ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『信じていいしるし?』マタイによる福音書12:38〜42

日曜礼拝 2025年5月4日


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説 明

教会にお集まりの皆さん、おはようございます。オンラインで配信を見ている方も、おはようございます。まもなく、10:30から礼拝が始まります。礼拝の最中は、携帯をマナーモードにしていただき、後から来た人も座れるように、席の譲り合いをお願いします。

 

礼拝の中で、立ち上がって賛美歌を歌うところや、立ち上がって祈りを合わせるところもありますが、体が不自由な方やお疲れの方は、座ったままで大丈夫です。賛美歌、聖書、交読文は、備え付けの籠からお使いください。それでは、もうしばらくお待ちください。

 

案 内

華陽教会では、讃美歌委員会と日本聖書協会の著作物使用許諾を得て、日曜日の礼拝を配信と並行して行っています。共に今、教会にいる人も、配信を見ている人も、互いのために祈りを合わせ、神の招きにあずかりましょう。

 

前 奏

(*奏楽者は牧師の案内のあと、前奏を弾き始めます。司式者は前奏の終わり頃に講壇へ立ち、会衆を招く準備をします。招詞の聖書箇所は読み上げる必要はありません。網かけ部分は司会が読むところ、四角部分は会衆が立つところです。(かっこ)は会衆の様子を見て省けるときは省きます。)

 

招 詞

そこには、もはや、ギリシア人とユダヤ人、割礼を受けた者と受けていない者、未開人、スキタイ人、奴隷、自由な身分の者の区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられるのです。(コロサイの信徒への手紙3:11)

 

讃美歌

讃美歌二編26番「ちいさなかごに」を歌いましょう。最後のアーメンは、つけずに歌います。(差し支えない方はお立ちください)

 

お祈り

ご着席ください。共に祈りを合わせましょう。

◆命の源である神様。今日もまた、あなたによって守られて、日曜日の礼拝に集まることができ、感謝致します。どうか今、初めて来た人、久々に来た人、自宅で、施設で、職場で、屋外で、あなたの言葉を受けようとしている人を祝福してください。

◆私たちの神様。先日の日曜日は、定期教会総会が開かれ、今年度の計画と展望について話し合うことができました。どうか今、再任された役員や見えるところと見えないところでご奉仕くださる方々に、あなたの恵みと導きが豊かにありますように。

◆私たちの神様。今年度は、「信仰継承を考える」というテーマで、不幸な宗教2世ではなく、幸福な宗教2世を養い育てることを目指し、新しいスタートをしていきます。どうか今、恐怖ではなく、信頼に基づく誠実な伝道が、ますます豊かにされますように。

◆私たちの神様。今月末には、中部教区と岐阜地区で、それぞれ総会が開かれます。どうか今、地域全体における教会の働きも、誠実に導かれるように、私たちみんなを用いてください。特に、山間部の教会に、あなたの助けがありますように。

◆信仰と希望と愛をもたらす、イエス・キリストのお名前によって、祈ります。アーメン。

 

聖 書

聖書の言葉を聞きましょう。マタイによる福音書12:38〜42の新共同訳を朗読します。会衆席にある新約聖書23頁です。

 

同じく、マタイによる福音書12:38〜42の聖書協会共同訳を朗読します。新しい翻訳の新約聖書22頁です。お持ちでない方は、新共同訳と読み比べながらお聞きください。

*日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、配信終了後に聖書箇所のみ記載し、本文をカットしています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

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交読文

詩編の言葉を読み交わしましょう。詩編116:1〜14、新共同訳交読詩編の132頁です。

『交読詩編』か『讃美歌21』の後ろの方をご覧ください。司会と会衆で交互に読んでいきますので、皆さんは一段下がったところと太字のところをお読みください。(また、Aのところは牧師が、Bのところは会衆がお読みください。ご着席のままで大丈夫です。)

 

讃美歌

讃美歌21の449番「千歳の岩よ」を歌いましょう。最後のアーメンは、つけずに歌います。(差し支えない方はお立ちください)

