ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『質問の答えじゃありません』 ヨブ記38:39〜39:30

聖書研究祈祷会 2018年9月26日

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【質問ガン無視の神様】

 「なぜ何も悪いことをしていない私が、むしろ神様に従って正しく歩んできた私が、財産を失い、子どもを失い、健康な体も失って、理不尽な目に遭わされるのか?」「神様は私の祈りを聞いてくださらないのか?」そんな悲痛な問いかけを、ヨブは繰り返し叫んできました。

 

 「いやいや、お前が気づいていないだけで、本当はひどい罪を犯したんじゃないか?」「あなた自身に落ち度があるから、これほどの不幸が重なったんじゃないか?」……そうやって友人たちにも責められ続けた末、ようやく38章になって、神様が答えを返します。

 

 「これは何者か。知識もないのに、言葉を重ねて神の経綸を暗くするとは。男らしく、腰に帯をせよ。わたしはお前に尋ねる、わたしに答えてみよ。」そう言って神様は、自分がいかに全能であり、人間の知識や理解を超えた存在であるかを語ってきます。そう、「なぜ正しい人が苦難に遭わなければならないのか?」というヨブの問いには、直接答えていない返事です。質問ガン無視の神様の言葉……それが先ほど読んだところまで続いていきます。

 

 神様ちょっとあんまりじゃないですか? ヨブはここまでずっと我慢してきたんです。せめて「お前は悪いことをしていない」「お前の不幸はお前の落ち度のせいじゃない」と、ひと言おっしゃってあげたらどうですか? そう思ってしまいます。結局神様は、サタンとのやりとりがあったことも、ヨブがどこまで無垢でいるかを試すために不幸をもたらしたことも、一切彼に告げません。

 

 代わりに、自分が天地を創造し、大地を据え、海を造ったこと、それらを全て支配下に置き、天候や星の配置まで自由にできることを語ります。そして、人間の他に造った野生の生き物たちも、神様の手の内にあることを告げるのです。これが、ヨブにとって答えになったのでしょうか? 自分の身に起きた数々の不幸、理不尽な現実を受け入れる返事になったのでしょうか?

 

 一見すると、何の答えにもなっていない神様の返事、ヨブの身に起きた不幸とは何の関係もない話……そのようにしか思えませんが、実は、今日読んだところに、理不尽な出来事に対する「答えにならない答え」が示されていました。神様の支配する野生の生き物たちの姿を通して、共にその「答え」を受け取っていきたいと思います。

 

【子育ての理不尽】

 まず、最初にライオンの雌が登場します。やはり、「百獣の王」だから最初に登場するのでしょうか? かつてのイスラエルでも、そのような認識があったのかはよく分かりません。ただ、この後に出てくる山羊、鹿、ロバ、野牛、ダチョウ、鷹、鷲といった野生の動物と同じく、ライオンの生態も、当時はほとんど知られていませんでした。まあ、当たり前です。近づけば襲ってくる動物がほとんどですから。

 

 これらの生き物は、厳しい環境の中を生き抜き、人間にはない特殊な能力を持ち、ひと度出会えば、あらゆる生き物にとって脅威となる存在でした。ところが、ここではそんな恐ろしい生き物たちの最も弱い部分、人目に触れることのない部分が言及されます。それが、出産と子育てについての話です。「お前は雌獅子のために獲物を備え、その子の食欲を満たしてやることができるか。雌獅子は茂みに待ち伏せ、その子は隠れがにうずくまっている。」

 

 言われるまでもなく、ライオンの子どもをどうやって育てればいいか、普通の人間には分かりません。ただでさえ、少子高齢化や待機児童、子どもをどうやって育てればいいか悩んでいるのに、いちいち動物のことまで考えてられません。大人のライオンが狩りに行く間、子どもたちは勝手に巣から出ないでちゃんと待っているだろうか? なんてことよりも、自分の子どもをどうやって大人しくさせるかの方が気になります。

 

 なにせ、私たちが最も理不尽に感じていることの一つが、自分たちの子育ての問題ですから。ミルクをあげてオムツも替えて、一切不満はないはずなのに、泣き止んでくれない子どもたち。あの手この手で趣向を凝らし、必死に努力しているのに、子どもの口からペッと吐き出される野菜……。

 

 疲れ切ってちょっと目を離したスキに何かとぶつかって怪我をされ、「どうしてちゃんと見てなかったんだ」と一人だけ責任を問われる日々……何にも悪いことをしていない誠実な人でも、こんな理不尽な出来事が容赦なくふりかかってくる……それが子育てという場面です。

