ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

岐阜市の華陽教会にいる牧師個人のブログ

人のこと言えない…… 出エジプト記9:13〜35

聖書研究祈祷会 2018年4月25日 

【十の災い】

 イスラエル人を奴隷にしていたエジプト人が、彼らを解放せよという神様の言葉を拒否したために、十の災いを下される……人々を虐げていた者たちが罰を受ける、そんな痛快な出来事が出エジプト記には記されています。エジプトは、ナイル川の水を血に変えられるという災いから始まって、国中を蛙に襲われ、ブヨに襲われ、アブに襲われてしまいます。さらに、家畜は疫病で死に絶え、人々も腫れ物に悩まされます。そして、今回読んだところでは、7つ目の災いが下されました。

 

 ついに、神様は天候まで操り始めたのです。エジプトと言えば、砂漠に囲まれた暑い地域で、雪が降るなんてありえない常夏の国というイメージです。しかし、そんなところに神様は雹を降らせます。雹と言えば、雪よりも大きい直径5ミリ以上の氷の粒、大きいものだと握り拳くらいになります。しかも神様は、恐ろしい雷まで一緒に投下します。その勢いはかなり強く、野の全ての木を打ち砕くほどでした。

 

 エジプトは壊滅的なダメージを受けます。既に、エジプト人の所有していた馬、ろば、らくだ、牛、羊といった家畜は疫病で皆死んでいました。いったい、他に何の家畜がいたというのか分かりませんが、残りの家畜も、雹に打たれて死に絶えてしまいます。人々もまだ腫れ物が癒えないうちから雹に打たれ、まさに「泣きっ面に蜂」という状況です。さらに、もうじき収穫を迎える時期だった亜麻と大麦は、雹による被害で壊滅してしまいました。衣服の材料、食料の多くが失われ、エジプト存続の危機と言っても過言ではありません。

 

 ちょっとやりすぎじゃないかと思える災いに、さすがのファラオも根をあげて、モーセに言います。「今度ばかりはわたしが間違っていた。正しいのは主であり、悪いのはわたしとわたしの民である。主に祈願してくれ。恐ろしい雷と雹はもうたくさんだ。あなたたちを去らせよう。これ以上ここにとどまることはない」

 

 そこで、モーセは言います。「町を出たら、早速両手を広げて主に祈りましょう。雷はやみ、雹はもう降らないでしょう。あなたはこうして、大地が主のものであることを知るでしょう」……これでようやく、イスラエルの民はエジプトから解放され、出ていけるのかと思いきや、モーセが神様に祈って雹が止むと、ファラオは再び心変わりします。あれだけ怖い目に遭ったのに、死にかけるような目に遭ったのに、ファラオはモーセとの約束を破って、またイスラエルの人々を去らせなかったのです。

 

【かたくななファラオ】

 実は、これまでもファラオは、神様から災いが下される度に「イスラエルの民を去らせてもいい」と言っては、撤回することを繰り返していました。蛙がエジプトの全土を覆ったときには、「主に祈願して、蛙がわたしとわたしの民のもとから退くようにしてもらいたい。そうすれば、民を去らせ、主に犠牲をささげさせよう」とモーセに言います。しかし、いざ蛙が退けられてしまうと、ファラオは再び心を頑迷にして、モーセの言うことを聞かなくなります。

 

 エジプト全土をアブに襲われたときには、「わたしはあなたたちを去らせる。荒れ野であなたたちの神、主に犠牲をささげるがよい。ただし、あまり遠くへ行ってはならない。わたしのためにも祈願してくれ」とモーセに言います。この時にはモーセも「二度と、主に犠牲をささげるために民を去らせなさいなどと言って、我々を欺かないでください」と念押しします。しかし、結局アブがいなくなってしまうと、ファラオはまた心を頑迷にして民を去らせません。

 

