ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『ロバがバラムに、バラムが王に』 民数記22:36〜23:12

聖書研究祈祷会 2018年6月13日

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【モアブの王バラク】

 民数記の中でも非常に謎めいた物語、それがこのバラクとバラムにまつわるエピソードです。私たちが今、一部を読んだ22章から24章には、ひと言で言えば「敵がイスラエルを滅ぼそうとする試みの失敗」が記されています。もっと言えば、神様に守られたイスラエルの無敵すぎる姿が示されています。

 

 イスラエルは、自分たちを奴隷にしてきたエジプトの国から脱出し、40年にわたって荒れ野をさまよい、ついに神様が約束した土地に着きました。しかし、その周りには既に多くの先住民が住み着いており、約束の地に入るためには、その国々を通っていかなければなりませんでした。

 

 ところが、周りの国々は、イスラエルの民が自分たちの領内を通っていくのを許しません。エドム人はイスラエルの指導者モーセに「わたしの領内を通過してはならない」と言い放ち、カナン人はアタリムの道を進んでくるイスラエル人に対し、捕虜を引いて戦いました。しかし、イスラエルと戦った国々は次々と占領され、あるいは全滅していきました。

 

 そんな中、新たなイスラエルの敵が登場します。彼の名はツィポルの子バラク……他では出てこない珍しい名前です。士師記4章に女預言者デボラに従うバラクという人物が出て来ますが、彼とは違う綴りです。ヘブライ語で「破壊する者」や「荒廃させる者」という意味を持つ名前は、何となくゲームや物語に出てくる魔王の二つ名を思わせます。

 

 しかし、登場して間も無く「破壊する者」バラクは、逆に自分たちが「破壊される」ことを恐れてしまいます。彼はヨルダン川の真向かい、すなわち、イスラエルに隣接するモアブの国の王であり、周りの国が次々とイスラエルに占領されていく様子を目の当たりにしていました。つい先日も、アモリ人がイスラエルの民に自分の国を通過するのを許さなかったために、全軍を滅ぼされてしまったばかりでした。

 

 彼は、おびただしい数のイスラエル人がモアブの平野に宿営したのを見て、思わずこう呟きます。「今やこの群衆は、牛が野の草をなめ尽くすように、我々の周りをすべてなめ尽くそうとしている」……そこで彼は、呪いの力によってイスラエルを撃ち破る計画を立てるのです。まさに、前進してくる勇者一行を倒そうとする、魔王のような有様です。

 

【呪い師バラム】

 さて、モアブの王が、イスラエルを呪うため頼ることにしたのは、ベオルの子バラムという人物でした。同じく「ベオルの子」として創世記36章32節に、エドムの王ベラが出て来ますが、2人の関係はよく分かりません。バラムの出身は不明ですが、彼は金銭を得て敵を呪う職業的預言者でした。ある意味で雇われた殺し屋であり、呪術や魔術のエキスパートといった存在です。

 

 王も彼の腕を高く評価してこう言っています。「今すぐに来て、わたしのためにこの民を呪ってもらいたい。そうすれば、わたしはこれを撃ち破って、この国から追い出すことができるだろう。あなたが祝福する者は祝福され、あなたが呪う者は呪われることを、わたしは知っている」

 

 ところが、バラムは「イスラエルを呪ってくれ」と頼まれてから、呪術的な行動をほとんど取りません。それどころか、まるでイスラエルの預言者のような振る舞いをしていくのです。バラムは王から遣わされた使者たちにこう言います。「今夜はここに泊まりなさい。主がわたしに告げられるとおりに、あなたたちに伝えよう」

 

 彼は、職業的預言者であり、まじない師であるくせに、すぐさま雇われることを拒否し、その場で神を呼び出すまじないも行いません。完全に受け身で、神様がどうするべきか答えるまで、自分は行かないと言うのです。夜……それは度々神様が人々に啓示をされる時間帯でした。バラムは神様の方から自分に語りかけてくるまで静かに待つのです。

 

 やがて、神様はバラムに現れてこう言いました。「あなたは彼らと一緒に行ってはならない。この民を呪ってはならない。彼らは祝福されているからだ」……するとバラムはあっさり神様に従って、王から遣わされた使者たちを追い返します。「自分の国に帰りなさい。主はわたしがあなたたちと一緒に行くことをお許しになりません」