 

【野生のシビアな世界】

 強く雄々しい野生の生き物たちも、子育てという現場では多くの問題に晒されます。たとえば、最初に出てきたライオンの場合、その子どもの8割は、生まれてから2年以内に死ぬそうです。親が狩りに出かけている間、鷲やハイエナに襲われたり、狩りの失敗が続いて食べ物が与えられなかったり、幼いうちに病気になって命を落としてしまうこともあります。

 

 また、縄張り争いによって、群れの子どもが雄ライオンに全員殺されることもあるそうです。しかも、これが子どもの死亡率が高い一番大きな理由だと言われます。まさに理不尽な話です。

 

 次に、カラスについても子育ての言及がされています。「誰が烏のために餌を置いてやるのか。その雛が神に向かって鳴き、食べ物を求めて迷い出るとき。」日本でも最もよく目にすることが多い鳥ですが、その雛を見たことがある人はほとんどいないと思います。子育て中のカラスは特に警戒心が強く、人間や大鷹、キツネに狙われないよう、注意深く巣を作っているからです。

 

 実はカラスは、雄と雌の両方で一緒に子育てを行います。餌を取るのも、子どもを天敵から守るのも一緒です。夫婦で協力して子育てをするという点では、まだまだ日本の男性も頭が上がりません。しかし、そんなカラスの子どもの死亡率は、人間による駆除に次いで、「育児放棄」が大きな原因となっています。親が巣に戻ってこない。雛たちは食べ物を求めて口を開け、ひたすら両親を待っている。誰がその時、餌を置いてやるのでしょう?

 

 雄と雌が一緒に協力しても失敗してしまう……子育ては、それだけ生物界でもシビアな、逃げ出したくなる営みなのです。また、夫婦でうまく子育てができたとしても、多くの雛は病気で死んでしまいます。日本でも札幌限定で言えば、生後一年の時点で生き残るカラスは1割もいないそうです。カラスと言えば、「しぶとい鳥」というイメージですが、彼らも子どものうちに呆気なく死にます。必死に育ててきた親にとっては、やはり理不尽です。

 

 続けて、山羊と雌鹿についても、出産と子育てが言及されています。そういえば、この教会の前任の先生が行かれた四国の教会では、敷地内で黒山羊が飼われているそうです。私も子どもの頃、幼稚園で山羊の世話をしていました。なんとなく、常に草をモグモグと噛んでいるのんびりとしたイメージですが、彼らの場合も、子育ての際には、いくつもの問題が待ち構えています。

 

 実は、群れで生活する野生のヤギは、新参者にたいへん厳しく、なんと新しく生まれた子ヤギも例外ではありません。特に、雄はトラブルになりやすく、外からの敵ではなく、内部の関係性が子どもたちの生存のネックになります。これもなかなか理不尽です。学校で子どもたちがイジメに遭っていないか心配する、親の心境が思い出されます。

 

 そして、13節にはさらにシビアな生き物の世界が記されます。「駝鳥は卵を地面に置き去りにし、砂の上で暖まるにまかせ、獣の足がこれを踏みつけ、野の獣が踏みにじることも忘れている。その雛を自分のものではないかのようにあしらい、自分の産んだものが無に帰しても、平然としている」……この後に出てくる鷹や鷲と共に、ダチョウは「汚れた動物」として申命記に出てきます。

 

 そのためかひどい言われようですが、実際のところ、駝鳥が子育ての際、自分の卵を放っておくということはありません。カラスと同じで、彼らも雄と雌で交代しながら卵を温め、群れで生活して雛を守ります。ただし、群れの中では雄一匹に対し、一番強い雌と、それ以下の雌たちという上下関係が存在しています。

 

 一番強い雌は、雄が掘った巣穴の中央に卵を産みつけ、他の雌たちはその周りに卵を産みます。すると、ハゲタカなどの外敵に襲われた際、外側にある弱い雌たちの卵が先に犠牲となるのです。そのため、真ん中にある強い雌の卵は守られるという仕組みになっています。弱い雌のダチョウからすれば、自分の子どもが他の子どもの盾にされるという理不尽な話です。

 

【答えのない答え】

 理不尽、理不尽、理不尽、理不尽……子育てを経験した方なら、ここに出てくる野生の生き物の話を聞いたとき、多くの困難があったことを思い出すでしょう。「こんなはずじゃなかった」「私が悪いんだろうか」「どうすれば正しかったのか」……そんな呻きが聞こえてきます。

