礼拝メッセージ 2019年12月29日
【田舎のベツレヘム】
ここのところ、週報の間違いが多いので、今日こそは聖書箇所も讃美歌の番号も間違えないぞと何度も確認したんですが……なんと、メッセージのタイトルが先週のままになっていました。
朝、気がついてくれた方が「これって間違いじゃありません?」と教えてくれたんですが、今日のタイトルは「これって場違いじゃありません?」です。
さて、初めて教会に来た人が、「自分は場違いだ」と感じる。久しぶりに礼拝へ来た人が、「やっぱり合ってない」と思う。みんなと違う、ふさわしくない、ここに居ちゃダメだと思わされる……
もしも今、そんな状況に居たとしたら、あなたはこの礼拝に最もふさわしい人です。あなたこそ、救いの訪れを聞くように、ここに招かれてきた人です。
先日、クリスマス・イブの夜、最近信仰を告白した人と、この教会に転入した人が、皆さんの前で講壇に立ち、聖書を朗読してくれました。
2人とも、会衆にきちんと聞こえる声で、言葉を追いやすいスピードで、丁寧に聖書を読んでくれました。ですが、本人たちはかなり緊張されていたと思います。
「ここに立つのは初めてだ」「講壇ってけっこう高いんですね」……本当に、私がここに立ってもいいんでしょうか? まだ早いと思われるんじゃないか?
そんな不安もあったと思います。みんなから見てどうだろう? 場違いじゃないか? 滑稽じゃないか? おかしくないか?
礼拝へ子どもたちを連れてくる人も、たいてい不安を抱えています。イブの夜には、何人も子どもが来てくれて、幼稚園で覚えた讃美歌を楽しそうに歌ってくれました。
礼拝が終わった後、集まった人は口々に「子どもたちの歌が素敵だったね」と喜んでいました。しかし、親の方は最後まで緊張していたかもしれません。
途中で子どもが泣きださないか? 騒ぎ出したらどうしよう? 礼拝を邪魔し、迷惑をかけ、みんなを不快にさせないだろうか?
教会によっては、「子どもなんか連れてくるんじゃない」と怒られてしまう人もいます。「静かにさせなさい」と睨まれてしまう人もいます。大人しくできない子どもはダメだと、思わせているかもしれません。
「ここに居ちゃダメ」「外へ出せ」「あなたたちは場違いだ」……そう言われるのを恐れてる。自分たちが「招かれざる者」となっていないか気になってしまう。
でも実は、そう感じている人たちこそ、救いの訪れを知るように、ここへ招かれている人なんです。私たちも、場違いなのに、ここへ招かれてきた者なんです。
なぜなら、神様はご自分の独り子を「場違いな所」に誕生させ、「場違いな人」をそこへ招き、「場違いな物」をささげさせて、最初に礼拝させたからです。
【外国から来た祭司】
先ほど読んだイザヤ書11章には、平和をもたらす王の誕生が預言されていました。
「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊、思慮と勇気の霊、主を知り、畏れ敬う霊。彼は主を畏れ敬う霊に満たされる……」
この預言は、初代教会の人たちによって、救い主イエス・キリストの誕生と結びつけて考えられるようになりました。
預言者イザヤは、この新しい王が、ダビデ王の子孫として生まれてくると言っています。エッサイというのは、ダビデ王のお父さんです。マタイによる福音書の冒頭に記されたイエス・キリストの系図にも彼の名前が出てきます。
ところが、エッサイの息子ダビデ自身も、もともとは王宮に場違いな田舎の出身、ベツレヘムに住む羊飼いの少年でした。前任のサウル王の血筋でもなく、8 人兄弟の末っ子で、正統な王位後継者にはなり得ません。
お客さんが家に来たとき、挨拶するよう呼ばれもしなかった男の子でした。父親から、幼い彼は邪魔になると思われたのかもしれません。
しかし、神様はこの子をイスラエルの王に選び、その子孫から救い主を遣わそうと約束します。
アッシリアとバビロンに国を滅ぼされ、ペルシャやローマに支配されていたイスラエル人は、長年この約束を信じて、救い主メシアが現れるのを心待ちにしていました。
ところが、約束の王が誕生すると人々へ知らせに来た「預言者」は、イスラエル人ではありませんでした。なんと、外国の東の方から来た占星術の学者たち。
ようするに、異教の国で祭司をしている外国人が、「あなたたちの待っていた新しい王、救い主がお生まれになった」と知らせに来たんです。
しかも、彼らは東の方からやって来ました。イブの夜にも話しましたが、イスラエルから見て東の方、占星術が発展してきた所と言えば、バビロン、ペルシャ、アッシリアなどのあった地域……
もともと、イスラエルの人々にとって、自分たちを苦しめた「敵」にあたる人たちです。私たちで言うと、神社の神官やお寺の住職から「皆さんの信じていた救い主がやって来ました!」と言われるようなものでしょう。
いやいや、そこはキリスト教の司祭か牧師に言わせてくださいよ! なんで異教の信者、牧師や神父のライバルに、重要な役目をさせるんですか? どう考えても場違いです。もっとふさわしい人いたでしょう?
