白し、信仰生活を支え合う、教会の一員になることを表します。基本的に、何回も受けるものではなく、洗礼を受けて信徒になると、それ以降は、信仰者が信仰者であり続けるための式「聖餐式」にあずかって、その度に、信仰が新たにされるよう、願い求めて過ごします。

 

けれども、新約聖書の中で一箇所だけ、既に洗礼を受けた人たちが、もう一度洗礼を授けられる「再洗礼」の記述が出てきます。それが、先ほど読んだ聖書箇所、使徒言行録19章の冒頭です。パウロはエフェソの町で、イエス様を信じる仲間に出会ったとき、何か違和感を覚えたのか、ドキッとする質問を投げかけます。

 

「信仰に入ったとき、聖霊を受けましたか」……華陽教会で、洗礼を受けた方々は、同じ質問を受けたら、どう答えるでしょうか? はい、確かに私は聖霊を受け、電撃が走るような体験をしました! 洗礼を受けたとき、胸が熱くなりました! 特別な力を与えられて、今までできなかったことができるようになりました!

 

そう答えられる人は、ほとんどいないと思います。使徒言行録には、聖霊を受けた弟子たちが、今まで話せなかった外国の言葉を話したり、病気の人を癒したり、預言したりするようになったことが書かれていますが、「同じようになった」という人は、まずいないと思います。

 

そこまで行かなくても、「何かが降りてきた」「自分の中に入ってきた」という確かな感覚が得られないか、期待する人もいるでしょう。ボワっと背中が熱くなる、急に体が震え出す、自分でも聞いたことのない不思議な言語を話し出す。そういった特別な体験を通して、「聖霊を受けた」と言う人もいれば、「そんな体験できなかった」と言う人もいます。

 

白状すると、私自身も、洗礼を受けたとき、「聖霊を受けた」という感覚はありませんでした。胸が熱くなったり、ビリビリと衝撃が走ったり、涙が止まらなくなったり、不思議なことが起きるのを期待しましたが、そうはなりませんでした。親しい人が洗礼を受けるときに泣いたことはありますが、自分のときは、特に涙も出ませんでした。

 

じゃあ、あのとき受けた洗礼では、聖霊を受けられなかったのか? 自分は今も、聖霊が与えられず、信徒として半人前なんだろうか? 聖霊に為すべきことを示された、後押しされた、動かされたという「確かな感覚」が持てなければ、本当の意味で「信仰者」を名乗ることはできないんだろうか? 自分の洗礼は、不完全なんだろうか?

 

実際、パウロの質問に対し、「いいえ、聖霊があるかどうか、聞いたこともありません」と答えた人々は、「それなら、どんな洗礼を受けたのですか?」と聞き直されます。彼らは「ヨハネのバプテスマです」と答え、改めて「イエスの名によるバプテスマ」を、パウロから受け直すことになりました。

 

すると、再度洗礼を受けた人々に聖霊が降り、異言を話したり、預言をしたりするようになります。このエピソードを聞かされると、自分も洗礼をやり直したら、聖霊を受けられるんじゃないか? 最初に受けた洗礼は不完全なもので、二度目に、本当の洗礼を受け直したら、今度こそ「聖霊を受けた」という自覚を得られるんじゃないか? そう考える人もいるでしょう。

 

実際、「昔、洗礼を受けたけど、もう一度、受け直させてほしい」と言う人は時々います。「今度こそ生まれ変わりたい」「新しい自分になりたい」と思って、そのしるしを求める気持ちも分かります。また、教会の中には、特に教派が違うわけでもないのに「他のところで受けた洗礼は不完全だから、うちで受け直しなさい」と言ってしまうところもあります。

 

「聖霊を受けた」という自覚がない信徒には、特別な感覚が得られない人には、本当の意味で信仰が宿っていない、という扱いをしてしまうところもあります。周りはみんな、聖霊を受けた自覚があるように話しているので、自分もそういうふりをして、内心、焦りながら、苦しみながら、過ごしている信徒もいます。

 

形だけのバプテスマじゃなくて、「聖霊のバプテスマ」を受けたい。弟子たちのように、パウロのように、初代教会の人々のように、特別な体験を通して、信仰を深められたい。そう願うのは、たぶん自然な成り行きです。「自分も聖霊を受けている」という保証を、しるしを、求めることは、今に始まったことじゃありません。

 

士師の時代に、神様から使命を与えられた人たちも、王として立てられた人たちも、預言者にされた人たちも、「本当に、神様が自分についているしるし」を求めて、色んな奇跡や力を与えられてきました。しかし、神の子であるイエス様は、しるしがなくても、しるしが見られなくても、信じることができる者を、「見ないで信じる者」の群れを、養い、導き、成長させてくださることを示してきました。