 家畜が疫病に襲われたときも、人々が腫れ物に悩まされたときも、ファラオはイスラエルの民を去らせませんでした。なんて懲りない人でしょうか! 聖書には繰り返し、彼が「かたくなな心」であったことが記されています。何度も酷い目に遭っているのに、死ぬような目に遭っているのに、自分だけでなくエジプト人みんなが被害を受けているのに、彼はかたくなです。同じ過ちを繰り返します。話を聞いている私たちは、彼が非常に愚かな人物に見えてきます。

 

 事実、家臣たちの中には、ファラオよりもまだ賢く見える人が何人かいました。雹を降らせる前、モーセがファラオに向かって「今、人を遣わして、あなたの家畜で野にいるものは皆、避難させるがよい。野に出ていて家に連れ戻されない家畜は、人と共にすべて、雹に打たれて死ぬであろう」と言ったとき、速やかに自分の僕と家畜を避難させた者たちがいたのです。彼らははっきり「主の言葉を畏れた者」と20節に書かれています。他の「主の言葉を心に留めなかった者」たちは、僕と家畜を野に残していたため、皆被害を受けてしまいました。

 

 エジプト人だったから、皆神様に従わなかったわけではないのです。むしろ、イスラエル人のように、神様を恐れて行動する者も確かにいたのです。それはそうでしょう。繰り返しモーセから警告を受け、彼の言うとおり次々災いが起きるのを見ていたのですから。この次の10章で、いなごの災いが下されたときも、家臣の一人が勇気を出して、ファラオに意見します。「即刻あの者たちを去らせ、彼らの神、主に仕えさせてはいかがでしょう。エジプトが滅びかかっているのが、まだお分かりになりませんか」

 

 ファラオに意見するということは、下手をすれば処刑される危険のある行動です。それでも、神様を畏れて警告せずにはいられない人間が、エジプト人の中にも、ファラオの家臣の中にもいたのです。ファラオがどれだけ頑固で愚かだったのか、より鮮明になります。しかし、なぜ彼はここまで頑迷だったのでしょう? 彼の心がこれほどまでにかたくなになる要因は何だったのでしょう?

 

【ファラオをかたくなにする神様】

 実は、今日読んだところの直前、9章12節に、私たちの知りたいことが書かれていました。「しかし、主がファラオの心をかたくなにされたので、彼は二人の言うことを聞かなかった」。同じことが8章15節でも言われています。「ファラオの心はかたくなになり、彼らの言うことを聞かなかった。主が仰せになったとおりである」……主が仰せになったこと、それは7章2節でモーセに向かってこう言われている言葉です。

 

「わたしはファラオの心をかたくなにするので、わたしがエジプトの国でしるしや奇跡を繰り返したとしても、ファラオはあなたたちの言うことを聞かない」……いやいや神様、何やってくれているのですか? という話です。ファラオを説得して、イスラエルの民を脱出させようとしているのに、それを命じた神様が、なぜファラオの心をかたくなにするのか? 思わず声を荒げて問いただしたくなりそうです。

 

 出エジプト記は、複数の資料を組み合わせて書かれたと言われています。一方の資料は人間の自由意志と責任を、もう一方の資料は神様の主権に強調点を置いています。そのため、ファラオが心をかたくなにしたことについて、その責任は彼自身にあると言うことも、神様が操作したと言うこともできてしまいます。非常に厄介です。できれば、神様が人間の心を悪い方へ操作することがあるなんて、考えたくありません。ここはなるべく、ファラオ個人のせいにしたいところです。

 

 しかし、もしも「神様がファラオの心をかたくなにした」という言葉を、文字通り受け取ったなら、私たちは、そこから何を知ることができるのでしょう? 実は、たいへん重要なことを気づかされるのです。それは、神様に心をかたくなにされ、過ちを繰り返してしまったファラオの姿が、自由な意志を持ちながらも、自ら過ちを繰り返してしまうイスラエルの民、モーセの姿を映し出す、鏡のようになっているという事実です。

