ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『お前は罰を受けるんだ…』 ナホム書3:1〜3、8〜19

聖書研究祈祷会 2018年9月5日

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【それは誘惑だ】

 「お前たちは罰を受けるんだ」……そう言ってやりたい相手が皆さんにはいるでしょうか? 私にはいました。子どもの頃、中学2年生の終わりに、私は父の転勤で九州から本州へ引っ越すことになりました。仲の良かった友達と離れ離れになる、そう知って悲しかったというより、仲の悪かった人たちと離れ離れになれる、というせいせいした気持ちの方が強かったかもしれません。

 

 小学生の時から、私はあまり多くの人と仲良くなれるタイプではありませんでした。どちらかと言うと、ぶりっ子で、真面目っぽくて、誰かが悪いことしていると、すぐ先生に言いつけてしまうような、あまり歓迎されないタイプの人間でした。ですから、敵も多かったわけです。

 

 学校のトイレでスリッパに履き替えている間、上靴の中に唾を吐かれているのはしょっちゅうでした。昼休みにみんながバスケをしているところに混ぜてもらうと、ボールを取られるとき、一緒に制服のシャツも破かれました。眼鏡のケースを隠されたり、筆箱の中身が出されていたりすることもありました。もちろん、教科書やノートが多目的室のゴミ箱から出てくることもありました。

 

 一番ショックだった記憶は、「ねえ、友だちいる?」と聞かれたときの話です。私が普通に「いるよ」と答えると、「それって誰?」とまた聞かれました。私は昼休みに遊んだことのある人たちの名前を何人か挙げました。しばらく経って、その質問をした人が私のところに戻ってきました。そして言うんです。「○○くんも、○○さんも、○○ちゃんも、『友だちじゃない』って言っていたよ」……と。

 

 私と仲良くしてくれる人、楽しい記憶もありましたが、それらはこういう記憶に上書きされて、引っ越すときには、周りに敵ばかりがいる土地から出て行くような、そんな気分になっていました。だから、最後にこう思ったわけです。彼らを悔やませたい。自分たちがどんなに傷つくことをしてきたのか知って、後悔させたい!

 

 ある時、それをポロッと家で言ってしまったことがありました。私の思いを聞いて、少し離れたところにいた父は、「ブン」と私のことを呼びました。(父は幼い頃の私をブンと呼んでいました)。

 

 父は私が学校をズル休みしたときも、泣いて帰ってきたときも、車に乗せて山まで行って、よく話を聞いてくれました。だから、私のしんどさも辛さも知っていました。きっと今回も「その気持ちはよく分かる」と言ってくれるんだろう……私はそう思っていました。ところが、父から出てきたのは違う言葉でした。

 

 「ブン、それは誘惑だ……」その瞬間、顔が一気に熱くなったのを覚えています。私はただ、ショックを与えたかっただけなのです。自分を傷つけた人たちが何らかの罰を受けて、後悔するところを見たかったのです。これから引っ越して離れていく私は、彼らと和解する気も、仲良くなる気もありませんでした。ただただ、彼らが裁かれるところを最後に見たいと思っていたのです。

 

 しかし、父の言葉は、私の思いが間違った方向へ傾いていることに気づかせました。すぐ顔が熱くなる程度には、「その思いは誘惑だ」という言葉に、反論できない自分がいたのです。敵との和解ではなく、裁きを見たい……同じような誘惑に駆られた人物が、イスラエルにもいました。預言者の一人であり、大きな魚に呑み込まれたことで一躍有名となったあの人物……そう、ニネベの町へ遣わされたアミタイの子、ヨナのことです。

 

【ヨナの誘惑】

 ヨナ書の冒頭で、彼に向かって神様がこう語りかけます。「さあ、大いなる都ニネベに行ってこれに呼びかけよ。彼らの悪はわたしの前に届いている」……通常なら、預言者は神様の言葉にしたがって、その言葉を人々に語り伝えるわけですが、あろうことか、ヨナは「そんな仕事できるか」とばかりに逃亡してしまいました。

 

