ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『神様が話を聞いてくれません!』 出エジプト記6:1〜13

聖書研究祈祷会 2018年4月18日

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 【神の選びを疑う時】

 神様は時々、無茶振りとしか思えないことを人に命じられるときがあります。有名な出エジプト記に出てくるモーセに対してもそうでした。エジプトで奴隷となっていたイスラエルの民ヘブライ人を、ファラオの元から連れ出して、新しい土地へ連れて行けという命令……もちろん、この無茶な命令にモーセは必死に抵抗します。

 

 「私なんかがあなたの言葉を伝えても、みんな『お前などに神が現れるはずがない』と言うでしょう」「私はたいへん口下手なのです。誰か他の人を遣わしてください」……なんやかんやと理由をつけて、彼は使命を断ろうとします。ところが、神様はモーセの訴えなんて聞いてくれません。

 

「分かった、それならお前の兄弟アロンも一緒に遣わそう。私は彼が雄弁なことを知っている。私の言うことをアロンに話し、彼から人々に語らせなさい」……それならもういっそ、自分ではなく直接アロンを遣わしてくださいと、モーセは言いたかったに違いありません。しかし神様は、どういうわけか意地でもモーセを遣わしたかったようです。しぶしぶ、彼は命令に従います。

 

 4章の終わりで、アロンと共に遣わされたモーセは、イスラエルの人々の長老を全員集め、神様から言われたことを何もかも話します。さらに、神様から与えられていたしるし、おそらく杖を蛇に変える奇跡を見せたので、集められた民はすぐさまモーセの言うことを信じました。その場で、彼らは自分たちを救い出してくれるという神様を礼拝します。

 

 そう、民は一旦モーセの言うことを信じるのです。「あっ、思ったよりもあっさり自分の言うことを信じてくれた」……モーセも一瞬胸を撫で下ろしたことでしょう。しかし、そう思ったのも束の間、エジプトの王ファラオとの交渉に入ると、様々な困難がモーセとイスラエルの民を待ち構えていました。

 

 ファラオはイスラエルの長老たちと違って、そう簡単にモーセの言うことを聞き入れてくれなかったのです。日に日に数を増していくイスラエル人が、いつ自分たちエジプト人に反旗を翻すか分からない……そんな状況で、「わたしの民を去らせてくれ」と言ってきたモーセの要求は、何かよくない企みがあるように映ったのでしょう。

 

 結果から言えば、モーセは最初のファラオとの交渉に失敗します。さらにここから、ファラオだけでなく、一旦はモーセの言うことを信じたイスラエル人たちも皆、彼の言うことを聞かなくなっていきます。そしてモーセ自身も、神様の言うことに再び抵抗を示すのです。

 

 どう考えても、エジプトからイスラエル人を脱出させる試みが成功するとは思えない……そんな状況が整ってしまいます。みんなして言います。「こんなことで我々は本当に救われるのですか? 無理でしょう?」と……しかし、神様は話を聞いてくれません。誰の言葉にも折れません。繰り返し失敗している交渉を続けるよう命じるのです。

 

 自分の言葉を信じない人々へ、どうするべきかを語り続ける……そんな堪え難いことを行っている神様の姿が、たった今読んだ聖書の箇所に刻み付けられています。順に、今日読んだところの少し前から、その様子を追っていきたいと思います。

 

【ファラオと追い使う者たちの反応】

 さて、モーセとアロンがファラオとの交渉を始めた様子は、5章の1節から記されていました。ここでは、二人がファラオと直接やりとりしたように描かれていますが、イスラエル人がファラオの面前に立って言葉を交わすなんて、まず有り得ないことでした。実際には、ファラオの言葉を取り次ぐエジプトの高官がいて、その人を通して交渉していたのでしょう。

 

 二人はファラオに向かってこう願い出ます。「イスラエルの神、主がこう言われました。『わたしの民を去らせて、荒れ野でわたしのために祭りを行わせなさい』と」。当然、ファラオは「うん」とは言いません。エジプト人にとって、ファラオは神々の子孫であり、いわゆる現人神(あらひとがみ)でした。神である自分に向かって、「私たちは別の神に従う」と言われたわけです。面白くはありません。

 

 ファラオはこう返します。「主とは一体何者なのか。どうして、その言うことをわたしが聞いて、イスラエルを去らせねばならないのか。わたしは主など知らないし、イスラエルを去らせはしない」……そこで、モーセとアロンは語気を強めて再び願い出ます。「ヘブライ人の神がわたしたちに出現されました。どうか、三日の道のりを荒れ野に行かせて、わたしたちの神、主に犠牲をささげさせてください。そうしないと、神はきっと疫病か剣でわたしたちを滅ぼされるでしょう」

 

