ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『そんな選び方する?』 申命記7:6〜15

聖書研究祈祷会 2018年6月27日                       

【選ばれる期待】

 「神様が私へ牧師になるよう言ったのは……」ある先輩の牧師が続けました。「私が一生懸命聖書を読んでいたからでも、真面目に福音を宣べ伝えようとしていたからでもないんだ。むしろ私は、神学校を卒業するギリギリまで聖書を通読したこともなかった。見ず知らずの人に話をするなんて絶対に向いてなかった。ただ、牧師以外の職に就いていたら、間違いなく教会を離れていただろう。だから神様は私を離さないように、牧師になるよう選んだのさ……」

 

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 誰かに自分が選ばれること。それは私たちにとって誇りであり、憧れであり、まさに宝となる経験です。ドラフト会議で指名される、上司から新しいプロジェクトを任される、就活で会社から内定が届く、希望していたゼミに入ることが許される……そう、私たちは選ばれることを、常に期待しています。

 

 自分が必要とされること、自分を頼ってもらえること、自分の価値が認められること、私たちの承認欲求を満たすのは、いつも何らかの「選び」です。たとえ、目立ちたくない、静かに生きたい人間でも、誰からも自分が選ばれない状況に、耐えられるわけではありません。ささいなことでもいい。誰かに自分を特別な何かとして見てもらいたい……。

 

 同時に、私たち自身が自分の入る共同体を「選ぶ」機会が訪れます。このチームに入りたい。あの先生のゼミに行きたい。あそこの会社に入社したい。この人の新しい家族になりたい……そして、どうにかして自分を選んでもらえるよう努力します。勉強し、得意なことを磨き、苦手を克服し、相手の希望を満たしていく。選んでもらうためなら何でもします。

 

 イスラエルは、神様から聖なる民、宝の民として選ばれた非常に幸運な者たちでした。会社の社長から、ある国の大統領から、国連の代表から「あなたは選ばれた」と言われるより、ずっとずっとすごい出来事、光栄な出来事でした。ところが、神様がこの民を選んだ基準は、何だかよく分かりません。

 

 イスラエルの方から「神様、私たちを選んでください」と言ったことはありませんでした。それどころか、イスラエルは神様から選ばれる前に、何か特別、評価されることがあったわけでもなかったのです。

 

【どう選んだの?】

 「主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちがどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった」……そうなのです。イスラエルは他の諸民族と比べて、決して立派な国民ではありませんでした。彼らは、出エジプト記から民数記にかけて、非常に数の多い民として描かれます。しかし、もともとはアブラハム、イサク、ヤコブという単なる一家族に過ぎませんでした。

 

 イスラエルの国民が驚異的な数となったのは、神様が彼らを祝福した後です。それまでは、なかなか子どもに恵まれない老夫婦、跡取り問題で揉める小さな家族、兄弟間で争いの絶えないポッと出の部族に過ぎませんでした。そんな貧弱で小さな国民を、神様は「宝の民」として選びました。少数先鋭というような立派なものでもありません。

 

 彼らはアモリ人やペリシテ人に比べて、体格も大きくありませんでした。戦闘能力も決して高くありませんでした。特別な技術を持っていたわけでもありません。強靭な精神力を兼ね備えてもいませんでした。何せ、彼らは幾度となく、強大な敵を前にして「やっぱり逃げよう。戦うのは止めよう」と言ってきたのですから。

 

 イスラエルの民は貧弱で臆病だったけど、神様の言うことには素直に聞き従う人々だった……そういう話であれば、私たちも納得できます。しかし、エジプトを脱出してからカナンの地に入って行くまで、イスラエルは繰り返し神様の言うことに背いてきました。困ったことに、彼らは神様から叱られた後、何か罰を受けた後こそ、懲りずに同じ失敗を繰り返しました。忠実、素直、従順という言葉からは程遠い人々でした。

 

 なぜ、神様はこんな民を選んだのでしょう? 新人を採用する企業の担当なら、失格という他ありません。言うことは守らない。こちらを信頼してくれない。責任は果たさないし、失敗から学ぼうとしない……そんな人たちを選ぶ。「人を見る目がないのか」と言いたくなりますが、神様は彼らの性格をよく分かっていました。

 

 「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である」イスラエルの民がこう宣言されたのは、既に彼らが神様に何度も背いた後、彼らの性格・態度・姿勢が露わになった後のことです。誰よりも、神様は人々のかたくなさ、愚かさを知っていました。それなのに、この民を自分の民として選んでしまいます。