 

einsichtsweiseによるPixabayからの画像

メッセージ

 神様を信じているのなら、神様がいるという証拠を出せ……神様が救ってくれると言うのなら、本当にそうなるというしるしを見せろ……自分がキリスト教徒で、教会に行っていることを話すと、そのように意地悪を言われることがあるかもしれません。「意地悪」と感じるのは、私たちには、その証拠「しるし」となるものを、見せたいと思っても見せられないからです。

 私たちが信じている神様は、直接姿を見ることも、直接声を聞くことも、直接触れることもできません。神から生まれた「見える神」として、この世に遣わされたイエス様も、十字架につけられて殺され、3日目に復活し、40日後に天へ昇って、「見えなく」なってしまいました。イエス様が、天から送ってくださると約束してくれた聖霊も、はっきりとこの手で触れたり、この目で見たり、「今ここにいる」と表せるものではありません。

 「神様を信じる者は、必ず願いを叶えてもらえる」と言うことができたら、もっと楽かもしれません。「神様に祈ったら病気が治る」「裕福になる」「人間関係が改善される」と言い切れたら、実際にそうなった自分を見せて、「あなたも祈ってみてください」「あなたも信じて願ってください」「そうすれば分かります」と自信を持って言えたでしょう。

 でも、実際には、神様に願ったことが、願ったとおりにはならないことも、たくさんあることを私たちは経験しています。熱心に礼拝へ出ている人でも、真剣に祈りをささげている人でも、信仰心に熱い人でも、病気が治らず、障害が悪化し、お金に困って、生活が苦しくなることを知っています。長年祈り続けてきたことが、最後まで叶えられずに、天へ召されていった人もいます。

 反対に、神様を信じないで、不義と不正にまみれた人が、裁きを受けずに、野放しにされていることもあります。キリストを馬鹿にし、信仰者を迫害し、善人を嘲笑っている人が、多くの富を築いて、長生きするのを見ることも、珍しいわけではありません。彼らがちゃんと裁かれるなら、罰や制裁を受けるなら、それこそが神様の存在するしるし、神様が救いをもたらす証拠だと感じるでしょう。

 でも、なかなかそうはなりません。不正を犯した政治家は、責任を逃れて再任し、罪を告発した者が、かえって攻撃されるのも、度々目にする光景です。「神様がいるなら、悪人が裁かれる奇跡を見せてください」「神様が救ってくれるなら、善人が守られる奇跡を見せてください」そういうふうに言いたくなるのは自然です。神様を信じる私自身も、そういう奇跡を求めて祈りますし、そういう出来事を聞けないか、色んなところで期待します。

 神様を信じてない人が「しるしを見せてくれ」と言うのと、神様を信じたい人、信じている人、信じ続けようとする人が「しるしを見せてください」と言うのは、そんなに違わないのかもしれません。私たちは「信じていいしるし」を探します。この宗教に頼っていいのか、頼っていたらダメなのか、明確な証拠を求めます。たぶん、それ自体は普通のことで、間違ったことではないでしょう。

 神様に選ばれた士師や王や預言者も、本当に、神様が自分を遣わしているという証拠がほしくて、しるしを求めてきました。神様が自分に言葉を預けたこと、使命を授けてきたことを、みんなに信じてもらえるよう、しるしをくださいと願いました。モーセは様々な奇跡を起こす杖が与えられ、ギデオンは乾いた土の上で羊の毛だけが濡れている光景を見させられ、エリヤは触れることなく献げ物が焼き尽くされる奇跡を起こされました。

 神様は、しるしを求める人間に、けっこう何度も、しるしを与えてきたんです。実は、イエス様に向かって「しるしを見せてください」と頼んだ律法学者とファリサイ派の人々も、既に多くのしるしを目にしていました。目が見えず、口の利けない人が癒やされたり、手の萎えた人が癒されたり、体の麻痺した人が癒されたり、律法学者やファリサイ派の人が見ているところで、イエス様は何度も奇跡を行ってきました。