 

 ここから見ても分かるように、既に神様とバラムの関係はもう出来上がっています。バラムは最初から、自分は神様に逆らえない存在だと言っているのです。何度も、神様を信頼せず反抗してきたイスラエル人に対し、彼らを呪おうとする敵たちは、神を恐れ、神に逆らおうとしないという皮肉な構図が見えてきます。

 

【薄れていく呪い師】

 さて、神様がイスラエルに対する呪いを阻止しようとする中、民はその努力を全く知らないまま、平和に休んでいます。バラムに追い返されたモアブの使者たちは、王のもとに帰って「彼はわたしどもと一緒に来ることを承知しませんでした」と伝えます。すると、王はもう一度、今度は前よりも位の高い使者を遣わして、「あなたを大いに優遇するから、どうか来てイスラエルの民に呪いをかけてくれ」とお願いします。

 

 しかし、バラムは「たとえ家に満ちる金銀を贈ってくれても、わたしの神、主に逆らうことはできません」と答え、再び使者を朝まで待たせ、神様がどう告げるかを確かめます。神様はその夜、バラムのもとに来てこう言いました。「これらの者があなたを呼びに来たのなら、立って彼らと共に行くがよい。しかし、わたしがあなたに告げることだけを行わねばならない」。

 

 神様から許可が出て、殺し屋バラムはやっと動き出します。彼は一切神様に口出しすることも、神様に不平を言うこともなく従います。下手するとイスラエルを率いてきたモーセよりも、大人しく神様の言うことを聞いているかもしれません。

 

 さて、モアブで王に迎えられたバラムは、神様が何を告げるか伝えるため、さっそく託宣の準備を始めます。モアブの王は、いよいよイスラエルを呪いにかける儀式が行われると期待しますが、バラムはこう指示を出します。「わたしのために、ここに7つの祭壇を築き、7頭の雄牛と雄羊を用意しなさい」

 

 おっと……呪いというよりも、まるで神様に犠牲をささげるイスラエルの祭儀です。事実、彼は「焼き尽くす献げ物」をしたことが3節に書かれています。すなわち、自分たちの罪を許してもらうための祭儀です。これから呪いにかけようとする敵の神様にすることではありません。しかも、7という数字は「完全」を象徴する数の一つで、相当手厚い献げ物をしたことになります。

 

 さらに、バラムは王に向かって、腕のいい魔術師らしからぬ言葉を語っています。「わたしは行って来ます。主はたぶん、わたしに会ってくださるでしょう」……たぶん、私に会ってくれる……通常なら、自分たちに手を貸してくれる神の名を唱え、召喚するのがまじない師の役目であるにもかかわらず、バラムは自分の意志で神様を呼び出せないことを認めてしまうのです。

 

 「たぶん」「向こうがその気なら」神様は自分に会ってくれる。なんて自信のない言葉でしょう! 彼は丘の頂で神様と出会ってからも常に下手です。「わたしは7つの祭壇を築き、雄牛と雄羊をどの祭壇にもささげました」……まるで、「まじないなんてこれっぽっちもしていません! あなたが命じる祭儀を正しく行いました」とアピールしているかのようです。

 

 神様は、そんなバラムの口に言葉を授けます。彼は王のもとに帰って、正直にその託宣を告げました。「神が呪いをかけぬものに、どうしてわたしが呪いをかけられよう。主がののしらぬものを、どうしてわたしがののしれよう」「誰がヤコブの砂粒を数えられようか。誰がイスラエルの無数の民を数えられようか」「わたしは正しい人が死ぬように死に、わたしの終わりは彼らと同じようでありたい」

 

 お聞きのとおり、バラムはイスラエルを呪いにかけるどころか、イスラエルを祝福する神様の言葉を語ってしまいます。さらに、イスラエルを羨む言葉まで……当然、イスラエルを呪ってくれと頼んでいたモアブの王は怒りました。しかし、バラムは自分には神様が告げることしか行えないと繰り返します。

 