 ニネベというのは、紀元前721年に北王国イスラエルを滅ぼしたアッシリアの有名な都市の一つです。言わば、イスラエルにとって忌むべき敵を代表する町なわけです。先ほど読んだナホム書にも、この町の悪行の数々が記されています。流血の町、偽りに覆われ、略奪に満ち、人を餌食にすることをやめない。争いは絶えず、戦争で犠牲になった死体は数えきれない……そんな有様が描かれます。

 

 当然、自分なんかが行けば、敵であるニネベの住民に、ひどい目に遭わされるに違いない……という不安もあったでしょう。しかし、彼がこの地で預言することを拒否したのは、それだけではありませんでした。「預言」というのは、神様の言葉を預かって、人々に伝える行為です。その目的は、神様に背いている人々を悔い改めさせ、立ち返らせ、裁きを免れさせることです。

 

 つまり、本来は滅ぼされるべき人々を赦しへ導き、何とかして救いに至らせようと、神様が働きかける業なのです。イスラエルは何度も、そうやって神様から預言者を遣わされてきました。ところが、今回はイスラエルの敵である、アッシリアの都ニネベに対して、神様はヨナを遣わそうとします。自分たちを傷つける、苦しませる敵に向かって、チャンスを与えようとするのか……? ヨナにはそれが我慢できなかったようです。

 

 彼もまた、敵であるニネベが裁かれ、ショックを受けるところが見たかったのだと思います。ニネベの人々が神様と和解し、滅びを免れることよりも、自分たちを傷つけてきた当然の報いを受けるよう期待していたのだと思います。ヨナは後日、神様に連れ戻され、結局ニネベの町へ預言しに行きますが、彼の言葉は端的に裁きだけを伝えます。

 

 「あと40日すれば、ニネベの都は滅びる」……イスラエルでも散々言われてきた、神様からの警告の言葉、それをニネベの人々があっさり信じるわけがない。そう思ったのも束の間、彼らはヨナの言葉を聞いて神様を信じ、一斉に断食して、悔い改めの姿勢を見せます。すると神様も、彼らが悪の道を離れたのを見て思い直します。宣告した災いを下すのをやめようと。

 

 一方、ヨナはこれに対して大いに不満を持ちます。「なぜですか神様、40日経ったら滅ぼすと言ったじゃありませんか!」……実は、人々に神様の言葉を伝え、見事悔い改めさせることに成功し、滅びを免れさせたのは、預言者の中でヨナただ一人です。誇ってもいいことですが、彼の気持ちは収まりません。彼が期待していたのは、憎むべき敵が悔い改めて救われることではなく、自分が神様に語らされたとおり、彼らが滅びることでした。

 

 ヨナは正直に、「思い直してほしくなかった」と神様にぼやきます。しかし、「滅ぼす」と言われて滅ぼされなかった民は、ニネベの住民だけではありませんでした。ヨナを含むイスラエルの民も、同じ経験をしてきたのです。

 

【ニネベとエルサレム】

 アダムとエバは「食べると必ず死んでしまう」と言われていた木から、実を取って食べてしまいました。しかし、神様に背いた2人は楽園から追い出されたものの、皮の衣を与えられ、死ぬことなく外の世界へ出て行きました。

 

 イスラエル人が、自分たちを奴隷にしていたエジプトを脱出した後、彼らは何度も神様の言うことを信じないで、不満をぶつけました。神様は何度か怒りを爆発させ、みんな滅ぼしてしまおうとされましたが、その度に彼らを憐れみ、踏みとどまりました。

 

 また、王国ができる前の士師時代、民は繰り返し神様に背いては、敵に攻め込まれる形で裁きを受けました。しかし、民が苦しんで助けを求めると、神様は再び思い直し、憐れみを持って人々を助けました。何度も、何度も、それを繰り返してきたのです。しかし、人々はだんだんと、神様に助けを求めることさえなくなっていきました。そして、とうとう彼らは徹底的な裁きを受け、大国に攻め入れられます。

 

 神様によって送り込まれ、イスラエルの半分である北王国を滅ぼして支配したのは、他ならぬ、大いなる都市ニネベを持つアッシリアでした。さらにその後、紀元前586年に、南王国ユダもバビロンによって滅ぼされ、イスラエルは完全に国を失ってしまいました。ヨナ書が書かれたのは、その後だと言われています。

 