 イエス様に罪を赦され、「起き上がって床を担ぎ、家に帰りなさい」と言われた病人が、言われたとおり起き上がって、家に帰っていくところも、彼らはその目で見ていました。イエス様は、自分を神の子と認めない、律法学者やファリサイ派に、奇跡を見せなかったわけではないんです。しるしを与えなかったわけではないんです。

 実際、一緒に奇跡を見ていた群衆の中には、イエス様を「この人はダビデの子(神に選ばれた王)ではないか」と口にしたり、「こんなことは、今までイスラエルで起こったためしがない」と驚いたり、イエス様に地上で罪を赦す権威を与えられた神様へ賛美をささげたりしていました。

 一方で、律法学者やファリサイ派の人々は、「あの男は悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言って、イエス様の力が神からのものであることを否定していました。イエス様が安息日に病人を癒す奇跡を見せると、そのことを喜ぶどころか、「どのようにしてイエスを殺そうか」と相談をする始末でした。

 彼らがイエス様を認めなかったのは、しるしを見せてもらえなかったからではないんです。自分たちが、赦されていいと思っていなかった「罪人」が、罪の赦しを宣言され、自分たちが、許されていいと思っていなかった「神の掟に背く行為」が、神様の意志に適っていると見せつけられて、受け入れることができなかったんです。

 あの人はまともに働いてこなかったのに、あの人は礼拝に来たこともないのに、あの人は我々と同じように教えを守っていないのに、神様に願いを聞いてもらえるなんて、罪を赦してもらえるなんて、そんなことがあっていいんですか? 我々のように、熱心に聖書を学ぶことも、祈りを口にすることもなかったのに、罪を悔い改めたのか、反省しているかも分からないのに、救われちゃっていいんですか……?

 同じ思いを抱いた人が、まさに、三日三晩、大魚の腹の中にいたヨナでした。彼は、神様から、悪名高いニネベの町へ遣わされ、人々に悔い改めを求めるよう命じられた預言者です。ニネベとは、イスラエルの国を滅ぼした大国の一つ、アッシリアの首都として知られる地名で、イスラエルの民にとっては、付き合いたくない最悪の相手でもありました。

 けれども、「そこに預言者が遣わされる」ということは、「神様が、その人々を悔い改めさせ、滅びを免れさせようとしておられる」ことを意味しました。なぜ、自分が彼らのもとに遣わされ、悔い改めて滅びを免れるように呼びかけなければならないのか、ヨナには理解できません。神様がニネベの人たちに救いをもたらそうとすることが、ヨナには受け入れられません。

 彼は、神様に逆らって、ニネベの都と反対方向の船に乗り、使命から逃れようとします。すると、彼の乗っている船を嵐が襲い、ヨナは海の中へと投げ込まれました。本来なら、溺れ死んでしまうところを、神様が命じた大魚に呑み込まれ、陸地へ吐き出されたヨナは、神様に感謝の祈りをささげて、ニネベの町へと向かいます。

 ヨナはニネベに到着すると、「あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる」と叫んで回り、人々へ神の言葉を伝えていきました。すると、ニネベの人々は神を信じ、悔い改めを示すために、自分たちで断食を呼びかけ、身分の高い者も低い者も粗布をまとって、悪の道から離れていきます。神様が思い直して怒りを静め、滅びを免れるかもしれないと、ニネベの王も布告を出し、人々と共に悔い改めます。

 神様はその様子を見て、宣告した災いを下すのをやめ、人々は滅びを免れますが、ヨナは、ニネベの人たちが救われたことへ大いに不満を持ちました。神様が、ニネベの人々のために、思い直すのを喜べず、宣告どおり、都が滅びるところを見ようとします。彼らが滅びを免れて、救われるのを見るくらいなら、生きているよりも死ぬ方がましです……とまで言い始めます。

