ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『ギャップがすごい王様』 サムエル記下5:1〜5、ルカによる福音書23:35〜43

礼拝メッセージ 2018年11月25日

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【収穫したけど】

 「刈り入れの主をほめたたえよ」……メロディーを聞くだけで、自然とワクワクしてきた方もおられるでしょう。今歌った賛美歌は、神様から与えられた実りと恵みに感謝する収穫感謝の賛美歌です。わざわざ私が口にしなくても、礼拝堂の前に並べられた色とりどりの野菜や果物を見れば、今日が特別な日だとすぐ分かります。

 

 そう、今日は収穫感謝礼拝、神様の支えと導きによって、一年の労苦が報われ、多くの実りがもたらされたことを覚える記念の日です。人は収穫のとき、労働の対価を得るとき、時代を問わず、喜びに満たされてきました。どのような地域や文化であっても、収穫を祝う祭りはだいたい行われ、人々は踊りや歌で、その喜びを表現してきました。

 

 もちろん現在は、誰もが土を耕し、作物を作る時代ではありませんが、それでも給料やボーナスが入ったときには、作物を収穫する農家に似た気分を味わいます。牧師がこんなことを言うと俗っぽいかもしれませんが、私だって謝儀が振り込まれた週は、いつもよりちょっと心がウキウキしてきます。

 

 けれども、私たちが収穫を手にするとき、全てがそのまま、自分の手に残されるわけではありません。現代において、社会に属する私たちは、給与が入ると、そのうち何割かを種々の税金や保険料として国に納めなければなりません。当然、税金や保険が高くなればなるほど、手取りは少なくなくなり、重い負担を感じるようになります。

 

 古代において、そのような負担を人々に強いたのは、王や貴族たちでした。特に、民主主義が確立されていなかった時代、支配者から要求される貢ぎ物は、人々の生活を繰り返し圧迫してきました。

 

 今のように、為政者を縛る憲法なんてなかったので、民衆が苦労して手にした収穫を、好き勝手吸い上げる王もいたのです。古代イスラエル社会においても、人々は収穫した物の何割かを王に貢ぎ物として納めなければなりませんでした。

 

【厄介な王様】

 ここしばらく、消費税が「一割に増税される」「されない」の話が度々出ていますが、王国時代のイスラエルも、種々の貢ぎ物に加えて、収穫から一割を徴収されることになっていました。サムエル記上8章10節から18節には、こんな言葉が記されています。

 

 ーーサムエルは王を要求する民に、主の言葉をことごとく伝えた……「あなたたちの上に君臨する王の権能は次のとおりである。まず、あなたたちの息子を徴用する……また、あなたたちの娘を徴用し、香料作り、料理女、パン焼き女にする。また、あなたたちの最上の畑、ぶどう畑、オリーブ畑を没収し、家臣に分け与える。また、あなたたちの穀物とぶどうの十分の一を徴収し、重心や家臣に分け与える……また、あなたたちの羊の十分の一を徴収する。こうして、あなたたちは王の奴隷となる。その日、あなたたちは、自分が選んだ王のゆえに泣き叫ぶ」ーー

 

 なかなかに苦しい負担です……これでは、収穫の時期がやって来ても、素直に喜べません。せっかく一生懸命収穫したのに、なんでこんなにたくさんの貢ぎ物を王にしなければならないんだ! と感じます。ここまで負担を強いる王を国に置いたのは、いったい誰だったのでしょう?

 

 問うまでもなく、それは初めからはっきり言われていました。「あなたたちは、自分が選んだ王のゆえに泣き叫ぶ」……そう、イスラエルの民が、これだけ多くの負担を強いられるようになったのは、人々が自ら王を求めたためでした。「周りの国にはみんな王がいる。我々にも強い王が必要だ!」「自分たちを引っ張ってくれる強いリーダーがいれば、今よりも良い生活ができる!」

 

 単純にそう考えた人々へ、預言者サムエルは「そんな上手くはいかないぞ」と警告したわけですが、民衆は聞く意志を持ちません。王がいないときから、自分たちを守ってきてくれた神様には信頼せず、目に見える分かりやすい為政者を要求したのです。結果、サムエルはサウルに油を注ぎ、イスラエル初の王として任命しました。

 

 サウルも初めのうちは良い王様で、民衆のために行動し、神様の言うことによく聞き従っていました。しかし、だんだんと、自分が為政者としてどうするべきか神様に問わなくなり、自分の富を増やすような、勝手な行動をするようになってしまいました。イスラエルを攻めてくる敵との戦いも、これまでのように上手くいかなくなります。強い王様を要求した人々は、一人目から「こんなはずではなかった」という事態に陥りました。