 

【ファラオとイスラエル

 神様の言うことに従わないで、雷と雹で死にかけたにもかかわらず、なお神様に背いてしまったファラオ……その姿は、神様に選ばれた直後のモーセと似ています。モーセは、神様からイスラエルの民を導き出すよう命じられ、一旦は了承するものの、繰り返し、「やはり私には荷が重いです」「誰か他の人を」と断ってしまいます。神様は、モーセから不安を拭い去るため、彼にいくつもの奇跡を見せます。しかし、それでもモーセは渋ったため、さすがに神様も怒りを発します。

 

「あなたにはレビ人アロンという兄弟がいるではないか。わたしは彼が雄弁なことを知っている……彼によく話し、語るべき言葉を彼の口に託すがよい」そう言って、怒りながら協力者まで与えました。しかし、それに対するモーセの返事は記されません。彼は黙って、エジプトにいるイスラエル人たちのもとへ向かい始めます。あまり、よろしい態度とは言えません。神様もカチンときたのでしょうか? 途中モーセの前に現れて、彼を殺そうとされます。

 

 しかし、一緒にいたモーセの妻ツィポラによるとっさの機転によって、彼は何とか助かることができました。モーセもファラオと同じく、神様の命令を拒否し続けた後、「死にかける」という経験をしていたのです。ところが、再び神様からファラオと交渉するよう命じられたとき、彼はなお抵抗し、ためらいを見せます。それをやって死にかけた後にもかかわらず……まるで、十の災いで死にかけながらも繰り返し神様の言うことを拒否する、あのファラオのように。

 

 イスラエルの民も同じです。彼らは次々とエジプトに災いが下されるのを見てきたのに、この後繰り返し神様に文句を垂れます。腹が減った、喉が渇いた、肉が食べたい……そんな不平不満を呟く彼らに、神様はマナを降らせ、水を湧きいでさせ、うずらの肉を与えます。しかし、彼らはモーセが出かけている間に金の子牛の像を造り、それを自分たちの神として祀ってしまうのです。

 

 怒った神様に、エジプトを脱出したイスラエル人の、実に半分が殺されてしまいます。残された民は、神様の言うことに「従います」と告白しますが、その後の歴史を見ればすぐ分かるように、彼らは繰り返し神様の言うことを聞かなくなります。まるで、心をかたくなにされたファラオが「民を去らせろ」と言っては、それを撤回してきたように……しかし、モーセイスラエルの民も、ファラオと違って、神様に心をかたくなにされたわけではありません。自由な意志を持っているにもかかわらず、そうしてしまったのです。

 

 だからこそ、モーセは30節でファラオにこう言ったのかもしれません。「あなたもあなたの家臣も、まだ主なる神を畏れるに至っていないことを、わたしは知っています」……この言葉は、二通りに受け取ることができます。一つは、神様がファラオの心をかたくなにしていると聞いていたからこう言った。もう一つは、自由な意志を持っている自分たちでさえ、なかなか神様を畏れるに至らなかったから、ファラオがそう簡単に神様を畏れるとは思えなかった。

 

 いずれにしても、モーセイスラエルの民は、ファラオとたいして変わらない、かたくなな心を持っていたのです。さらに、よくよく考えてみれば、イスラエル人はファラオの許可が降りるまでエジプトを出ようとしませんでしたが、この許可は果たして必要だったのでしょうか?

