ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『捜してもたどり着かない』 レビ記19:9〜18、ヨハネによる福音書13:31〜35

日曜礼拝 2022年5月8日


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案 内

華陽教会では岐阜県の医療提供体制を受けて、会衆が集まる礼拝を休止し、本日は試験的に、奉仕者6〜7名、教会員3〜4名、新来者1〜4名に調整して、在宅礼拝を行っています。共に今、自宅にいる人も、後から見る人も、聖書の言葉に耳を澄ませ、神の招きにあずかりましょう。

 

前 奏

(*奏楽者は牧師の案内のあと、前奏を弾き始めます。司式者は前奏の終わり頃に講壇へ立ち、会衆を招く準備をします。招詞の聖書箇所は読み上げる必要はありません。網かけ部分は司会が読むところ、四角部分は会衆が立つところです。(かっこ)は会衆の様子を見て省けるときは省きます。)

 

招 詞

わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。(ヨハネの手紙一4:16)

 

讃美歌

マスクをしたままで、旧讃美歌519番「わがきみイェスよ」を歌います。54年版讃美歌をお持ちでない方は、そのままお聞きいただき、心で賛美を合わせましょう。

 

お祈り

(ご着席ください)共に祈りを合わせましょう。

 

◆復活と希望をもたらす、私たちの神様。今日もまた、日曜日の礼拝を始めることができ、感謝いたします。どうか今、ここにいる配信奉仕者と、自宅で、施設で、職場で、屋外で、あなたの言葉を受けようとしている人を祝福してください。

◆私たちの神様。今週、手術を受ける予定の方や、自宅で療養を続けている方、施設や病院で過ごす方に、あなたのお守りがありますように。どうか今、一人一人にあなたの癒しと回復がもたらされますように。

◆私たちの神様。岐阜県の病床使用率や自宅療養者数もだいぶ落ち着いてきましたが、ゴールデンウィークを終えて、再び新規感染者数が増えています。どうか今、感染した方の回復と、日常生活の回復を導いてください。

◆私たちの神様。戦争や災害、病気や衰え、障害や貧困に苦しむ人たちに、あなたの慈しみがありますように。どうか今、困難から解放される、気づきと助けが得られるように、私たちを互いに遣わしてください。

◆愛と平和の源であるイエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

聖 書

聖書の言葉を聞きましょう。レビ記19:9〜18、ヨハネによる福音書13:31〜35(新共同訳より抜粋)

*日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、配信終了後に聖書箇所のみ記載し、本文をカットしています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。交読詩編も同様に後からカットしています。

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交読文

詩編の言葉を読み交わしましょう。詩編34:2〜8(新共同訳交読詩編より抜粋)

『交読詩編』か『讃美歌21』の後ろの方をご覧ください。司会と会衆で交互に読んでいきますので、皆さんは一段下がったところと太字のところをお読みください。(ご着席のままで大丈夫です)

 

讃美歌

マスクをしたままで、讃美歌21の481番「救いの主イェスの」を歌います。讃美歌21をお持ちでない方は、そのままお聞きいただき、心で賛美を合わせましょう。

 

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メッセージ

「互いに愛し合いなさい」……これほど、新しい掟に聞こえない言葉もなかなかないとひねくれた私はつい考えてしまいます。先週、中部学院のキリスト教概論で、学生からこんな質問を受けました。「イエスが教えた隣人愛は、突然、唱えられたんでしょうか? 何らかのきっかけや過程があったのでしょうか?」

 

おそらく、「隣人を自分のように愛しなさい」という有名な教えは、イエス・キリストによって最初に説かれたものだと思って、そう聞いてきたんだと思います。教会に通う私たちも、イエス様から与えられた掟として、キリスト教の黄金律の一つとして、大事にしています。しかし、イエス様が最初に語った、新しい掟かと言うと、実はそうも言えません。

 

何せ、キリストがこの世に誕生する前に書かれた旧約聖書で、この教えは既に出てきているからです。「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」……先ほど、レビ記19章で読み上げたとおり、この教えは、神様から人々に与えられた掟「律法」全体を要約するものとして、昔からよく知られているものでした。

