ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『この村に入ってはいけない』 マルコによる福音書8:22〜26

礼拝メッセージ 2018年7月8日                       

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【群衆を避けるイエス様】

 見えない人が見えるようになる話、盲目の人が癒される話……心温まる良い話のはずなのに、私たちは最後の言葉で微妙な気持ちになってしまいます。「この村に入ってはいけない」……不思議ですよね。盲人が癒されるように彼をイエス様のもとへ連れてきたのは、この村の人たちです。親切な人たちです。人々のおかげで、この盲人は癒されます。

 

 しかし、イエス様は彼を村人たちから引き離し、村の外へ連れて行かれます。治療が終わると、一緒に喜んでくれるはずの村人たちには内緒にしています。彼らには隠れたところで盲人を癒し、こっそりと家に帰します。何だか意地悪です。他の箇所に出てくるファリサイ派や律法学者のように、村人たちはイエス様を罠にしかけようとしたわけではありません。ただ、盲人を癒してもらおうとしただけです。なぜ避けられるのでしょう?

 

 イエス様はこれまでも、何度か奇跡を行ってきました。ゲネサレトでは多くの病人を癒し、ティルスではギリシア人の娘を癒しました。また、7章の終わりでは、耳が聞こえず、舌の回らない人のことも、唾をつけて癒されました。今日の話によく似ています。イエス様はこの時も、耳と口が不自由な人だけを群衆の中から連れ出し、離れたところで奇跡を行いました。

 

 しかしその後は、人々の所へ彼と一緒に戻ったようです。イエス様自ら、人々に向かって「だれにもこのことを話してはいけない」と口止めします……まあ、口止めされたらかえって話したくなってしまうのが人の性です。人々はむしろ、ますますイエス様のことを言い広めます。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる」

 

 そして、目の見えない人も見えるようにされました……「見ざる、聞きざる、言わざる」の人たちが癒され、すっきりしたところで、すっきりしないエピローグが流れます。「この村に入ってはいけない」……どうしてでしょう? 耳と口が不自由な人を癒したときは、群衆たちも一緒に喜ぶ機会を与えたのに、今回はなぜ盲人が癒されたことを知らせもしないのでしょう? 

 

 人々が自分の言うことを聞かず、どんどん奇跡の噂を広めてしまったからでしょうか? それにしては、この後の9章14節から29節のエピソードで、汚れた霊に取り憑かれた子どもを癒すとき、普通に群衆たちの前で奇跡を行います。何だか一貫していません。それとも、盲人を連れてきた群衆たちの方に、何か問題があったのでしょうか?

 

【盲人の家はどこ?】

 ヒントになりそうなのは、この前の11節から13節の話です。ある時ファリサイ派、生真面目で敬虔なグループの人たちが、イエス様に議論をしかけます。彼らは、イエス様が神の子である証拠を求めて、天からのしるし、神様の力による奇跡を求めてきました。「本当に救い主だというなら、我々の前でもパンを増やしてみせろ」……そんな要求でもしたのでしょうか?

 

 イエス様は心の中で深く嘆いてこう言われます。「どうして、今の時代の者たちはしるしを欲しがるのだろう。はっきり言っておく。今の時代の者たちには、決してしるしは与えられない」……そうしてファリサイ派の人たちを後に残し、さっさと去っていかれます。ところが、「もうしるしは与えられない」と言った直後に、目の見えない人が連れてこられてしまいました。新たなしるし、盲人の癒しという奇跡が必要とされています。

 

 ファリサイ派の人たちが、どんな奇跡を見せろと言ったのかは分かりませんが、少なくとも今度は、「そんなこと聞けるか」と無視できる要求ではありません。なにせ、目の前で本当に困っている人、見えなくて苦しんでいる人が連れてこられたのですから……人々は、盲人をイエス様のところへ連れてきて「触れていただきたい」と願います。イエス様が、耳と口の不自由な人に、手を触れて癒したことを知っていたのでしょう。

 

 彼らは、心から盲人を癒してもらいたいと思って、イエス様のもとへ連れてきたのでしょうか? それとも、単にイエス様の行う奇跡を見てみたいという好奇心で連れてきたのでしょうか? 確かなことは、この盲人は村人たちの願いで癒されても、帰る家が村の中にはなかったということです。

