ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『神も手綱を握れない?』 イザヤ書10:5〜19

聖書研究祈祷会 2020年11月25日


『神も手綱を握れない?』聖書研究祈祷会 2020年11月25日

 

案 内

現在、華陽教会の聖書研究祈祷会は、配信に載せる第一部と、配信後、時間のある人と質問や感想を分かち合う第二部に分けて行っています。牧師に相談やお話がある方は、ぜひ、配信後も2階集会室へおいでください。

 

讃美歌

それでは、第一部「聖書研究会」を始めます。最初に、讃美歌21の445番「ゆるしてください」を歌いましょう。飛沫感染を避けるため、マスクをしたままで歌います。

 

お祈り

ひと言お祈りをします。共に心を合わせましょう。

 

◆人と人との間におられる私たちの神様。今日もまた、あなたによって守られて、水曜日の聖書研究祈祷会を始めることができ、感謝致します。どうか今、自宅で、施設で、職場で、屋外で、あなたの言葉を必要としている人を祝福してください。

◆私たちの神様、先週は、収穫感謝日の礼拝を、幼稚園でも教会でも導いてくださり、感謝致します。どうか今、農業、畜産、酪農、漁業、様々な仕方で私たちの食卓を整えてくれる人たちに、あなたの恵みと慈しみが豊かにありますように。

◆私たちの神様、来週は、いよいよアドヴェント第一週目を迎えます。イエス様が再びこの世に訪れる日を願いながら、その誕生を祝う準備の期間が始まります。どうか今、ふさわしい迎え方ができるように、一人一人を導いてください。

◆私たちの神様、親しい方を亡くした人や身内が弱っている人を力付けてください。あなたは全ての者を癒し、全ての者を受け入れてくださるお方です。どうか今、独り子を失って復活させたあなた自身が、みんなに希望を示してください。

◆私たちと共におられるイエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

聖書朗読

聖書の言葉を聞きましょう。イザヤ書10:5〜19(新共同訳より抜粋)

*当ブログ全体における聖書の引用を適切な範囲内で行うため、後ほど聖書箇所のみ記載し、本文をカットすることがあります。後からご覧になる方は、該当する聖書箇所を日本聖書協会の「聖書本文検索」か、手元に新共同訳聖書がある方はそちらからお読みください。

www.bible.or.jp

 

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Jim BlackによるPixabayからの画像

メッセージ

言うことを聞かない道具

聖書に親しんでいる人であれば、北王国イスラエルを滅したアッシリア、南王国ユダを滅したバビロニアといった国には、あまり良いイメージを持てないかもしれません。かつてイスラエルを奴隷にしていたエジプトや、後にイスラエルを支配したローマ帝国と並んで、神の民として選ばれた小国を苦しめた、大国の一つだからです。

 

これらの国々は、神に選ばれなかった、神に敵対した国として、イスラエルと対照的に捉えられます。いわゆる善人と悪人、正しい者と間違った者、従う者と背く者……といった具合に、神を信じるイスラエル人と偶像を拝む異教の国々は、クッキリと分けて捉えがちです。

 

事実、多くのイスラエル人にとって、自分たちと敵対した国々は、神に救われるはずのない、神に選ばれるはずのない、愚かな民として映っていました。ところが、今回そんな国の一つであるアッシリアが、神に選ばれ、用いられた国の一つとして、預言者イザヤに言及されます。

 

なんと、この国は神様から「わたしの怒りの鞭となる」「わたしの手にある憤りの杖だ」と言われ、神を無視する国に向かって遣わされ、神の激怒をかった民に対して、「戦利品を取り、略奪品を取れ」「野の土のように彼を踏みにじれ」と命じられたことが明かされるんです。

 

まるで、サウル王やダビデ王の時代、神に命じられて、周りの国を裁いてきたイスラエルのような扱いです。しかも今回、神を無視して激怒をかった国民とは、他ならぬイスラエル人だと言われます。かつてと立場が逆転しています。自分たちの敵国が、自分たちを守ってきた神に選ばれ、自分たちを裁くために用いられた器だと言われてしまう。