 現人神であるとされたファラオに向かって二回も「わたしたちの神に従わせてください」と言ったのですから、その場で背信罪に問われてもおかしくありません。しかし、ファラオはモーセたちの言葉に対し、半分呆れたように言い放ちます。「モーセとアロン、お前たちはなぜ彼らを仕事から引き離そうとするのだ。お前たちも自分の労働に戻るがよい」……二人はその場で処刑されるという最悪の展開を免れましたが、その後思わぬところにシワ寄せがやってきてしまいます。

 

 ファラオは5章の6節で「民を追い使う者」と「下役」たちにこう命じました。「これからは、今までのように、彼らにれんがを作るためのわらを与えるな。わらは自分たちで集めさせよ。しかも、今まで彼らが作ってきた同じれんがの数量を課し、減らしてはならない。彼らは怠け者なのだ。だから、自分たちの神に犠牲をささげに行かせてくれなどと叫ぶのだ。この者たちは、仕事をきつくすれば、偽りの言葉に心を寄せることはなくなるだろう」。

 

 「民を追い使う者」とはエジプト人の役人で、「下役」はその下で徴用されているイスラエル人たちのことです。エジプトの役人が直に労働を監督するのでなく、労働者たちと同族のイスラエル人たちを下役に徴用することで、不満や苦情を封印していたのでしょう。イエス様の時代でも、イスラエルを支配していたローマ帝国が、同じイスラエル人に税の取り立てを行わせていたことが思い出されます。

 

 5章の10節で、民を追い使う者と下役の者たちは出て行って、ファラオからの言葉を人々に伝えました。「今後、お前たちにわらは一切与えない。お前たちはどこにでも行って、自分でわらを見つけて取って来い。ただし、仕事の量は少しも減らさない」……この時代、レンガと言えば日干しレンガが普通でした。私たちがイメージする土を焼いたレンガのように硬くはないので、粘土の中にわらを加えることで強度を強くしたのです。

 

 しかし今までは、エジプトから提供されるわらを使ってレンガを作ればよかったのに、これからはわらの収集もイスラエル人たちの手で行わなければいけません。エジプトの役人たちは「わらがあったときと同じように、その日の割り当てをその日のうちに仕上げろ」と言って急き立てますが、労働量が一気に増えたのでそんなわけにはいきません。

 

 間もなくエジプトの役人たちは「どうして、今までと同じ決められた量のれんがをその日のうちに仕上げることができないのか」と言って、イスラエルの下役たちを打ち叩くようになります。イスラエル人の強制労働を、同じイスラエル人の下役たちに監督させ、ノルマを達成できないと懲らしめる……大国が小国を支配する典型的なやり方で、イスラエルの人々はどんどん追い詰められてしまいます。

 

【下役たちの反応】

 とうとう、耐えきれなくなった下役たちはファラオのもとに行って訴えました。「どうしてあなたは僕たちにこのようにされるのですか。僕らにはわらが与えられません。それでも、れんがを作れと言われて、僕らは打たれているのです。間違っているのはあなたの民の方です」

 

 ここも、下役たちが直接ファラオに訴えているように見えますが、やはり間に高官が立ってやりとりしていたのでしょう。後にエジプトを脱出したイスラエル人たちも、荒れ野でモーセに対して同じように神様に訴えています。そして、彼らに無慈悲な王の言葉が伝えられます。

 

 「この怠け者めが。お前たちは怠け者なのだ。だから、主に犠牲をささげに行かせてくださいなどと言うのだ」……下役たちは悟ります。モーセとアロンがファラオに向かって「荒れ野で犠牲をささげてさせてください」なんて言ったから、自分たちはこんな仕打ちを受けているのだと。さらに、ファラオは続けます。「すぐに行って働け。わらは与えない。しかし、割り当てられた量のれんがは必ず仕上げよ」

 

 イスラエルの人々の下役たちは、エジプトの役人に立ち向かうことができないと知って、自分たちが苦境に立たされたことを悟ります。「モーセとアロンがファラオとの交渉に失敗したから、大変なことになってしまった」「神様が自分たちを救い出すなんてもう信じられない」「このままでは自分たちはノルマを達成できずに打ち叩かれて死んでしまう」……そしてちょうど、退出してきた自分たちの前にモーセとアロンが待ち受けていました。

 

【モーセの反応】

 下役たちは二人に向かって抗議をします。「どうか、主があなたたちに現れてお裁きになるように。あなたたちのお陰で、我々はファラオとその家来たちに嫌われてしまった。我々を殺す剣を彼らの手に渡したのと同じです」……神様の命令に従ってその通りにしたら、ものの見事に失敗し、モーセは同族から反感を買ってしまいました。今や信頼はダダ落ちです。ほとんど呪いに近い言葉が自分に向かって吐き出されます。

 

 モーセは下役たちに何も返せません。彼自身も神様に向かって訴えます。「わが主よ、あなたはなぜ、この民に災いをくだされるのですか。わたしを遣わされたのは、一体なぜですか。わたしがあなたの御名によって語るため、ファラオのもとに行ってから、彼はますますこの民を苦しめています。それなのに、あなたは御自分の民を全く救い出そうとされません」。