 この後、何とかしてイスラエルを呪ってもらえないかと思った王は、場所を変え、イスラエル全体を呪えなくてもいいから、一部だけでも呪ってくれと頼みます。バラムは、再び7つの祭壇を築き、どの祭壇にも雄牛と雄羊をささげました。しかし、ここでも、まじないは行いません。それどころか、まじない師バラムは、いよいよイスラエルの預言者としての性質を濃くしていくのです。

 

【呪い師→士師→預言者】

 「立て、バラクよ、聞け」「ツィポルの子よ、わたしに耳を傾けよ」……一度目と違って、今度はバラムの一人称ではなく、バラムの口を通して語られる神様の一人称で始まっています。これはちょうど、イスラエルに王政が生まれる前、人々を治めていた士師と呼ばれる人たちに、神様が告げる呼びかけに似ています。今回も、彼はイスラエルを呪うことができず、祝福してしまいます。しかも、23節ではこうも言っています。

 

 「ヤコブのうちにまじないはなく、イスラエルのうちに占いはない。神はその働きに応じてヤコブに告げ、イスラエルに示される」……もはや自分の生業である呪術の全否定です。王はたまらなくなって、バラムに懇願します。「彼らに呪いをかけることができないなら、せめて祝福もしないでください」と。しかし、バラムが繰り返す言葉は同じです。「わたしは、主が告げられることだけをする、と言ったではありませんか」

 

 さて、ここで王は賭けに出ます。「それでは、あなたを別の場所に連れて行きましょう。たぶん、それは神が正しいとされ、そこからなら、わたしのために彼らに呪いをかけることができるかもしれません」……いわゆる3度目の正直という奴です。イスラエルを呪えば勝つことができるというバラクの確信は揺らぎ、トーンもだいぶ落ちてきました。

 

 しかし、3度目も、やはりバラムにイスラエルを呪うことはできませんでした。それどころか、まじない師から士師へ、士師から預言者へと完全に移行する彼の様子が、24章1節に描かれています。「バラムは、イスラエルを祝福することが主の良いことであると悟り、いつものようにまじないを行いに行くことをせず、顔を荒れ野に向けた……神の霊がそのとき、彼に臨んだ」

 

 ついに、バラムの告げる言葉は完全に預言者のものとなり、イスラエルを呪おうとしたモアブの国が、逆に呪われてしまいます。「ベオルの子バラムの言葉……」と始まる託宣は、まさに預言者の言葉が続くときの形式です。さらに、バラムはモアブ人だけでなく、エドム人、アマレク人、カイン人、そしてアシュル、いわゆる新アッシリアに向けても、イスラエルの勝利を宣言します。

 

 もはや、イスラエルを呪う魔術師の姿はなく、無敵のイスラエルを祝福する預言者へと変えられてしまいました。モアブの王バラクの完全な敗北です。しかし、この物語全体は、私たちに単純な勧善懲悪を語りません。むしろ、神に逆らう者が従う者へ、従う者が逆らう者へと、次々に揺れ動いていく不安定な人間の姿を見せてきます。

 

【立場が移り変わっていく】

 実は、今日皆さんと読んだ話の前に、もう一つ奇妙な出来事が書かれていました。それは、モアブに向かって出発したバラムと、彼が乗るロバとの不思議なやりとりです。神様は、バラムにモアブへ行く許可を与えますが、彼が出発した直後、なぜか急に怒りを燃やし、彼を「妨げる者」となって、道に立ちふさがります。まるで、ミディアンからエジプトへ出発したモーセが、突然神様に殺されかかった時のようです。

 

 ちなみに、「妨げる者」という言葉はヘブライ語でサタン、後の時代に悪魔の固有名詞として用いられるあの言葉です。ちょっとドキッとさせられます。バラムには、自分の行く手に立ちふさがる主の姿が見えませんが、ロバの方には抜き身の剣を手にした主の御使いが見えました。このまま進んだら殺されると思ったロバは、バラムを乗せたまま道を逸れて畑の中へ踏み込みます。

 

 ロバは、道に戻そうとするバラムに繰り返し打たれてしまいますが、ついには逸れる所もなくなってしまい、その場にうずくまってしまいました。バラムは怒りを燃え上がらせ、ロバを杖で打ってきます。その時、主がロバの口を開かれました。「わたしがあなたに何をしたというのですか。3度もわたしを打つとは」

