ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『終末が怖い』 マタイによる福音書24:29〜35

聖書研究祈祷会 2020年3月18日

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【これって終末の徴?】

新型コロナウイルスが世界中で流行り始めたとき、何人かの人から「これも聖書的な意味があるんでしょうか?」と聞かれました。大震災を経験し、台風や集中豪雨の被害に遭い、戦争が始まる噂を聞き、様々なヘイトスピーチが耳に入る。さらには、感染症が広がっていく……思わず、イエス様の語った「終末の徴」が頭によぎった人もいるでしょう。

 

「戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞くだろうが、慌てないように気をつけなさい。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる。しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりである」

 

ルカによる福音書ではこれらに加えて、「疫病や恐ろしい現象」が現れるとも言われています。何となく、今の時代に当てはまるような気がしてきます。世の終わりはすぐには来ないと言われているけど、少なくとも近づいている。これからより悲惨な苦しみが待っている……そんな不安に襲われます。早くこれらに備えなければならないと。

 

トイレットペーパーの買い占めや除菌グッズの品切れなどを見ていても、誰もが艱難の準備をすること、あらかじめ備えておくことを考えます。どういうふうにしておけば心配ないか? 何をやっておけば安心できるか? 災害や危機に備えるように、終末に関しても、「何か兆候が現れたら、すぐ準備しなくちゃ」と考えます。

 

色んな事件が起こる度に、私たちは「これも終末の前兆か?」「もっと悲惨なことが起きるのか?」と警戒し、不安になり、準備しようとしてきました。教会のメールにもときどき、「終末が近づいているので準備しましょう」とか「キリストの再臨が近いので洗礼を推し進めましょう」とか、危機を煽るメッセージが色んなところから入ってきます。

 

だって、神様を信じて受け入れないと、イエス様の教えを守らないと、終末の日に裁きを受けてしまうから……今日読んだ聖書箇所にも書いてありました。「そのとき、地上のすべての民族は悲しみ、人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る」「天使たちは、地の果てから果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める」

 

ようするに、この世と一緒に滅びる者か、神の国に迎え入れられる者か、どっちかふるいにかけられる、ということです。自分や自分の大切な人たちが、どっちに入るか考えたら恐ろしいですよね? 選ばれなければ、私たちは悲しみの果てに死んでしまう……なかなか脅しのきいた言葉です。

 

【選ばれなかったら…】

だからこそ、終末の予兆は正確に捉えたいと感じる人が出てくるでしょう。見逃したら、選ばれないで手遅れになるかもしれないからです。イエス様がたとえに持ち出した「いちじくの木」も、春に新芽を出すのが他の木より遅く、芽が出るともう夏が近い、すぐ収穫の時期がやってくるという植物でした。注意していないと、収穫の時期を見落とすいちじくのように、終末も予兆を見落としてしまうと言うんです。

 

ますます恐ろしいですよね? 知らないうちに、備えることができないまま終末を迎えてしまうかもしれない。じゃあ、「備える」って具体的に何かと言えば、もちろん神様を信じること、イエス様を神の子と受け入れて、その教えを守ることです。ようするに、信仰を告白して洗礼を受けなさいという話に聞こえてきます。

 

信じなければ、洗礼を受けなければ、かの日には選ばれず、救われず、天地と一緒に滅びてしまう……それがどれだけ恐ろしいことか強調し、今すぐ信じなさい、今すぐ洗礼を受けなさいと激しく迫る人たちもいます。彼らも必死です。だって、目の前の人が救えるか救えないかは、自分の伝道にかかっているんですから。

 

みんなが神の国に受け入れられるように、神様に選んでもらえるように、とにかく恐怖を煽って信じるように、洗礼を受けるように促していく……だけど、それって実は、イエス様の言葉に信頼していないんじゃないかと思うんです。「これらのことが起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」

 

【イエス様が選んだ人】

イエス様の言葉は、「手遅れ」に思える色んな人たちを起こしてきました。「わたしについてきなさい」「見えるようになりなさい」「起き上がって床を担いで歩きなさい」それらの言葉で、徴税人が仕事をやめてついていき、生まれつき見えなかった人が見えるようになり、36年治らなかった病人が起き上がっていきました。

 

果ては、既に遺体になっていた青年でさえ、イエス様と出会ったことのなかった死人でさえ、「起きよ」という声に答えます。私たちの声が届かない人、もう手遅れに見える人たちが、次々と救われていった。さらに、イエス様が自分の弟子に選んだ人たち、天の国、神の国で招かれる食事の予行として開かれた最後の晩餐には、選ばれるはずのない人たちが入っていました。

 

イエス様を見捨ててしまう者、裏切ろうとしている者、再三教えられても十字架や復活を理解しない者……明らかに、天の国の食事に呼ばれるはずのない者たちが、その食卓に呼ばれました。再び、あなたがたと共に新たに飲むその日が来る……と言って、同じ鉢から食べ物を取りました。キリストの体、キリストの血潮として渡されたパンとぶどう酒が配られました。

 

イエス様はこの食事が、やがて訪れる神の国での食事になると言われます。自分たちの師が殺される直前になっても理解せず、信じられず、見捨ててしまう人たちが招かれる食事……もう手遅れに思われた彼らが、そのまま滅びていくはずだった彼らが、永遠の命を与えられ、新しく生きていく日の予行。

 

確かに、終末はいつか訪れます。日を追うごとに近づいていくものです。しかし、天地は滅びてもイエス様の言葉は滅びません。この言葉に信頼し、聴き続け、私たちも語り続ける限り、手遅れになる人、救いに漏れる人はいないんです。イエス様は届かないところに行った人さえ、取り戻してきた方ですから。

 

様々な苦難や艱難に襲われるときも、不安や恐怖に突き動かされるときも、私たちが惑わされないように、希望を持って神様に信頼して歩めるように、イエス様は言葉を与え、生き方を示してくださいます。今日も、その姿を思い起こして、日常へと送り出されていきましょう。