 ヨナの態度は、病人がイエス様に癒されるのを喜べなかった、律法学者やファリサイ派の人たちと同じです。我々のように、熱心に聖書を学ぶことも、掟を守ることも十分していなかったのに、たった今悔い改めて、救いを求めた人たちが、本当に赦されていいんですか? 彼らが救われるのを見るくらいなら、そんな救い主なんて、死なせる方がましです……と。

 けれども、神様はヨナに対し、「お前は怒るが、それは正しいことか」と問いかけ、「どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか」と語りかけます。イエス様はファリサイ派の人々に「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である」「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と呼びかけ、嫌われていた徴税人や、罪人と呼ばれる人たちとも、同じ食卓に着かれます。

 それは、律法学者やファリサイ派には、「信じていいしるし」に見えませんでした。自分たちが頼っていい教えだとは思えませんでした。自分たちが拒絶していた、嫌っていた、赦されていいと思えなかった人たちも、一緒に神の国へ迎えられるなんて、ありがたいことと思えませんでした。そんな彼らに、イエス様は「預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」と言います。

 印象的な言葉です。でも、ヨナの時代に、ニネベの人たちに与えられた「しるし」とは何だったのか、実は何だかよく分かりません。なぜなら、ヨナはニネベの人々に「あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる」と言っただけで、本当にそうなるという証拠も、神様がそう言っているという証も見せてないからです。

 ニネベの人たちは、何か奇跡を見せられたわけでも、災いが起きる予兆を見せられたわけでもありません。「あなたたちが悔い改めれば、神様は必ず赦してくれる」という保証さえ与えてもらっていませんでした。にもかかわらず、彼らはヨナの言うことを聞いて、自分たちの手から不法を捨て、罪を赦してもらえるように祈り始めたんです。

 イエス様は、「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしを与えられない」と言いましたが、そもそも、ヨナはニネベの人たちに、しるしを与えていないんです。ヨナ自身は、神様に背いて嵐に襲われ、溺れて死ぬはずだったところを大魚に呑み込まれて救われる、という経験をしますが、町の人には何の奇跡も見せません。

 大魚の腹の中で三日三晩過ごした後、陸地へ吐き出されたヨナは、ニネベの人たちへ、一度も奇跡を、しるしを、与えていないんです。普通、しるしがなければ、救われるために、言うことを聞かなきゃならないと思えないのに、なぜか彼らは、ヨナの言うことを聞くべきだと信じます。信じたところで、救われる保証はなさそうに見えるのに、その手から不法を捨てて、悔い改めを表します。

 イエス様が三日三晩、大地の中にいた後、復活して天に昇った話を聞いた人も、教会で、イエス様が全ての者を罪から救ってくださると語られている人たちも、本当にそうだというしるし、本当に救われるという証拠を与えられているわけじゃありません。ニネベの人たちと同じように、しるしがないのに、イエス様が神の子だと信じ、やがて来たる神の国、天の国に迎えられるまで、悔い改めて、新しい生き方をしようとします。

 「しるしが与えられない」「奇跡を見せてもらえない」というのは、神様に信仰を認めてもらえてないとか、信仰が足りないという話ではないんです。むしろ、何の奇跡も、何のしるしも与えられなかった、悪名高いニネベの人たちが、その信仰を受け入れられ、神様に救ってもらえたように、分かりやすい奇跡を与えられない私たちも、救いにあずかる者として、受け入れられているんです。

 なかなか病気が癒やされず、事態の悪化に苦しめられ、神様に救ってもらえる保証など何一つ与えられてない……それでも、信じないではいられない……教えを聞かずにはいられない……そのような時代に生きる者へ、イエス様は「ここに、ヨナにまさるものがある」と言われます。しるしが与えられないことは、救いのない証拠ではありません。むしろ、しるしがないのに信じるあなたへ、イエス様は希望を語ります。

 裁きの時、あなたは罪に定められる者ではなく、救いにあずかる者となる。神の国から閉め出され、捨てられていく者ではなく、神の国の祝宴に迎えられる者となる……誰かがそれを受け入れなくても、あなたを閉め出そうとしても、イエス様は誰一人、見捨てようとなさいません。捨てていこうとされません。