 

 「聖なる民」なんてよく言ったものです。人々の方には「聖」とされる要素なんてほとんど見つけることができません。むしろ、神様を恐れるという点では、外国の民の方がずっと優れていました。

 

 先々週に読んだ民数記の記事では、モアブの王がイスラエルの民以上に彼らの神を恐れていました。だからこそ、王は呪いの力に頼ろうとしました。イスラエルと戦う敵の多くは、「彼らには主がついている」と言って、様々な策を練りました。イスラエルの強さの根源がどこにあるのか、分かっていたのは敵の方でした。

 

 一方で、イスラエル自身は、神様が共にいてくれること、自分たちのために戦ってくれることを、なかなか信じられません。一度や二度ならともかく、本当に何度も、彼らは神様の存在を見失います。歴史上、最も神様から直接的介入を受けてきた民は、どれだけ自分たちのためのしるし、奇跡を見ても、すぐに神様を忘れました。

 

【選ばれた12人】

 これが、神様の選んだ「宝の民」「聖なる民」の姿です。ちょっとわけが分からないでしょう……実は、数百年後、神様の独り子であるイエス様が選んだ弟子たちも、ちょっとわけの分からない人たちでした。教会に通っている人たちならよくご存知のとおり、イエス様は、ご自分が活動するに当たって、はじめに12人の弟子たちを選びました。

 

 彼らの多くは漁師でした。ペトロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネ……実に4分の1が、教養のない田舎の労働者でした。なかなかの荒くれ者で、「雷の子」と呼ばれるような気性の激しい兄弟もいました。それだけでなく、かなり過激な政治活動に参加している人も入っていました。わざわざ、警察機関、政府関係者から目をつけられそうな人物を仲間に入れていたのです。

 

 まあ、こう考えれば分からなくもありません。イエス様は、本当は気のいい荒くれ者、当時のヤンキー、やんちゃ者を選んでいったのだと……ところが、その次にイエス様が選んだのは徴税人、ローマの手先になって、ユダヤ人から税金を取り立て、自分の懐を肥やしてきた者たちでした。貧しい人々の敵、サラ金のエリートを選んだのです。

 

 弟子たちのうちで、何度も、誰が一番偉いか言い争いになったのは当然でしょう。彼らは相反するグループから選ばれた、折り合いの悪い人たちでした。体育会系と理系が入り混じり、どちらも野心がありました。ある弟子は、イエス様が王座につくときは、自分をNo.2の位置にしてくれと頼みました。また、ある弟子は、全てを捨ててついていくイエス様に、それ相応の見返りを求めました。みんな自分の利益が絡んでいました。

 

 さらに、選ばれたうちの一人は、イエス様を裏切ることが分かっていました。選んだ本人が言いました。「あなたがたのうち、わたしを裏切る者がいる」……それならばなぜ、そんな人物、弟子なんかに選んだのでしょう? なぜ、いつまでも弟子にしておくのでしょう? 普通なら破門です。それ以前に門前払いです。しかし、あろうことかイエス様は、自分からこれらの弟子に声をかけたのです。

 

 エントリーシートに写真と志望動機を書いた弟子たちが、イエス様のもとへ「弟子にしてください!」と頼みに来たわけではありません。みんな、イエス様の方から直接声をかけて、選んでいきました。この問題だらけの厄介な集団を、イエス様は自分の弟子にされました。意味が分からないですよね。

 

 弟子をとるなら、普通最後まで自分についてくる人たちを選びます。しかし、イエス様は、彼らが全員、自分を見捨てることを知っていて選びました。自分を理解せず、自分を信頼せず、自分から離れていく人たちを、わざわざ弟子にされました。なるほど、神様とイエス様は、間違いなく親子です。こんな選び方をする方は他にありません。

 

【聖なる者とする】

 神様は、特に理由なく人々を選ぶのでしょうか? 「宝の民」と言いつつ、本当は何の期待もしないで選んでいるのでしょうか? いえいえ、そんなことはありませんでした。「あなたは知らねばならない。あなたの神、主が神であり、信頼すべき神であることを。この方は御自分を愛し、その戒めを守る者には千代にわたって契約を守り、慈しみを注がれるが、御自分を否む者にはめいめいに報いて滅ぼされる」……

 

 ちゃんと自分の言うことを聞き、信頼するように求めていました。彼らに「聖なる者となりなさい」と命じていました。ほとんど望みのない人たちに……敵の全軍が倒されようと、自分たちの仲間が3000人殺されようと、未だ神様を恐れず、頼りにせず、背いてばかりの人たちに……この人たちに、本気で期待する「愚かな」選別者が、神様なのです。