 

 バラムは、ロバがいきなりしゃべったにもかかわらず、平然と怒り続けます。「お前が勝手なことをするからだ。もし、わたしの手に剣があったら、即座に殺していただろう」……ちなみに、聖書全体を通して動物が人の言葉を口にするのは、創世記でアダムとエバをそそのかした蛇と、この箇所に出てくるロバだけです。

 

 バラムは、ありえないことを目にしながら、怒りのあまり、それが神様の業だということに気づかないでいました。するとこの時、バラムの目も開かれて、実は自分こそ、目の前に立つ主の御使いに、剣で殺されようとしていたことを知るのです。

 

 やがてバラムは、自分と神様の間で板挟みになったロバの経験を、自分も体験することになります。ロバは、御使いの剣とバラムの杖の間で板挟みになって、3回不意打ちを受けました。バラムも同様に、イスラエルを呪えという王の要求と、呪ってはならないという神様の命令の間で板挟みになって、王の怒りを3回受けてしまいます。そして最後、イスラエルを呪わせようとした王は、自分こそ、神様に呪われようとしていることを知るのです。

 

【揺れ動く民】

 ロバの立場がバラムの立場に、バラムの立場が王の立場に移り変わっていく様子は、私たちも他人事と思って安心してはいられないことを思わせます。さらに、バラムは22章から24章において、終始、神様に忠実な僕として描かれていましたが、25章、31章においては、モアブの女性たちを用いてイスラエルを誘惑させ、罪を犯させる者になってしまったことが書かれています。やがて彼は、イスラエルを呪おうとして逆に呪われたモアブ人のように、モーセたちの手にかかって死んでしまいました。

 

 もともと神に逆らう者であった人が、神に従う忠実な者へと変えられる一方、いとも簡単に、元の逆らう者に戻ってしまう……そんな人間の不安定さが、見事に表されていると言えるでしょう。実は、この姿はまさにそのまま、イスラエルの姿をも映し出しています。

 

 「あなたの言うことに全て聞き従います」そう約束しながら、何度もその約束を破る民、さらに指導者であったモーセまで、神様の期待に答えなくなっていく様子が記されていました。

 

 私たちは、40年にわたってイスラエルの民を率いてきたモーセが、最後、約束の土地に入るのを許されなかったことを聞いています。それは20章において、渇きを訴える民に対し、モーセが神様の聖なることを示さなかったからだと言われています。確かにこの時、モーセは以前のように神様に命じられるまま岩を打ち、そこから水を涌き出でさせましたが、ひと言もそれが「主」の業であると言いませんでした。

 

 考えてみれば、モーセ自身も民と同じように、神様の言うことに逆らったり、従ったりを繰り返してきた人間です。イスラエル全体も、神様から特別に選ばれておきながら、何度も神様に背き、最後は神様の裁きを受けて、外国から攻め滅ぼされてしまいました。出エジプト記に続いて、民数記も徹底的に人間の不安定さを描き出し、私たちの人間礼賛を許さないのです。

 

 むしろ、勝てるはずのない敵の力に勝てるとき、それは私たちの忠実さの証明ではなく、どこまでも、粘り強く、神様が付き合ってくれていることを思い出させるのです。私たちは、ある者を神様に忠実で正しい者として、ある者を神様に背く間違った者として、綺麗に線を引いて分けたくなりますが、実は誰もがその間を揺れ動いています。

 

 神様は、私たちをがんじがらめに拘束して、自分のもとへ括り付けることはなさいません。むしろ、揺れ動く私たちに自由を与え、時に励まし、時に叱って、自ら神様の方へ立ち返るよう促してくださいます。繰り返し、粘り強く、私たちを見ておられるのです。

 

 今もこれからも、私たちはバラムとバラクの間を、イスラエルとモアブの間を行ったり来たりしているかもしれません。どちらかに入った瞬間、これで安心というわけではありません。しかし、どちらにいる時も、神様の声は常に私たちへ語りかけられます。戻るべき道を教えられます。そのことを覚えて、今週も日曜日まで歩んでいきたいと思います。