 

隣人(となりびと)と言っても、自分の身内、同胞、国民だけを指しているのではありません。自分の畑へやってきた部外者の一人である孤児や未亡人、自国の外からやってきた寄留者、共同体や社会の行事に参加できない障がい者や貧しい者も、自分自身のように愛する対象、隣人の一人として数えられます。

 

イエス様は、隣人愛の対象を、イスラエルの自国の民から異邦人まで、人類全体へ広げられた……とよく言われますが、そもそも、この掟が繰り返し、神様から語られる度に、家族や親戚、同胞や国民の枠組みを超えて、あなたの隣にいる人を、自分のように愛しなさいと、私たちは教えられてきたんです。

 

イエス様から「互いに愛し合いなさい」と言われた弟子たちも、この教えを「聞いたことのない新しい掟だ」と感じたわけではなかったと思います。小さい頃から、両親や周りの大人たちに何度も言われてきた教えです。にもかかわらず、イエス様はこの教えを口にするとき、こう言われます。「あなたがたに新しい掟を与える」

 

新しい掟……どこが、新しいんでしょう? これを聞いた弟子たちも、イエス様の言葉を書き残した福音書の記者も分かっていました。互いに愛し合うことは、既に、何度も、神様から言われてきた、私たちが聞いてきた言葉だと。それなのに、新しい掟として自分たちに与えられる、新しく「守りなさい」と命じられる。

 

この掟がなぜ新しいのか? それを今考えるとき、私からも、皆さんに聞いてみたいと思うんです。「互いに愛し合いなさい」……この教えを、あなたは「新しい掟だ」と感じるでしょうか? 自分にとって新鮮な、独特な教えに聞こえるでしょうか? それとも、ありふれた言葉だと感じるでしょうか? どこかでよく聞く教えだと思うでしょうか?

 

おそらく、キリスト教徒でなくても、けっこう色んなところで聞いてきたと思います。「互いに愛し合いなさい」「隣人を自分のように愛しなさい」……多少は言葉が違うにせよ、色んな人に言われた言葉、新しくも何ともない教え……だけど、度々、気づかされます。これだけ聞いてきたのに、これだけ言われてきたのに、未だ、わたしにとって「当たり前の教え」ではない。

 

そんなこと言われるまでもありません! とっくの昔から守っています! と胸を張って言えない言葉……今更言われなくても分かっている! ずっと前から理解している! 当たり前にできている! と簡単に頷けない教え……そう、私たちにとって、今も全然、古臭い言葉じゃないんです。

 

古いのは、むしろ私たちです。セクハラやパワハラの概念を理解できない、納得できないまま、過去の生き方を続けてしまう人のように、私たちは、互いに愛し合えない「古い生き方」を続けてきたんです。だから、2000年前に、この言葉を語られた人たちも、今、この教えを聞く私たちも、新しく、受け取らざるを得ないんです。

 

互いに愛し合いなさい……難しいですよね? どこまでいけば、それを実行していると言えるのか分からなくなります。自分を無視する相手を愛せるか? 自分を傷つけ、苦しめ、追いやった人を愛せるか? 間違いを犯した人を愛せるか? 間違いを正せないまま受け入れるのも、愛していると言えるのか? 自分の愛し方は正しいのか?

 

そもそも「愛し合う」って一人じゃ完結できません。一人じゃ達成できません。相手も自分を愛するとき、はじめて「互いに愛し合う」関係が完成します。キリスト教徒でも、よく誤解します。自分さえ、相手を愛していればいいんだと……自分さえ、相手のことを思っていれば、神様に満足されるんだと……いいえ、そんなことはありません。

 

神様が望むのは、あなたとあなたの隣人が、互いに愛し合うことです。あなたが一方的に愛し、相手から蔑ろにされた状態を、神様が満足する関係とは言いません。「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」という掟は、自分を蔑ろにして、回復されないまま、一方的に耐え続けることを命じたものではないんです。

 

どれだけ難しいことを命じられているのか、改めて気づかされるでしょう。「愛し合うことが大事」なんて、誰もが分かっているけれど、「愛し合うこと」は全然当たり前ではないことに、再び直面するでしょう。愛して、愛される関係へ至るには、途方もない道のりが待っています。たどり着けるとは思えないことが多々あります。