 

【ファラオをかたくなにしたのは?】

 そもそも、神様はなぜファラオの許可を取って、エジプトを脱出するようモーセに命じたのでしょう? ファラオの許可なんて取らず、夜のうちに脱出する選択を取っていれば、イスラエル人はもっと早くエジプトを出られたはずです。実際のところ、民を去らせる許可を出したファラオは、結局最後にまた心変わりして、モーセたちを戦車で追いかけてきます。許可の意味はなかったのです。

 

 神様も最初から、ファラオとの交渉が意味を持たないことをモーセに教えていました。「私が彼の心をかたくなにした」「彼はあなたたちの言うことを聞かない」そう繰り返し語って、むしろ、ファラオの許可に意味はないというヒントをたくさん与えていたのです。しかし、モーセは一言も「じゃあファラオの許可なんて取らず、さっさと脱出しましょう」なんて言いません。自分から「ファラオが私の言うことなんて聞くわけがない」と言いながら、彼はかたくなに、最後まで、ファラオの許可を取ろうとするのです。

 

 ファラオの許可を必要としていたのは、誰だったのでしょう? そのように命じた神様でしょうか? いえ、むしろモーセイスラエルの民の方でした。彼らは、ファラオの許可なく自分たちが無事に脱出できるなんて、微塵も信じることができませんでした。もし、神様がファラオの許可を取るよう言わず、今すぐエジプトを出るよう命じても、誰も従わなかったでしょう。皆、最後まで人間の支配を、ファラオの力を恐れていたのです。だからこそ、意味のないファラオの許可を得る日まで、彼らはエジプトに留まっていたのです。

 

 本当は、ファラオの許可なんて無視して、神様が守ってくれると信じて、エジプトを脱出していれば、彼らはもっと早く解放されていたのです。神様も、ファラオの心をかたくなにして、人に過ぎない支配者から許可を求めることの虚しさを示されていました。しかし、結局誰も、ファラオの許可が降りるまで、神様の力に頼ってエジプトを出て行こうとする者は現れなかったのです。

 

 ファラオの心をかたくなにしたのは、誰だったのでしょうか? 最後まで、神様よりも人間の支配者に恐れをなしていた、イスラエル人の方ではないでしょうか? 出エジプト記を開くとき、多くの場合、イスラエルは神様に従ったから助けられ、エジプトは神様に背いたから災いを受けた……そう読まれがちです。しかし本当は、イスラエルもエジプトと同じように神様に背いていたのです。むしろ、神様に心をかたくなにされたわけではないぶん、イスラエルの方が罪は重かったかもしれません。

 

【無条件で救われたイスラエル

 しかし、神様はイスラエルを救い出されました。イスラエルの民はエジプトの民より神様を畏れていたから、神様に従っていたから、助けられたわけではありません。むしろ、自分から愚かな選択をしてしまう彼らのことを、一方的に神様が愛し、助けてくださったのです。実際、15節で神様がファラオに向かって語る言葉は、そのままイスラエルに向けられたとしても、違和感がありません。

 

「今までにもわたしは手を伸ばし、あなたとあなたの民を疫病で打ち、地上から絶やすこともできたのだ。しかしわたしは、あなたにわたしの力を示してわたしの名を全地に語り告げさせるため、あなたを生かしておいた」……「あなたにわたしの力を示して、わたしの名を全地に語り告げさせるため」……これは実は、神様がイスラエルを特別に選ばれた理由と、そっくりそのまま同じものです。

 

 神様から「お前たちを救い出す」と言ってもらえたイスラエルは、エジプトに向かって、「あなたたちは神様に背く悪い民だ」なんて言えません。人のこと言っていられません。自分たちもたいして変わらない不忠実な民、いつ、エジプトと立場が逆転するか分からない愚かな民だったのです。しかし、神様はそれでもイスラエルのことを愛し、自分のことを全地に語り告げるよう、使命を与え続けてくれました。それこそ、奇跡的な出来事だったのです。

 

 神様は自分に背く者、自分を拒否する者、自分から離れる者に向かって、繰り返し語りかけてくださいます。最初から自分の言うことを聞かなければ救ってくれない、守ってくれないという方ではありません。むしろ、何度も神様から離れてしまう私たちに、そのかたくなな心に気づかせ、もう一度自分に立ち返らせようとしてくださいます。ファラオとたいして変わらないのに救われたイスラエル人の姿はそのまま私たちの姿でもあるのです。