 我々は滅ぼされたのに、敵は滅ぼさないのですか?……長い間胸の中にあったイスラエルの不満が、ヨナの言葉となって現れます。しかし、神様はヨナに向かって言われます。「どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、12万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから。」

 

 自分を傷つけてきた敵を神様が庇ったときの気持ち……非常にショックだったと思います。ヨナが、イスラエルの民が聞きたかったのは、そんな言葉ではなかったでしょう。お前の気持ちはよく分かる、彼らにあれだけひどいことをされたのだから……そう言って欲しかったと思うのです。けれども、神様は敵を滅ぼすどころか庇ってしまいました。何とも期待ハズレです。

 

 ところが、今回は違います。ナホム書では、新たに立てられた預言者が、再びニネベの裁きを語ります。今度はもう、敵を憐れみ、庇おうとする神様の姿はありません。ナホムは、「慰め」という意味の名を持つ預言者ですが、名前に似つかわしくない、非常に厳しい裁きを告げます。

 

 「当然の報いだ、お前が悪い!」かつて、私が同級生に言いたかった言葉が、ナホム書の最後に出てきます。「お前の傷を和らげるものはなく、打たれた傷は重い。お前のうわさを聞く者は皆、お前に向かって手をたたく。お前の悪にだれもが、常に悩まされてきたからだ」……これこそが、ヨナの期待した、イスラエルの民が願ったことでした。

 

 しかし、皮肉なことに、ニネベが滅ぼされることによって、神に背いた民と、神に選ばれた民の姿は、ほとんど重なってしまいます。神様に「滅ぼす」と言われ、悔い改め、助かってはまた罪を繰り返す……そして、ついには滅ぼされる。ニネベとイスラエルに、何ら違いはありません。滅ぼされて当然の敵の姿は、それを願ったこちらの姿を映し出しているのです。

 

【傷を受けた方】

 「お前の傷を和らげるものはなく、打たれた傷は重い。お前のうわさを聞く者は皆、お前に向かって手をたたく。お前の悪にだれもが常に悩まされてきたからだ」……敵にショックを与えたかった言葉が、今私たちにふりかかります。この言葉どおり、ニネベの傷が癒されないなら、エルサレムの傷も癒されないでしょう。

 

 自分の憎む相手に、「お前は罰を受けるんだ」と言いたくなる私たちは、皆同じく徹底的な裁き、和らぐことのない傷を負うことになるのでしょうか? いえ、私たちは知っています。ナホム書の最後の言葉を読む時、ある方の姿が浮かんでくると……裁かれるべき者に代わって、手と脇腹に傷を受けた方、滅ぶべき者に代わって、鞭打たれた方。そう、全ての人の罪が赦されるよう、十字架にかかってくださったイエス様の姿です。

 

 「敵を愛しなさい」……イエス様はよくそう言われました。当時、ユダヤ人の中で裏切り者と思われていた徴税人を仲間にし、自分たちを支配していたローマ兵の病を癒し、異邦人の娘を救い、自分を歓迎しなかったサマリア人にも教えを語りました。救われるはずのない者、滅ぼされて当然の者、皆に憎まれ、蔑まれている者のために、神様の教えと業を行いました。

 

 裁かれてほしい、ショックを与えたい……そう思う中、救われていった私たちの敵は、私たち自身の姿でもあります。イエス様は、私たちが負うべき傷を代わりに受け、十字架にかかって命を落としました。その傷はそのまま腐り、醜く朽ちていくはずでした。しかし、イエス様は三日目に復活し、朽ちていくはずだった手と脇腹の傷を弟子たちに見せられます。

 

 自分を見捨てた弟子たちに、死んで仲直りできなかったはずの人たちに、「平和があるように」と語り、「信じる者になりなさい」と呼びかけ、和解と回復をもたらします。裏切り者、見捨てた者を敵にせず、友として、子として接してきます。神様は癒されるはずのない傷を癒してくださいました。

 

 ナホム書の裁きの言葉は、それを代わりに受けてくださったイエス様を思い出す「ナホム(慰め)」の言葉となりました。共に、この方の赦しと愛が、私たち自身の関係を新しくしていくと信じ、期待し、行動へと促されていきたいと思います。