 

 そう、イエス様は目の見えない人を癒した後、「この村に入ってはいけない」と言いつつも、その人を家に帰されました。26節にはっきり書いてあります。村に入ってはいけないのに、家に帰れと……つまり、盲人の家は、村の中にはなかったのです。村の外にあったのです。あるいは、彼を連れてきた人たちとは別の村に。

 

【回復の奇跡】

 盲人をイエス様のもとへ連れてきたのは、彼の家族や近所の人ではないようです。むしろ、彼は一人で家へ帰っていくので、家族の付き添いはありません。彼が群衆たちに引っ張られていったとき、家族は家で待っていたのでしょうか? 一緒について行かなかったのでしょうか? 目が見えないのに付き添わなくてよかったのでしょうか?

 

 言うまでもなく、目が見えないのはたいへん重い病です。当時のイスラエルでは、重い病気は神様からの罰だと思われていました。家族に不治の病がいる、それ自体、肩身の狭い思いをすることでした。日本でも、ハンセン病の人は身内であることを隠され、隔離されてきた歴史があるように。

 

 見えない、聞こえない、話せない……それは、他の病人と同じく、イスラエルでは「汚れた者」と見なされることでした。神様に犠牲を献げることも許されない、礼拝に出てはならないとされた存在。しかも、「汚れ」は触れた者にも移るとされたので、「清さ」を保ちたい人たちの間では、共同体に留まることも許されない存在でした。

 

 あなたがいたら、私たちも汚れて、礼拝ができなくなってしまう……そう言われて、家から追い出され、村の外で暮らすよう促された人たち、共同体に帰れない人たち、それが、この盲人の姿でした。もしかしたら、ひたすら外で物乞いを続け、長年自分の家にも帰っていなかったかもしれません。路上で生活する人だったかもしれません。

 

 しかし、イエス様のなさる奇跡は、天からのしるしは、関係の回復をもたらすものでした。「帰れないはずの人が帰ってくる」「欠けていた共同体が回復する」そのことこそ、イエス様が起こした奇跡だったのです。けれども、盲人が帰るべき家は、村の中にはありませんでした。

 

 ひょっとしたら、この村人たちは、自分たちとほとんど接点のない人を連れてきたのかもしれません。隣の村に、村の外に、目の見えない人がいる。試しに彼をイエス様のもとへ連れて行ってみよう。奇跡が見られるかもしれない……そんなノリだったのかもしれません。

 

 人々は、盲人が自分たちの共同体へ帰ってくるのを喜ぼうとしたのではなく、ただ、病が癒される不思議な業を、超能力を見ようとしました。しかし、イエス様の奇跡は、病が癒されて終わりではありません。彼が家族に回復されるとき、村の中に迎え入れられるときまで、奇跡は続きます。逆に言えば、彼を追い出した家には、共同体には、これから試練が待っています。今まで自分たちが排斥していた人を受け入れるという試練が……

 

【盲人を迎える家】

 私たちは、イエス様の奇跡を見るとき、どうしても「病の癒し」にばかり目を向けてしまいます。確かに、病が癒されることはありがたいことです。嬉しいことです。しかし、天からのしるしは、喜びと共に戸惑いをももたらします。私たちの壊した関係が回復されるとき、厄介な段階が待っています。

 

 今まで排斥していた人を受け入れる、「汚れた人」として避けていた人を迎え入れる。一大事です! 「悪いけれどこの家から出て行って」「この村に君を置いてはおけない」……そう宣告した張本人の人々が、彼をもう一度迎え入れなければならないのです。非常にバツの悪い時間が訪れます。ここに戻ってくるなんて思ってもみなかった人が、帰ってくるのですから。

 

 私はこの話を読むとき、イエス様が他の箇所で語った、放蕩息子のたとえを思い出します。父親からもらった財産を全て使い尽くし、ボロボロになって帰ってきた次男……その彼を、父親は「死んでいたのに生き返った」と迎え入れ、盛大な宴会を催します。しかし、真面目に父親のもとで働いていた長男は面白くありません。

 

