ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

岐阜市の華陽教会にいる牧師個人のブログ

犠牲にしてよかったの? 士師記11:1〜11、29〜40

聖書研究祈祷会 2018年8月8日

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【美しく語られる犠牲】

 誰かのために自らの命を犠牲にする……その行動に対し、私たちは美しさを感じます。アニメや映画に出てくるヒーローが、自分を犠牲にしてでも誰かを守る、その人の命を救う……そんな姿に私自身、憧れを感じてきました。私だけではないでしょう。子どもの頃、自分もヒーローのように、たとえ命を失ってでも、誰かを守れるような人間になりたい……そう感じたことのない人は、むしろ少ないと思います。

 

 現実の世界でもそうです。アウシュビッツで死刑に選ばれた男の代わりに、自ら処刑されたコルベ神父、勾配を逆走する列車を止めるため、自ら線路に身を投じた長野政雄さん、電車でナタを振り回す男から乗客を守るため、刺されてもなお立ち向かった人……私たちはその死を悼みつつ、彼らの姿を、美しく尊いものとして憧れてきました。キリスト教会でも、殉教した人々の死は、聖人や信仰の模範的姿として記憶され続けています。

 

 誰かのために自らの命を献げる行為、確かにそれは、愛と勇気に満ちた行為で、私たちを感動させます。同時に、その感動は非人道的な目的に利用されることもあります。世界に本当の平安をもたらすため、自分や一部の人々を犠牲にする……そんな精神のもと、自爆テロや無差別テロが今も行われています。私たちの国も戦時中、お国のために、人々のために死ぬという行為が尊ばれ、多くの少年たちを特攻隊の飛行機に乗せました。

 

 中には、「みんなのために死ぬ」ことを誇りに思っていた人もいたでしょう。彼らの死は「尊い犠牲」として記憶され、今でも「かっこいい」「立派な」死に様として語られることがあります。もちろん、彼らが敵の戦艦に自分ごとぶつかっていった時には、日本は既に降伏する他ないことが分かっていました。降伏すれば彼らの命を犠牲にしなくて済むことも分かっていました。それでも、犠牲を強いるもの、犠牲を促すものがありました。

 

 あの頃、日本にある多くの教会は国の勝利を祈っていました。兵役拒否をした信仰者もいましたが、それは一部でした。今、私が恐れているのは、国の勝利を祈りながら、「君たちもキリストにならって自らの命をささげなさい」と少年たちに教えていなかったかということです。絶対にそうであってほしくないですが、キリスト者の誰一人そう勧めなかった、あるいは、今後もそう勧めることはないという自信は、今の私にはありません。

 

【犠牲を促す教え】

 そう、誰かのために命を捨てるということこそ、キリスト者が繰り返し思い起こすイエス様の姿でした。全ての人を救うため、私たちが受けるべき罪の罰を負って、自ら十字架にかかってくださったイエス様……そのイエス様に倣うこと、従うことが私たち教会の大切にしてきた教えです。

 

 ヨハネによる福音書では、イエス様自身、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」と言っています。また、マルコによる福音書では「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである」とも言っています。

 

 この言葉を引用して、「さあ、あなたも人々のために自らの命を献げなさい。そうすれば天国で救われる」と言って犠牲を強いれば、もう立派なテロ組織、破壊的カルトの出来上がりです。犠牲という行為に「美しさ」を感じてしまう私たちは、今はそうでなくても、再び誰かに犠牲を強いる可能性を常に抱えています。

 

 実際、今日読んだエフタの娘についての記事は、ギレアドの住民のため娘を犠牲にしたエフタ、また自ら犠牲になることを受け入れた娘のことが、美しく、尊い犠牲として語られてきました。

 

 戦争の勝ち負けを除けば、あの特攻隊と何が違ったのだろう……と私は思ってしまうのです。先日、平和聖日の礼拝が日曜日に行われたように、今月は平和について考える期間です。今、これらの犠牲の話を覚えるとき、もう一度立ち止まって、十字架にかかったイエス様の犠牲とは、キリスト教における犠牲とは何なのか、考えたいと思うのです。

 

【綺麗に語れない犠牲】

 さて、士師記にはイスラエルにおける数々の戦争が描かれてきましたが、中でも今日読んだ箇所は、非常に悲劇的な結末を迎えます。敵のアンモン人と戦う直前、戦闘を指揮するエフタが必勝を祈願して神様にこう誓うのです。

 

 「もしあなたがアンモン人をわたしの手に渡してくださるなら、わたしがアンモン人との戦いから無事に帰るとき、わたしの家の戸口からわたしを迎えに出て来る者を主のものといたします。わたしはその者を、焼き尽くす献げ物といたします」……彼は自分からこう言った後、20の町とアンモン人を徹底的に攻撃し、敵を完全に屈服させました。

 