 

並々ならぬショックでしょう。けれども、そんな裁きの道具として選ばれたアッシリアも、結局、神の言うとおりにできなかったことが告げられます。「彼はそのように策を立てず/その心はそのように計らおうとしなかった。その心にあるのはむしろ滅ぼし尽くすこと、多くの国を断ち尽くすこと」

 

どうやら、神様は諸国の民を裁く者として、アッシリアを選んだにもかかわらず、またも逆らわれてしまったようです。イザヤの預言は、そんなアッシリアに対しても神の裁きが下されるという内容ですが、ちょっと皮肉に感じますよね? だって世界を創造し、様々な奇跡を起こしてきた神様が、毎回選んだ者に反抗され、手綱を取れていないんですから。

 

すぐ裁かない神

言うことを聞かないのであれば、自分に背くのであれば、さっさと罰して懲らしめれば良いのに、神様はけっこうグズグズしています。今回、これだけはっきりアッシリアの罪を糾弾しているのに、その裁きが下されるのはずっと後、イスラエルの首都エルサレムに審判が下された後だと言うんです。

 

いやいや、従わない奴なんて、早いとこ裁けばいいじゃないですか? 長いこと様子を見ているから、そんなふうにすぐ舐められるんですよ。アッシリアの呟きを見てください。「王たちは、すべて、わたしの役人ではないか」「自分の手の力によってわたしは行った。聡明なわたしは自分の知恵によって行った」

 

もう神様の導きなんて、はなから頭にありません。何もかも自分の手で成した、自分の力でやり遂げたと、自信満々に豪語しています。神様が助けてそうなったなんて、全然分かっていないんです。さっさと痛い目見せた方が、周りにも示しがつくでしょう。でも神様は、アッシリアへの裁きを遅らせます。イスラエルが倒れた後まで手を出しません。

 

そりゃ、手綱も取れないですよね? 思わず、アッシリアの高慢な振る舞いを、直ちに裁かない神様が、部下に舐められる愚かな上司のように見えてきます。しかし、似たようなパターンを、私たちはどこかで見てきました。実はこれって、もろにイスラエルと神様の間で起きてきたパターンなんです。

 

そのうちの一つを思い出してみましょう。士師記7章に、敵を倒すため多くの兵を集めたイスラエル人のリーダーに、神様がこう言うシーンがありました。「あなたの率いる民は多すぎるので、ミディアン人をその手に渡すわけにはいかない。渡せば、イスラエルはわたしに向かって心がおごり、自分の手で救いを勝ち取ったと言うであろう」

 

もろに、アッシリアの態度を思い出させる言葉です。そうして神様は、3万2千にいた兵のうち、たった300人だけで敵に立ち向かわせ、イスラエルに勝利をもたらします。どう考えても力の及ばない人々が、神様によって勝利を掴んだ出来事です。しかし、そのとき選ばれたリーダーは、間もなく戦利品を横領して、金の飾り物で神の象を作り、偶像崇拝を犯します。無力な自分たちを助けてくれた、神に対する冒涜です。

 

ところが、彼とその民をすぐさま神は打ちません。次の代、その次の代までやり直す時間を与えながら、立ち帰る機会を与えながら、裁きを遅らせていきます。考えてみれば、どの時代も預言者なんか送らないで、すぐ粛清していれば、恐怖のもとに人々を支配できたかもしれません。

 

けれど、神様はそういう手段を取らないで、人々と人格的な関係を築いてきました。過ちを指摘し、傷ついたことを訴え、反省するよう要求し、和解ができる機会を作る……繰り返し、自分の選んだ民との間で行ってきたプロセスを、もう一度思い出すようイスラエルの人々に促します。

 

イスラエルの鏡

そう、アッシリアの手綱が取れていないように見える神様は、イスラエルの民とも同じように、怒りを表しながらも非情になれない態度をとってきました。憐れみ深い、慈しみ深い神様は、全ての国民と健全な関係を築こうとします。旧約の神は、人々を直ちに粛清する「裁きの神」というイメージが強いかもしれませんが、実はそうでもないんです。