 

新約聖書に記された、数々の奇跡が見られない現在、神から直接啓示を受けたり、直接幻を見せられたり、直接聖霊の存在を示されたり、そういう「しるし」がないことを不信仰の現れだと思って、必死に「しるし」を求める人もいます。しかし、しるしがなくても信じている、見ないで信じているあなたは、まさにイエス様が求めた信仰者の姿なんです。

 

聖霊とは、イエス様が送ってくださる「神様との結びつき」です。私たちに信仰をもたらし、信仰を支え、信仰を強めてくださる存在です。神様を見ていないのに、イエス様を見ていないのに、聖霊を見ていないのに、不思議な奇跡や業もなく、しるしを見ないで、この方を信じているあなたに、聖霊が送られていないはずありません。

 

ヨハネの洗礼しか、悔い改めのバプテスマしか知らなかった人々に、パウロはイエスの名による洗礼を授けました。それは、イエス様を直接見ていない、直接声を聞いてない、直接触れてもいない人たちに、「イエス様はあなたに訪れ、これからもあなたと共にいる」ということを示すためでした。

 

イエス様と出会いたかった、声を聞きたかった人たちに、あなたが見ないで信じたのは、イエス様が出会ってくれたからなんだ、と気づかせ、聖霊によって、信仰を新たにされ続けるためでした。分かりやすく、聖霊を受けた感覚がなくても、不思議な奇跡を見られなくても、イエス様を求め、信仰生活を送るあなたは、確かに聖霊を受けています。

 

誰一人、聖霊を受けずに信仰者で居続けることはできません。父と子と聖霊の名によるバプテスマを受けたとき、聖霊を受けていない者はいないんです。疑い、迷い、揺れ動きながら信じている、信仰生活を送る人……あなたはちゃんと聖霊を受けています。あなたが受けた洗礼は不完全ではありません。あなたの信仰はこれからも新たにされ続けます。

 

共に、イエス様の教えと約束を改めて思い出しましょう。「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたたがと共にいる」(マタイ28:19〜20)アーメン。

 

とりなし

共に、神様から与えられたとりなしの務めを果たしましょう。本日は『信徒の友』の「日毎の糧」で紹介されている(秋田県由利本荘市の本荘教会)のために、家族のために、友人のために、知り合った人のために、祈りを合わせましょう。

 

◆神様、あなたは祈りに応えて恵みを与えてくださいます。どうか今、私たちがささげる祈りをお聞きください。

◆秋田県由利本荘市の本荘教会のために祈ります。秋田での伝道が誠実に導かれ、教会員一人一人の健康と信仰生活が守られますように。新しく来られる方や、牧会をされる信徒と牧師に、あなたの恵みがありますように。

◆家族のために祈ります。会衆一人一人の家族に、あなたの祝福がありますように。介護や看護を受けている方、されている方に、あなたの支えがありますように。また、親子や姉妹、兄弟、親族との関係で悩んでいる人に、あなたの癒しがありますように。

◆友人のために祈ります。会衆一人一人の友人に、あなたの祝福がありますように。私たちの生き方を通して、あなたの愛と平和を伝えることができますように。病気や怪我、進路や就職、家庭や職場のことで、悩んでいる友人に、あなたの助けがありますように。

◆知り合った人のために祈ります。新しく出会った方々や、これから関係性を深めていく人たちに、あなたの祝福がありますように。互いに信頼を積み重ね、誠実な関係を育むことができますように。

◆今も生きておられ、私たちをとりなしてくださる方、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

讃美歌

マスクをお付けいただき、オンライン賛美歌2番「あなたの内なる人を」(©️柳本和良)を歌います。

 

 

主の祈り

共に、イエス様が弟子たちに教えられた最も基本的な祈りを祈りましょう。讃美歌21の93-5Aです。オンライン賛美歌の後ろの方の4頁にも掲載しています。主の祈り……

 

 

報 告

本日も教会に集まって、また配信を通して、聖書研究祈祷会にご参加くださり、感謝致します。先週の聖書研究祈祷会は、教会に集まった4名、同時に視聴された5名、計9名が参加されました。後から動画や原稿を見て祈りを合わせてくださった方も感謝致します。

 

配信終了後、時間のある方は14:30まで、聖研の質問や感想、キリスト教について気になっていることなど自由に聞ける第二部「分かち合い」の時を開きます。人前でお祈りするのを遠慮したい方は、飛ばしてもらうこともできます。よかったらぜひご参加ください。

 

それではまた、日曜日まで、皆さん一人一人に神様の平和がありますように。