 弟は自ら財産を使い果たしてこうなったのに、本来なら、家に帰ってくることのできない、家族と縁を切られる存在だったのに……父親は彼を息子として迎え入れ、駆け寄って抱きしめます。奇跡は起きました。父親と次男の関係が回復されました。しかしまだ、奇跡は終わっておりません。家族という共同体が回復するのは、長男が次男を受け入れたときです。イエス様のたとえは、奇跡が完成する前に終わっています。

 

 「今の時代の者たちには、決してしるしは与えられない」……ファリサイ派の人々に語られた言葉が思い出されます。個人個人の病は癒されても、癒された個人を受け入れようとはしない私たち。何なら、聖書にはイエス様から癒された人が会堂から追い出されるエピソードまで出て来ます。罪人が赦されることは願っても、罪人を自分たちのコミュニティーに迎え入れる気はない私たち。しるしが与えられるのは、その人が帰ってきたときです。

 

 本当の喜びは、共同体が回復されたときにこそ起こります。その回復には痛みが伴います。教会は、誰もが招かれている場所だと私たちは思っています。こんな自分でも、弱くて臆病な自分でも、神様はここに迎え入れてくださる……その通りです。しかし、同様に神様は、あなたを裏切り、あなたを怒らせ、あなたが嫌悪する人をも教会に迎え入れるのです。

 

 これが福音です。真理です。私たちに隠された、私たちが見ようとしないキリストの奇跡……あの人が癒された……自分も癒される……それで終わりではありません。大げんかして出て行ったあの人が戻ってくる。自分たちが受け入れなかったあの人が帰ってくる。皆さんは見えているでしょうか? それが奇跡として映っているでしょうか?

 

【奇跡はまだ終わっていない】

 「この村に入ってはいけない」……イエス様は、目を癒された人が、彼を連れてきた村人たちのもとにではなく、家に帰るようにと促されます。きっと、村人たちなら彼を見れば、喜んでもてはやしたでしょう。「すごい、どうやって治ったの?」「あのイエス様に直接触れてもらえたの?」「どんな感じがした?」……奇跡を体験した者として、あっと言う間に人気者になれます。しかし、そこでは壊れた関係は回復されません。

 

 彼が回復するべき関係は、喜んで彼を迎え入れてくれる村の中ではありません。彼を追い出した家の中、彼の家がある別の土地です。帰らなければならないのは村の外です。奇跡はまだ続いています。村の人々は癒しが起きたことさえまだ知りません。もっと大きなしるしが起こることも知りません。これから、ありえなかった関係の回復が起きることを。帰って来るはずのなかった者が、帰るべき場所へ帰っていくことを。癒された人は勇気を出して、自分の家へ帰ります。

 

 この教会は、盲人が帰ってくる「家」となっているでしょうか? それとも、イエス様が「入ってはいけない」と言われた「村」に過ぎないのでしょうか? 私たちは癒された後、どこに帰るのでしょうか? 自分を追い出し、関係を失った「家」へと、ちゃんと帰ることができるのでしょうか?

 

 イエス様自身は、やがて人々から裏切られ、見捨てられ、殺されてしまいます。完全に人々との関係を切られてしまいます。ところが、三日目に死から甦り、復活したイエス様は、再び弟子たちのもとへ帰っていきます。「本当にこの人は神の子だった」……そう宣言したローマ兵のところではなく、自分を見捨てた弟子たちのもとへ。「あなたたちに平和があるように」人々に声をかけ、ありえない関係の回復をもたらします。

 

 私たちは気づいているのでしょうか? この家に、教会に、イエス様が帰ってきてくださったことを。復活したキリストが側にいると気づかず、ポツポツと話していた私たちは、パンを割かれた瞬間目が開かれます。奇跡は十字架で終わっていない。イエス様は私たちの代わりに犠牲になった、それで奇跡は終わっていない。

 

 キリストは復活されました。帰って来られました。キリストの顔を見ても気がつかず、泣き続け、理解しない私たちのもとへ、姿を現されました。受け入れなかった私たちを受け入れるように、信じなかった人々を信じるように変えられました。教会が帰るべき家となるように、和解の場所となるように、私たちに現れてくださいました。

 

 さて、次にイエス様が癒されるのは、ここへ帰って来るのは誰でしょうか? 私たちが「おかえり」と言うのは誰でしょうか? 私たちはその人の回復を願えるでしょうか?……共に、祈りを合わせましょう。