 

むしろ、「滅ぼし尽くす」と言いながら、実際には滅ぼし尽くさない。いつまでも悔い改める機会を与えようとする、そんな神様の姿が出てきます。「いい加減にしないとうちから追い出すよ!」と叱りながら、いつまでも家の中で子どもが反省するのを待っている親のよう……私たちはこういう方のもとで、叱られ、諭され、励まされてきました。

 

もう選ばれるはずがない、もう期待されるはずがないと思われる愚かな者を、神様は何度も救い上げ、自分の子として取り扱い、新たな使命へ遣わします。実際、1ヶ月後に迎えるクリスマスには、神と敵対した異邦人と救い主イエス様との出会いが語られます。

 

かつて、アッシリアやバビロニアがあった東の方から、救い主を尋ねてやってきた占星術の学者たち。かつて、イスラエルを奴隷にしていたエジプトへ、ヘロデ王の虐殺を逃れて避難する救い主の家族たち。イエス様に信頼し、部下を癒してもらったローマ帝国の百人隊長……いずれも、神に逆らった、神を無視した歴史を持った人々です。

 

その人々と、イエス様は共に歩まれます。イスラエル人も異邦人も、全ての人の罪を担って、彼らを癒し、彼らを正し、新しい生き方へ入らせていきます。もうじき、そんなイエス様が、再びこの世に訪れることを祈り求めるアドヴェント、救い主の誕生を祝う準備の期間が始まります。共に神様の憐れみと慈しみに感謝して、この4週間に入りましょう。

 

とりなし

共に、神様から与えられたとりなしの務めを果たしましょう。本日は『信徒の友』の「日毎の糧」で紹介されている(岡山県玉野市の玉野教会)のために、医療従事者のために、介護士やケアマネージャーのために、社会福祉士のために、祈りを合わせましょう。

 

◆神様、あなたは祈りに応えて恵みを与えてくださいます。どうか今、私たちがささげる祈りをお聞きください。

◆岡山県玉野市の玉野教会のために祈ります。教会員の信仰生活と健康が守られますように。礼拝や祈祷会を通して、神様の恵みを受けた人々が、家族・友人・地域の人々へ、その恵みを分かち合うことができますように。

◆医療従事者のために祈ります。各地で感染症対策のために奔走しながら、他にも多くの治療や予防を担っている人たちに、あなたのお守りがありますように。どうか、医師、看護師、保健所の職員とその家族も、様々な脅威から守られますように。

◆介護士やケアマネージャーのために祈ります。少しでも彼らの待遇が良くなって、働きを担う仲間が増やされますように。様々なトラブルから守られて、利用者との健全な関係が広がりますように。

◆社会福祉士のために祈ります。様々なケースに対応しながら、相談に乗り、制度を調べ、ネットワークを形成している人たちに、あなたの慈しみがありますように。どうか、必要な知恵と解決の道がそれぞれに与えられますように。

◆今も生きておられ、私たちをとりなしてくださる方、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

讃美歌

オンライン賛美歌「神よ 諦めない心」を歌いましょう。こちらも、飛沫感染を避けるため、マスクをしたままで歌います。

 

主の祈り

共に、イエス様が弟子たちに教えられた最も基本的な祈りを祈りましょう。主の祈り。

 

天にまします我らの父よ。

願わくは御名をあがめさせたまえ。御国を来たらせたまえ。

みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。

我らの日用の糧を今日も与えたまえ。

我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、 我らの罪をも赦したまえ。

我らを試みにあわせず、悪より救いだしたまえ。

国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

 

以上で第一部「聖書研究会」を終わります。配信後、時間のある方は飛沫防止用のパーテーションをつけた2階集会室で、質問や感想などを分かち合う第二部「分かち合い」のときを持とうと思います。また日曜日まで、皆さん一人一人に神様の平和がありますように。