 そうして家に帰ってくると、彼の一人娘が父親の帰還を祝い、鼓を叩いて、踊りながら出てきたのです。エフタはそれを見て嘆き悲しみながら叫びます。「ああ、わたしの娘よ。お前がわたしを苦しめる者になるとは。わたしは主の御前で口を開いてしまった。取り返しがつかない」

 

 そう……彼は神様に、自分の家の戸口から迎えに出てくる者を、焼き尽くす献げ物としてささげることを誓っていました。もはやなかったことにはできません。愛する娘であろうと、神様への誓いは果たさなければなりません。すると、娘は落ち着いた様子でこう答えます。

 

 「父上。あなたは主の御前で口を開かれました。どうか、わたしを、その口でおっしゃったとおりにしてください。主はあなたに、あなたの敵アンモン人に対して復讐してくださったのですから」……こうして、彼女は2ヶ月経った後、父親の誓いどおりに、焼き尽くす献げ物として神様にささげられたのです。

 

 この話を美しく語ることもできなくはありません。「エフタは自分が最も大切にする存在をささげて、ギレアドの住民に勝利をもたらしたのだ」「彼の娘は自分が犠牲になることを厭わず、住民のために命をささげたのだ」……しかし、これは一人の娘がサクッと身投げして終わる話ではありません。父親の手で、焼き尽くす献げ物にされる話です。

 

 焼き尽くす献げ物の規定は、レビ記1章に出てきます。まず、献げ物にする対象を切り裂いて殺し、その血を祭壇の四方に注ぎます。次に皮を剥ぎ、その体を各部に分割して薪を並べ、火をつけます。さらに、分割した各部を頭と脂肪と一緒に薪の上に置き、内臓と四肢を水で洗って、その全部を燃やして煙にするのです。

 

 これを、実の娘が父親に行われます。どれだけ生々しい行為か分かったでしょうか? とても美しく語れる犠牲ではないのです。さらに、エフタの娘は毅然とした態度で、泣くことも嘆くこともなく死んでいったのではありません。2ヶ月の間、友だちと共に山々をさまよい、自分が結婚することも、子どもを残すこともなく死んでいくことを泣き悲しんで過ごしました。

 

 「みんなのためなら喜んで死にます」と亡くなったのではありません。「死にたくない」と叫びながら、友だちにすがりつきながら、苦しんで死を迎えたのです。綺麗に語れる話ではありません。さらに、この悲しみはギレアドの住人どころか、イスラエルの全ての娘たちによって、毎年4日間思い起こされるようになります。

 

 彼女の死を勇敢なものとして賞賛するのではなく、悲しむべきものとして、全ての家で悼まれるのです。エフタの娘の死は、美しく、綺麗に語られることを拒むかのように、特別際立った描かれ方がされています。

 

【娘の犠牲の意味】

 私たちが気になるのは、この哀れな娘の犠牲が神様の意志によるものだったのか? 神様はなぜ彼女を助けなかったのか? という点です。そもそも、人間の命を神様にささげる行為は、異教的な習わしとして神様が忌み嫌うものでした。律法でも、人身犠牲を禁じる規定が、レビ記18章や申命記12章に繰り返し出てきます。

 

 また、この誓いを立てたエフタに対し、神様は何の反応も返しません。むしろ、誓いが立てられる直前に、主の霊がエフタに臨んだことが書かれていました。もう既に、神様の力で満たされた後であるにもかかわらず、エフタは異教的な恐ろしい誓いを立てて、勝利の保証を得ようとしてしまうのです。

 

 アブラハムが息子イサクをささげようとした時と違って、この犠牲は神様の要求によるものではありません。果たして、この誓いを信仰的な姿として受け取って良いのでしょうか? そして、息子をささげようとするアブラハムが神の使いに制止されたように、娘を救うためエフタを制止する神の使いは、なぜか現れません。神様はなぜ、この憐れな娘を助けなかったのでしょうか?

 

 ここで、私たちはある違和感を覚えます。自ら神様に誓った以上、エフタは家の者の誰かが犠牲になるのは分かっていたはずです。それなのに、彼は娘が出迎えたことに驚いた様子を見せます。「エフタがこのことを想像できなかったはずがない」という人もいますが、私はむしろ、彼の中では、他の者が犠牲になる予定だったのではないかと思うのです。

 

 なにせ、エフタには他に娘も息子もいませんでした。一人娘が死ねば、彼は子孫を残せません。自分が勝利した後の地位を念入りに長老たちへ確認する彼が、子のないまま人生を終わろうとしていたとは思えません。かといって、側女や遊女に子を産ませるつもりだったとも思えません。

 

 なぜなら、エフタ自身、自分が遊女の子として生まれてきたことを理由に、家を追い出された生い立ちを持つからです。実際、この後、彼が側女や遊女に子を産ませた話は出てきません。

 