 

「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」……そう教えられたイエス様を真似しようとしても、同じように愛するなんて不可能です。だってこの方は愛する人たちのために自分の命をささげました。一方的にささげるだけなら、自分を犠牲にすれば真似できると、考える人もいるでしょう。

 

しかし、イエス様は自分自身をささげた後、復活して、自分を捨てた弟子たちとの関係を回復しに行きます。死という隔たりによって、愛に応えることができなくなった弟子たちへ、愛し合う道を作りに行きます。そんなこと、さすがに真似できるとは思えません。たとえ、誰かのために自分を犠牲にすることができても、失われた自分と相手との関係を回復することはそう簡単にできません。自分か相手を捨てて終わりです。

 

でも、神様が命じ、イエス様が新しく与えた掟は、そこで終わることをゆるしません。一方的に愛すること、一方的に愛されること、どちらかが犠牲になったままで終わらせることをゆるしません。ほとんど不可能に見える、たどり着けると思えないところへ向かわせます。「互いに愛し合いなさい……」

 

最初に、愛し合う生き方を実現されたイエス様は、現在、私たちの目には見えません。後を追おうとしても見つけられません。捜してもたどり着けません。どうしたら、イエス様と同じ生き方ができるのか、同じところへ行けるのか、私たちは悩み続けます。愛し合う道を迷いながら、揺れ動きながら探し続けます。

 

このままたどり着かないと思うかもしれません。無理だと感じるかもしれません。私もそうです。自分だけでなく、愛し合えなかった人たちを見てきました。空回ったり、間違えたり、立ち止まった人たちを見てきました。でも不思議と、この教えを捨てられません。互いに愛し合うことを諦められません。だって、知っているからです。

 

自分のもとへ来ることができなかった、たどり着けなかった人たちにも、イエス様の方から会いに来ることを……十字架につけられたとき、墓に収められたとき、来ることのできなかった人たちにも、この方は自ら会いに行って、関係を回復されたことを。どんなに愛し合うことが難しい人たちにも、この方は出会いに来ることを。

 

あなたと、あなたが愛せない人、あなたと、あなたを愛せない人の間にも、イエス様は立たれます。自分の生き方を見失った人のもとに、この方は自らやって来ます。彷徨う人が彷徨ったまま、立ち止まった人が立ち止まったまま、隔たれた人が隔たれたままにならないように、イエス様は道を作り続けます。「互いに愛し合いなさい……」

 

この方が作った道、この方が向こうからやって来る道を、私たちも進んでいきましょう。

 

讃美歌

オンライン賛美歌11番「どうか平和の主が」(©︎柳本和良)を3回繰り返して歌います。オンライン賛美歌の楽譜は、著作者の許可を得て掲載しています。

 

 

使徒信条

教会の信仰を告白しましょう。「使徒信条」讃美歌21の93-4Aです。(オンライン賛美歌の裏面をご覧ください)

 

使徒信条93-4A

我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがへり、天に昇り、全能の父なる神の右に坐したまへり、かしこより来りて、生ける者と死ねる者とを審きたまはん。我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交はり、罪の赦し、身体のよみがへり、永遠の生命を信ず。アーメン。(*着席のジェスチャー)


使徒信条93-4B

わたしは、天地の造り主、全能の父である神を信じます。わたしはそのひとり子、わたしたちの主、イエス・キリストを信じます。主は聖霊によってやどり、おとめマリヤから生まれ、ポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られ、よみにくだり、三日目に死人のうちからよみがえり、天にのぼられました。そして全能の父である神の右に座しておられます。そこからこられて、生きている者と死んでいる者とをさばかれます。わたしは聖霊を信じます。きよい公同の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、からだのよみがえり、永遠のいのちを信じます。アーメン。

 

紹 介

本日も、初めて配信を見に来た方、久しぶりに参加された方と、一緒に礼拝にあずかれたことを感謝致します。互いに顔を合わせることができないときも、礼拝を通してつながっている一人一人に、神様の祝福がありますように。