 どうか今、あなた自身も、信じない者ではなく、信じる者とされますように。新しく、生きる力が与えられ、御国を受け継ぐ者となりますように。主イエス・キリストの平和、神の愛、聖霊の交わりとが、あなたがた一同と共にありますように。アーメン。

 

讃美歌

オンライン賛美歌3番「閉じこもる私たちに」(©️柳本和良)を歌います。(差し支えない方はお立ちください)

使徒信条

教会の信仰を告白しましょう。「使徒信条」讃美歌21の93-4Aです。オンライン賛美歌の後ろの方の2頁をご覧ください。

紹 介

本日も、初めて礼拝に来られた方、初めて配信を見られた方、久しぶりに参加された方と一緒に礼拝にあずかれたことを感謝致します。受付でご了承いただいた方のみ、配信終了後にご紹介させていただきます。ぜひ、これからも一緒に礼拝へ出られると嬉しいです。

 

とりなし

共に、神様から委ねられた、とりなしの務めを果たしましょう。オンライン讃美歌の後ろの方の1頁をご覧ください。

主の祈り

イエス様が教えられた『主の祈り』を祈りましょう。讃美歌21の93-5A。オンライン讃美歌の後ろの方の4頁をご覧ください。差し支えない方は、お立ちください。

聖 餐[1]

御着席ください。ただいまより、聖餐式を始めます。パンとグラスを取る際は、自分の手で触れたものだけを手に取って、他の人の分は触らないようにお願いします。

 

讃美歌

最初に、讃美歌21の81番「主の食卓を囲み」1節を歌いましょう。(ご着席いただいたままで大丈夫です)

 

主の食卓への招き

ようこそいらっしゃいました。今から神の民の祝宴が開かれます。主は言われました。「やがて人々は東から西から、北から南から来て、神の国で共に食卓に着く」

 

また、食事の席で、主は約束されました。「前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは間もなく聖霊によるバプテスマを授けられる」

 

主は、弱っている者を励まし、閉じこもっている者を力づけ、ご自分が用意された祝宴にあずからせてくださいます。この方を信じ、その信仰を公に告白した方は、進んでこの食事にあずかりましょう。また、信仰を告白していない者、共に集った兄弟姉妹も、キリストのとりなしと祝福を受けましょう。

 

感謝と聖別の祈り

世界の創造者、また統治者である神よ、あなたはご自分にかたどって私たちを造り、あなたを愛し、あなたに仕え、全被造物と平和のうちに生きるために、この世界に住まわせられました。私たちがあなたに逆らい、信頼と服従を拒んだ時にも、あなたは私たちをお見捨てにならず、ご自分のものと呼んでくださいました。あなたは私たちを、ご自分の道に立ち返らせるため、御子イエス・キリストを世に遣わしてくださいました。

 

主イエスは、罪人と共に食事をし、その生き方を新たにし、信じない者を信じる者に、滅ぶべき者が永遠の命にあずかるために、十字架にかかってくださいました。そして、死という絶対的な隔たりを超えて、ご自分を見捨てた者たちに現れ、「あなたがたに平和があるように」と宣言してくださいました。

 

私たちの神よ、どうか、今ここにあるパンと杯を受け入れ、御言葉と聖霊によって、聖なるものとしてください。そして、これによって、御子イエス・キリストの尊い体と血にあずからせてください。これにあずかる者たちが、皆キリストの体と一つになり、永遠の命を受け継ぐことができますように。アーメン。

 

陪 餐

ただいまより、パンとぶどう液を配ります。誰でも洗礼を受けて信仰を告白し、この食事にあずかることができます。洗礼式はキリスト者になるための式で、この聖餐式はキリスト者であり続けるための式です。ですから、この食事には洗礼を受け、信仰を告白してからあずかることをお勧めします。

 