 エフタが自分を出迎えて犠牲になると想像していたのは、いったい誰だったのでしょうか? 一人娘を産んで、男の子を埋めなかった妻でしょうか? 彼が束ねていた、ならず者の誰かでしょうか? 召使いや僕が出てくる予定だったのでしょうか? しかし、彼を出迎えたのはただ一人、自分の子孫を残せる娘でした。

 

 そして、娘の方も、まるで犠牲になることを分かっていたかのように、全てを受け入れる態度を見せます。「どうぞ、その口でおっしゃったとおりにしてください」……さらに、落ち着いた様子を見せつつも、自分に嘆き悲しむ時間をくれと要求します。「わたしが処女のままであることを泣き悲しみたいのです」……その言葉は「父よ、あなたはもう自分の子孫を残せないのです」と皮肉を言っているようにも聞こえます。

 

 彼女は家の者の誰かを犠牲にする父親の狙いを知っていたのかもしれません。それに対し、彼が最も後悔する形で抵抗したのです。彼女は人々の記憶に、犠牲を伴う手段が、いかに悲惨な苦しみをもたらすか刻みつけました。彼女の死後、英雄に子孫は生まれません。身内を犠牲にしたエフタは、この後、イスラエルの身内であるエフライムの人々をも4万人以上殺さなくてはならなくなります。

 

 さらに、エフタの死後、士師として立てられたイブツァンやアブドンには、30〜40人の子どもが生まれます。とても、一人の妻から生まれた数とは思えません。つまり、遊女や側女から生まれた、第二、第三のエフタと同じ境遇を持つ子どもたちが現れたのです。悲劇が繰り返されることを暗示しています。

 

 事実、彼らの子どもたちは一族以外の者とどんどん結婚し、イスラエルが異教の神々への信仰に傾く、新たなきっかけとなった可能性を感じさせます。娘を犠牲にしたエフタは、自分と同じ悲惨な境遇を持つ者が生まれることを止められませんでした。イスラエル全体の身内を次々と犠牲にしてしまいました。エフタの娘の話は、誰かのために犠牲を強いる人間の行為が、いかに愚かで悲惨な結果をもたらすか、私たちに伝えてくるのです。

 

【犠牲を完結させる主】

 イエス様が十字架にかかって払った犠牲も、勇敢で立派な英雄が、雄叫びを挙げて命を散らすような形では幕を閉じませんでした。彼は裸にされ、処刑場まで呻きながら歩かされ、罪人と一緒に磔にされます。エフタの娘のように、自分が父なる神に見捨てられたことを嘆いて死にます。それどころか、彼は誰にも賞賛されず、嘲りと罵りの中で殺されます。キリストの犠牲は、美しくもかっこよくも描かれません。

 

 ヘブライ人への手紙では、この犠牲がただ一度ささげられることで、全ての人に神様の赦しがもたらされたこと、罪を贖う祭儀が完成したことを強調しています。人間が神様に犠牲をささげる行為は、ささげる人間自身が罪を負っているため、繰り返さざるを得ない性質がありました。しかし、神の子であるイエス様は、もう誰も、人も動物も犠牲にならなくていいように、この一回で全ての罪を贖ったのです。

 

 そして、愛の主である神様は、エフタのように、たった一人の子どもを犠牲にしたままで終わりません。大勢のために一人を犠牲にして終わることを義としません。人々のために十字架にかかった息子を復活させ、彼を見捨てた人々のもとへ再会させます。神と人、人と人とに、果たされるはずのなかった和解を実現させます。

 

 イエス様の犠牲が、命の喪失で終わらなかったこと、命の復活と関係の回復によって、この業が完成されたことを、私たちは忘れてはなりません。これは人間にはできないことです。私たちには、人の命を復活させることも、死によって壊された関係を回復させることもできません。どれだけ多くの人のためであっても、大切な人のためであっても、犠牲になって失った命を甦らせることはできません。

 

 キリストは、ただ一度、ご自分を犠牲にすることで、私たちの命を救われました。もう二度と、同じような犠牲を誰かが払うことを望みませんでした。私たちが誰かのために命の犠牲を強いるとき、自分自身の命を犠牲にしなければと思うとき、イエス様の十字架と復活によってもたらされた赦しと回復は、大切にされているでしょうか?

 

 人間が強いる犠牲は、エフタの娘が現したように、悲しみと負の連鎖を残します。イエス様が十字架にかかってくださったのは、その連鎖を断ち切るためでもあったこと、私たちの命を救うためであったことを思い出したいのです。

 

 イエス様が与えた「新しい命」は「新しい生き方」です。神様が私たちにささげることを望んでいるのは、「互いに愛し合いなさい」という教えに生きる、私たちの生き方です。誰かを犠牲にすることを望まない、喪失で終わる犠牲を手段にしない、神様による和解と回復を信じ続ける生き方です。共に、新しく立てられて生きましょう。