 

 今現在、芽含幼稚園でも「白百合の会」というお母さんたちの集いが毎月開かれています。ここでは、たくさんの子育ての悩みが語られます。聞いていて、私も本当にお母さんたちの悩みを何にも分かっていなかったなと思わされます。そしてこの会では、悩みに対する解決というものは示されません。

 

 「私はどうすればいいの?」「どうしてこんなことになるの?」という問いに、明確な答えは与えられないのです。「これが悪い」「こうすれば正しい」という答えはまず出てこないのです。むしろ、どうすればいいのか分からない、どうしてこうなったかも分からない、私にはこの問題を解決できない、何も変えることができないという現実ばかりが突きつけられる……しかし、お母さんたちはそこで互いに必要なものを得ていきます。

 

 「どうすればよかったのか分からないけれど、結局うちの子はこうなった」「こうやって育ってくれた」「あれだけ何を言ってもやらなかったことを、急に子どもの方からやり始めた」「ある日フッと変わり始めた」「できないことがあっても、なんだかんだ大丈夫な様子が見えてきた」……。

 

 「なぜ?」「どうして?」という疑問に答えは返ってこないけど、「ああ、よかった」「どうにかなるんだ」という未来は見えてくる。全く、どうしてそうなったのかは分からないけれど……お母さんたちは、互いにその経験を共有します。お互いの経験を聞いて、答えの返ってこない問題に付き合っていく力を与えられます。

 

 ライオンや山羊や雌鹿でさえ、多くの理不尽を経験しながら子どもたちを育てます。失敗の原因が何なのかも、どうすれば正しいのかも理解しない野生の生き物たち……しかし、その子どもたちは育っていきます。神様の大いなる御手の中で、成長し、守られ、大きくなっていくのです。どれだけ理不尽が積み重なっているときでも、その働きは続いているのです。

 

【悩み苦しむ者のための告白】

 ここで一つ、ある詩を紹介したいと思います。これは、南北戦争の時に作られた無名の兵士の詩で、「悩み苦しむ者のための告白」と呼ばれています。

 

 

 成功したいと思い、強さを与えてくださいと神に願った。

 しかし、私は弱くされた。それはへりくだって従うことを学ぶためだった。

 何か大きなことをし、成し遂げたいと思い、健康にしてくださいと神に願った。

 しかし、私には病弱な体が与えられた。それはもっと良いことをするためだった。

 幸せになりたいと願い、富をくださいと神に願った。

 しかし、私は貧しくされた。それは賢さを得るためだった。

 称賛を得たいと思い、権力を与えてくださいと神に願った。

 しかし、私には無力さが与えられた。

 それは自分には神が必要であることを知るためだった。

 人生を楽しみたいと思い、あらゆるものを与えてくださいと神に願った。

 しかし、私には命が与えられた。

 それは、あらゆることを楽しむためだった。

 

 私が神に願ったものは何一つ与えられなかった。

 しかし、望んでいたものはすべて与えられた。

 

 全く思いもかけず、言葉にならなかった数々の祈りがこたえられていた。

 私は誰よりも豊かに祝福されているのだ。

 

 

 現在も、ニューヨーク州にある大学病院の物理療法リハビリテーション研究所の壁で、この詩を見ることができます。私たちが理不尽な苦しみに遭い、「なぜ?」「どうして?」と叫ぶとき、それに直接答える返事はほとんど与えられません。しかし、理不尽さを感じるあらゆる場面で、神様の御手は既に働かれているのです。

 

 私たちには分からないことがあります。求めている答えが与えられないときがあります。しかし、一番必要なものが与えられるという不思議な出来事が起こるのです。ヨブが必要としていたのは、「あなたは悪くない」という正しさの保証ではありませんでした。彼が何よりも必要としていたのは、「神様が私の嘆きに答えられる」という出来事でした。それが叶えられたのです。

 

 皆さんの嘆きにも、神様は答えてくださいます。ただしそれは、今私たちの願っているとおりの形ではないかもしれません。なぜこんな答え方を? と戸惑われるかもしれません。しかし、神様は、私たちの言葉にならない祈りまで聞いておられます。私たちの前で沈黙し、質問に答えない神様は、望んでさえいなかった私たちの必要を、満たしてくださるのです。

 

 神様に喚き、嘆き、訴えながら、与えられたものを受け取ることができるように、ヨブの話を繰り返し思い出しながら、歩んでいきたいと思います。