まだ、洗礼を受けておらず、信仰を告白していない方は、恐れ入りますが、しばらくお待ちください。皆さんの信仰の自由と、その決断とを尊重させていただきます。なお、洗礼を受けて信仰を告白した方は、進んでこの聖餐にあずかり、パンと杯を受けない方へ、神様の祝福と平和を祈りましょう。(*配餐者は手指の消毒をしてパンと杯を配る)

 

オンライン賛美歌の後ろをめくった「陪餐」のところをご覧ください。パンと杯を共に受けつつ、ここへ招かれた人のために、神の祝福を祈りましょう。

 

(パンを手に取る)

これは、あなたがたのために与えられた主イエス・キリストの体です。あなたのために主が命をささげられたことを覚え、感謝をもってこれを受け、御子イエス・キリストとの交わりにあずかりましょう。

 

パンを手にしている方は、パンを受け取っていない方へ、神様の祝福を祈りましょう。

 「あなたの手が、キリストの愛と平和で満たされますように」

 「アーメン」

食べなさない。あなたがキリストから受けて、あなたから分けられるように。

 

(杯を手に取る)

これは、あなたがたのために流された主イエス・キリストの血潮です。あなたのために主が血を流されたことを覚え、感謝をもってこれを受け、御子イエス・キリストとの交わりにあずかりましょう。

 

杯を手にしている方は、杯を受け取っていない方へ、神様の祝福を祈りましょう。

 「あなたの手が、キリストの愛と祝福で満たされますように」

 「アーメン」

飲みなさい。あなたがキリストから受けて、あなたから溢れ出るように。

 

陪餐後の感謝

共に、感謝の祈りをささげましょう。

愛と憐れみの主である全能の神よ、今日この場に、若者も年長者も、信仰を告白した者も告白していない者も、共にあなたが招いてくださったことを感謝致します。あなたは今、御子イエス・キリストの尊い体と血によって、私たちを養い、この場に連なる全ての者を結び合わせてくださいました。

 

あなたはこれによって、私たちに対する愛と恵みを示し、私たちがキリストの体の手足であること、神の国を受け継ぐ者であることを確かにしてくださいました。今、イエス・キリストを通して、自分の体を生きた聖なる供え物として献げます。どうか聖霊を注いで、私たちをこの世に遣わし、あなたが求めていることを行わせてください。主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

讃美歌

ご着席のまま、讃美歌81番の2節、3節を歌いましょう。

 

以上で、聖餐式を終わります。

 

献 金

感謝の献げ物として献金をします。クリアファイルに挟まれた封筒をご利用ください。献金に、金額に定めはありません。持ち合わせのない方は、空のまま封筒をお入れください。

 

献金の祈り(例)

私たちの神様。今日の御言葉を感謝します。私たちの生き方をささげるしるしとして献金をささげます。あなたの御用のために用いてください。イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。

 

讃美歌

献金の讃美歌512番「主よ、献げます」2節を歌いましょう。

 

讃美歌

讃美歌21の92番「主よ、わたしたちの主よ」を歌いましょう。

 

祝 福

共に、神様の祝福を受けましょう。

 

派 遣

あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。(コロサイの信徒への手紙3:4)

 

祝 福

主があなた(がた)を祝福し、あなた(がた)を守られるように。主が御顔を向けてあなた(がた)を照らし/あなた(がた)に恵みを与えられるように。主が御顔をあなたに向けて/あなたに平安を賜るように。(民数記6:24〜26)

 

報 告

本日も教会に集まって、また配信を通して礼拝にご参加くださり、ありがとうございます。先週の日曜礼拝は、教会に集まった19名、同時に視聴された8名、計27名が参加されました。後から動画や原稿を通して祈りを合わせてくださった方も感謝致します。

 

来週の日曜日は『ここにいてくれたら』と題して、ヨハネによる福音書11:17〜27のお話をする予定です。それではまた、日曜日まで、皆さん一人一人に、神様の平和がありますように。

 

 

[1] 以下、「聖餐式」の式文は、日本基督教団信仰職制委員会 編『日本基督教団 式文(試用版Ⅰ)』日本キリスト教団出版局、2006、2010を参照し、大きく手を加えたものを載せています。