 

 イエス様も、弟子たちに何の期待もしないどころか、繰り返し求めました。互いに愛し合うことを。ご自分を理解することを。あの裏切り者のユダにさえ、最後の晩餐のとき、ご自分の十字架と復活を記念するよう、パンをぶどう酒に浸して渡しました。裏切りを後悔して死ぬことではなく、悔い改めて主に感謝することを求めました。最後の最後まで、「愚かにも」期待し続けました。

 

 神様が選んだ民、イエス様の選んだ弟子たちは、決して「聖なる者」と呼べる人たちではありませんでした。これからそうなることも、ほとんど期待できない人たちでした。にもかかわらず、選ばれた人々は凝りもせず求められました。聖なる者、従う者、正義と公正に生きる者となるように。

 

 「主は御自分を否む者には、ためらうことなくめいめいに報いられる」……確かに、神様は自分に背き、自分から離れていく者たちに、ためらわず、怒りを示しました。容赦なく介入しました。「私は舌が重い者なのです」神様の選びを拒否したモーセを、神様は「うん」と言うまで逃がしませんでした。「あの人々に勝つのは無理だ。エジプトに戻ろう」神様の力を信用しない人々に、神様は荒れ野を40年間さまよわせました。

 

 「わたしはあの人を知らない」3度自分を否定したペトロに、イエス様は3度「あなたはわたしを愛しているか」と問われました。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、私は決して信じない」イエス様の復活を信じなかったトマスに、イエス様は指を入れるよう命じました。

 

 神様を否定した者たちは、誰もが容赦ない問いかけをされました。驚くような介入をされました。彼らが受けた報いは過酷なものです。どこまで逃げても、諦めてもらえない。見捨てず、離さず、ついてくる……親や先生であれば、うんざりしてしまうような、友人なら「いい加減にしてくれ」と叫びたくなるような、そんな介入です。誰にも期待されない愚かな存在が、変わっていかざるを得ない、強引な介入。

 

 口下手なモーセは神の言葉を伝え、荒れ野をさまよった民は礼拝の仕方を整えました。イエス様を否定したペトロは、何回捕まっても説教を止めない伝道者になり、復活を信じなかったトマスは、イエス様を初めて「私の神」と告白した者になりました。「聖なる者」と成り得なかった人々が、「聖人」として、後の時代に慕われるような、そんな出来事が起こりました。

 

【選びの恵み】

 神様の選びは、私たちの行動に対する評価ではありません。むしろ、私たちを「背きの民」から「聖なる民」へと変えられる選びです。普通なら、変化を期待されない人々、望みを持てない人々に、神様は本気で期待し、求め、働きかけます。新しい生き方を与えてしまいます。神様から「宝の民」とされるとき、あなたは自分自身も期待していなかった、新しい者へと変えられます。

 

 人類がこの世に創造されたときから、神様は既に期待されている者よりも、期待されていない者たちを選んできました。一家の跡取りとなる長男の献げ物ではなく、次男の献げ物を。父親が目にかけている力強い兄ではなく、体に毛も生えていない弟を。既に成人した大人ではなく、兄弟のパシリに使われている末っ子を。

 

 そして、神様の選びは、選ばれなかった者にまで変化を与えていきました。人殺しをして神様に背いた人物は、子に「従う者」と名づけました。弟を殺そうとしていた兄は、再会した瞬間に和解しました。末っ子を人買いに売った兄弟たちは、弟を庇って身代わりになりました。神様の選びは、選ばれた人だけでなく、その周りにまで大きな変化を与えていきました。

 

 「あなたたちがこれらの法に聞き従い、それを忠実に守るならば、あなたの神、主は先祖に誓われた契約を守り、慈しみを注いで、あなたを愛し、祝福し、数を増やしてくださる」……かつて、イスラエルに宣言された言葉は、神様に選ばれ、宝の民とされ、ここへ集められた私たちにも言われています。

 

 決して、自分は変わることはないと思わないでください。変えられてきた人たちを思い出してください。彼らも、何度も行ったり来たりを繰り返しました。背きと従順の間をさまよいました。しかし、変えられていきました。本人さえ期待しなかった方向へ……思ってもみなかった行動をする者へ、変化を遂げていきました。神様は今も、あなたに期待し続けています。

 

 あなたは知らなければなりません。あなたの神、主が神であり、信頼すべき神であることを……。