 

 モーセは心の中で繰り返し呟いていたでしょう。「だから言ったのに……」「こんな結果になるなら、なぜ私を……」と。自分は神様に選ばれたけれど、本当はこの使命にふさわしくなかったんじゃないか? 自分なんかに使命を託した神様が間違っていたんじゃないか? 神様の選びに対して、疑いの気持ちさえ芽生えてきます。

 

 ところが神様はモーセの話を聞きません。いえ、聞いているのですが、正面から取り合ってくれません。彼に現れたとき最初に言ったことをもう一度語るのです。「今や、あなたは、わたしがファラオにすることを見るであろう。わたしの強い手によって、ファラオはついに彼らを去らせる。わたしの強い手によって、ついに彼らを国から追い出すようになる」。

 

 なぜ、神様の言うとおりにしているのに、イスラエルの人々がかえって苦しい思いをしてしまうのか……それには一切答えてくれない返事です。なぜ、ファラオとの交渉に失敗するような自分を遣わされるのか、それにも答えてはくれません。神様はただ、自分の言ったことは本当に実現するとだけ語ります。

 

 さらに神様は、念押しするようにこの約束を繰り返すのです。6章に入って、6節で神様はこう言われます。「それゆえ、イスラエルの人々に言いなさい。わたしは主である。わたしはエジプトの重労働の下からあなたたちを導き出し、奴隷の身分から救い出す。腕を伸ばし、大いなる審判によってあなたたちを贖う」と。

 

 モーセはそのとおり、イスラエルの人々にもう一度語りますが、彼らは厳しい重労働によって、既に聞く意欲を失っていました。誰もモーセの言うことを聞いてはくれません。最初にモーセとアロンが語ったことを聞き、信じて神様を礼拝した人たちも皆、信じなくなってしまったのです。

 

 ところが、完全アウェイのぼっちになってしまったモーセに向かって、神様は空気を読まずに言われます。「さあ、エジプトの王ファラオのもとに行って、イスラエルの人々を国から去らせるように説得しなさい」……結果は見えています。既に失敗しているのです。応援してくれるイスラエル人もいません。それどころか、再びファラオを怒らせたら、またみんなに飛び火がいくかもしれません。あるいは、今度こそ自分も殺されてしまうかもしれません。

 

 モーセは神様に訴えます。「御覧のとおり、イスラエルの人々でさえわたしに聞こうとしないのに、どうしてファラオが唇に割礼のないわたしの言うことを聞くでしょうか」……当然の疑問です。実際、この後の有名な展開はよく知られているように、ファラオはモーセの言葉を最後の最後まで聞いてくれないのです。

 

 にもかかわらず、神様はもう一度同じ命令を繰り返すだけです。「イスラエルの人々をエジプトの国から導き出せ」と。

 

【神様の応答】

 今、手元に聖書があって、出エジプト記の結末まで読むことのできる私たちは、最終的に彼らがどうなったのかをすぐ知ることができます。本当に、神様の言ったとおり、ファラオはイスラエルの人々を追い出し、奴隷となっていた民は解放されるのだと。新しい土地へ行って、そこに入ることができるのだと。

 

 しかし、自分たちの未来を知らないモーセやイスラエルの民は違います。彼らは不安でいっぱいです……そう、実は出エジプト記を見ていると、「奴隷となっているイスラエルの民を解放する」という神様の言葉に、最初は誰一人乗り気でなかったのです。「最初は」と今言いましたが、本当は最初どころか、ほとんど全編にわたって、神様の計画に賛同する人は現れません。皆途中で何度も「だから言ったのに……」「なぜこんなことをしたのです」と不平不満を呟きます。

 

 挙げ句の果てに、自分が民の指導者に選んだモーセにまで、そう言われ続けるのです。助けようとしている相手に、どこまでも信じてもらえない。むしろ責めの言葉ばかりを投げつけられる……私たちなら、そんなときどうするでしょうか? 繰り返し自分を刺してくる一人一人の言葉にムッとし、辛くなり、「分かった、そんなに言うならもう勝手にしろ」そう言ってしまいたくならないでしょうか?

 

 しかし、神様は彼らがどれだけ不平不満を言っても聞きません。相変わらずこう告げるのです。「わたしはエジプトの重労働の下からあなたたちを導き出し、奴隷の身分から救い出す」と……「神様は話を聞いてくれません」と言いましたが、実際には、話を聞かなかったのは誰だったのでしょうか? 自分の言うことを疑い続ける人々に、最後まで付き合ったのは誰だったのでしょうか?

 

 「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである」……3章の12節で、神様がモーセに約束した言葉、それはどこまでも真実で偽りのない言葉でした。失敗や逆境によって、自分に自信をなくしているとき、自分を選んでくれた神様に疑いの目を向けるとき、このことを思い出したいと思います。そして、神様が命じていることは何か、もう一度聞こうとする姿勢を、取り戻し続けていきたいと思います。