しかし、この世に生まれた神の御子を、喜んで迎えて礼拝したのは、紛れもなく彼らが最初でした。
「あいつらにそんな資格はない!」「そいつらが招かれるはずがない!」……後ろから指をさされて、そう言われてもおかしくない人たちが、最初に、救い主へ奉仕をしたんです。
【宿の外の家畜小屋】
そして、占星術の学者たちがイエス様を見つけた場所も、非常に場違いな所でした。神様がこの世に遣わす王なのだから、当然、首都エルサレムで誕生するに違いない。
王宮か神殿に行ってみれば、きっと居場所が分かるだろう。そう思って、彼らは最初、ヘロデ王のもとを尋ねます。
ところが、新しい王の姿は、王宮にも神殿にもありません。むしろ、イスラエルの聖職者は、救い主がどこに生まれることになっているか、慌てて調べ始めます。
王が政治を行う所、祭司が礼拝をする所であるにもかかわらず、エルサレムには、新しい王を迎える準備ができていなかったようなんです。
どうやら、この世の新しい王様は、ここではなく、ベツレヘムという田舎の村にいるようです。当然、神殿も王宮もありません。
なんなら、会堂があるかも怪しい辺鄙な所……そう、かつてエッサイの息子が羊を飼って暮らしていた、何にもない所です。誰にも注目されない所で、救い主はひっそりとお生まれになった。
神の子がこの世に現れたなら、きっと教会にいるはずだ……そう思って来てみたら、教会にいるどころか、牧師も神父も気づいていない……そんな笑えない状況です。
学者たちは東方で見た星に導かれながら、ベツレヘムに向かって進んでいきます。先立つ星についていけば、幼子のいる場所にたどり着ける。
ところが、その星がピタッと止まった場所は、人の住む家屋やお客を泊める宿屋でさえありませんでした。なんと、救い主が生まれた家は家畜小屋……ベッドがないため、飼い葉桶の中に寝かされています。
これってどう考えても場違いです。普通の子でさえ、清潔なベッドの上に寝かされるのに、この子は動物の餌箱の中で寝かされている。
新しい王が生まれるところ、神の御子が寝かされるところじゃないですよね。けれども、学者たちはこの奇妙な状況にもかかわらず、喜びにあふれて赤ん坊のことを拝みます。
普通なら、もっと驚き、おかしく思い、なんなら怒り出すところです。「私はこんなみすぼらしい場所に生まれた赤ん坊を見に来たのか?」
「王の誕生を祝うため、はるばるやって来た外国の使者を迎える召使いもいない!」けれども、彼らは怒りません。むしろ、よく分かっていたんです。
エルサレムを訪れた時点で、自分たちは誰にも歓迎されないんだと。新しい王が生まれたと知らせても、一緒に喜んでくれる人はいないんだと。
首都の人たちは慌ただしく、不安な顔しか見せませんでした。けれども、今目の前の赤ん坊はにこやかに微笑み、自分たちに笑いかけています。この子を産んだマリアとヨセフも、自分たちと一緒に喜んでいます。
救い主は、喜んで迎えてもらえなかった人たちに、喜ぶ場所を与えました。場違いな人に、喜ぶ仲間を得ました。
【死を準備する贈物】
ところが、喜びにあふれた学者たちは、救い主の赤ちゃんに、これまた「場違いな物」をささげます。
幼稚園のページェントでもお馴染みの黄金、乳香、没薬という贈物……非常に高価な献げ物で、一見、新しい王の誕生日にぴったりなプレゼントに見えますが、実はそうとも言えませんでした。
なぜなら、これらの献げ物は、葬りの準備、死者を埋葬するとき使われるものでもあったからです。
聖書をよく読んでる人は、乳香がイエス様の死を準備するために頭からかけられたものであることを思い出すでしょう。もっと詳しい人は、没薬が遺体の腐敗を防ぐものであったことを思い出すかもしれません。
生まれてきたばかりの赤ちゃんに、死を連想させる贈り物をプレゼントする……いくら、貴重で高価な献げ物でも、誕生日には場違いです。
縁起も悪いし、良い気持ちにはなれません。ある意味、空気を読めなかった人と言われてもおかしくない。でも、これらの贈り物は、最初の礼拝にふさわしいものとしてささげられました。
周りに、イスラエルの祭司や律法学者がいたら、「けしからん!」と怒鳴っていたかもしれません。でも、場違いな人が、場違いな所で、場違いな献げ物をしたこの礼拝を、神様は喜んで受け取られました。
この方は、やがて全ての人のために十字架にかかり、ご自分の命をささげ、和解と回復を果たされます。復活して、自分のことを裏切った人、見捨てた人たちと再会し、平和を宣言していきます。
平和の王は、あらゆる場所で「自分はここに居ちゃダメだ」という人たちに、「今日、わたしはあなたのために生まれたんだ」と告げるんです。
クリスマスが終わり、私たちは自分の国へ帰ろうとしています。新たにここから出発します。その歩みが一人一人、神様に導かれますように。