 

とりなし

共に、神様から委ねられた、とりなしの務めを果たしましょう。オンライン讃美歌の後ろから2ページ目をご覧ください。

 

司会:神様、あなたは祈りに応えて恵みを与えてくださいます。どうか今、わたしたちがささげる祈りをお聞きください。

司会:世界の国民と政府のために祈ります。

会衆:主よ、政治に携わる人々に、知恵と勇気と良心を与え、全ての場所に、自由と平和をもたらしてください。

司会:世界に広がる全ての教会のために祈ります。

会衆:主よ、教会を聖霊によって力づけ、その信仰を新たにし、私たちの一致と結びつきを強めてください。

司会:教会員のために祈ります。

会衆:主よ、私たち全てを、御言葉によって豊かに養い、あなたの愛と平和を伝える者として送り出してください。

司会:今日ここに出席できなかった人のために祈ります。

会衆:主よ、病気や衰え、仕事や様々な事情のために、ここに見えない人たちを、あなたが癒し回復してください。

司会:身近な人のために祈ります。

会衆:主よ、私たちの家族や友人、仲間たちが、あなたの愛を知れますように、私自身を用いてください。

司会:幼稚園、教会学校、地域の子どもたちを覚えて祈ります。

会衆:主よ、子どもたちの健康と安全を守り、疲れを癒し、安らぎと成長をもたらしてください。

司会:苦しんでいる人のために祈ります。

会衆:主よ、病気や怪我、悩みや苦しみを抱える人たちに、あなたからの平安と、必要な助けを与えてください。

司会:今も生きておられ、とりなしてくださる方、主イエス・キリストのお名前によって祈ります。

一同:アーメン。

 

主の祈り

共に、イエス様が教えられた『主の祈り』を祈りましょう。讃美歌21の93-5A。(オンライン讃美歌の裏面をご覧ください)

 

主の祈り93-5A

天にまします我らの父よ。
願わくは御名をあがめさせたまえ。
御国を来たらせたまえ。
みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧を今日も与えたまえ。
我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。
我らを試みにあわせず、悪より救いだしたまえ。
国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり。
アーメン。


日本聖公会/ローマ・カトリック教会共通口語訳

天におられるわたしたちの父よ、み名が聖とされますように。
み国が来ますように。
みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。
わたしたちの日ごとの糧を、今日もお与えください。
わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。
わたしたちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください。
国と力と栄光は、永遠にあなたのものです。アーメン。

 

献 金

感謝の献げ物として献金をします。礼拝のライブ配信に参加されている方は、また後日、教会に来られたときにおささげください。

 

献金の祈り(例)

愛と慈しみに満ちた私たちの神様。感謝と喜びをもって、ここに集めた献金と、私たちの生き方をおささげします。どうか、私たちの日々の生活によって、恵みの主である、あなたがあがめられますように。主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

讃美歌

マスクをしたままで、献金の讃美歌512番「主よ、献げます」の2節を歌いましょう。

 

讃美歌

オンライン賛美歌10番「祝福」を歌いましょう。

 

 

祝 福

共に、神様の祝福を受けましょう。

 

派 遣

あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。(ヨハネによる福音書13:34)

 

祝 福

どうか、平和の主御自身が、いついかなる場合にも、あなたがたに平和をお与えくださるように。主があなたがた一同と共におられるように。(テサロニケの信徒への手紙二3:16)

 

報 告

本日も配信を通して、日曜礼拝にご参加くださり、感謝いたします。先週の在宅礼拝は、配信奉仕者7名、同時に視聴された14名、計21名が参加されました。後から配信や原稿を見て、祈りを合わせてくださった方も感謝いたします。

 

今週から、在宅礼拝期間中も、奉仕者6〜7名、教会員3〜4名、新来者1〜4名に調整して、合計10〜15名以内になるよう、個別に声をかけて、試験的に集まっています。来週の礼拝については、この後、役員会で検討し、全体で集まれるかを協議します。

 

決定次第、教会員への連絡網とホームページ、各SNSの公式アカウントでお知らせします。また日曜日まで、皆さん一人一人に神様の平和がありますように。