 

 そんな中、神様は人々のために新しい王を選びます。神様はもともと、イスラエルに、人間の王が立てられることを、あまりよく思っていませんでした。本来、この世に王として君臨しているのは神様だったからです。

 

 しかし、神である自分を捨てて、人間の王を立てようとする人々にも、神様の憐れみはなくなりませんでした。神様は人々のために、少しでも良い王様を立てようとしてくださったのです。その新しい王様が、最初に読まれた聖書箇所で、全イスラエルの指導者として任命されたダビデでした。

 

【油注がれた王】

 ダビデは、サウルとその一族が死んだ後、長老たちから油を注がれ、みんなの前で王として任命されます。「油を注ぐ」という行為は、神様から特別な使命に選ばれたことを意味し、王や預言者などがこれを受けました。この「油注がれた者」という言葉「メシア」が、後に、人々を悪の支配から解放する「救い主」という意味で使われるようになりました。

 

 ダビデは敵と勇敢に戦い、人々から愛され、どんどん勢力を増していきました。自分に従う兵士たちを集め、敵から奪った財産で富をますます大きくし、妻や子どもたちも増えていきました。しかし、完璧な人間とはいえず、欲望に支配されて、権力を行使する場面も度々出てきました。

 

 夫のいる女性と寝てしまい、妊娠させたことを知ると、その発覚を恐れ、浮気相手の夫が死ぬように、故意に危険な場所へ行かせました。彼も、その息子であるソロモンも、人々に重い苦役や貢ぎ物を課しました。結局、神様ではなく人間の「強い王」を求めた人々は、本当の意味で解放されることはなかったのです。

 

 それでも、イスラエルはダビデとその息子、ソロモンの時代までは非常に栄え、黄金時代を過ごします。しかしやがて、南ユダと北イスラエルに分裂し、それぞれの国王による圧政が始まりました。人々は、搾取と暴力に苦しみ、敵の国にも攻め入れられ、奴隷として外国に連れて行かれてしまいます。ついには、紀元前721年に北イスラエルが、587年に南イスラエルが滅ぼされ、国を失ってしまいました。

 

 もはや収穫の時期が近づいても、人々の間に大きな喜びはありません。収穫しても、その多くが自分たちの手には残らず、支配者の手に渡っていくからです。しかし、その中でも、神様は人々に、いつか必ず救い主が現れ、あなたたちを支配する力から解放すると約束してくださいました。

 

 イスラエルの人々は、その約束を信じ、ダビデの末裔から、彼のような強い王が現れ、自分たちの敵を倒してくれることを強く願うようになりました。やがて、彼らの待ち望んでいた、「油注がれた者」「メシアたる王」と呼ばれる者がやってきます。そう、神の子でありながら人としてお生まれになった、イエス・キリストです。しかし、皮肉なことに、イエス様は人々が期待していたのとは違う、非常にギャップのある王様でした。

 

【2人の王様】

 ダビデはベツレヘムの出身で、30歳のとき王になりますが、イエス様も同じくベツレヘムで生まれ、30歳頃から活動を始めます。2人とも、人々から「イスラエルの王」「ユダヤ人の王」と呼ばれるようになりますが、そのときの様子は全然違います。

 

 ダビデは自分の故郷までやってきた人々に、「わたしたちはあなたの骨肉です」と歓迎されますが、イエス様はゴルゴタの丘まで引いて行かれ、「もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい」とあざ笑われます。さらに、兵士たちからも「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」と殴られます。

 

 ダビデはイスラエルの民と正式に契約を結び、長老たちから頭に油を注がれますが、イエス様はきちんとした裁判を行われることもなく十字架につけられ、頭の上に「これはユダヤ人の王」と書いた札を掲げられます。後になればなるほど、イエス様は人々から侮辱され、王様らしい扱いを受けません。

 

 イエス様はダビデと違って、人々を兵士に徴用する軍事的な王ではありませんでした。むしろ、人々に仕えて病を癒す、僕のような方でした。彼は、ダビデのように敵を倒して財産を奪うことも、民衆から収穫の何割かを徴収するようなこともありませんでした。むしろ、道端で麦の穂を摘み、孤立した者、嫌われ者と一緒に食事をする貧しい方でした。イエス様は人々を抑圧する王ではなく、人々の痛みを共に担う王でした。

 

 ギャップのすごい王様です。イスラエルの人々は、自分たちを支配するローマ帝国を打ち倒し、独立国を作ってくれる力強い王を求めていましたが、神様が新しく立てられたのは、誰一人奴隷として扱うことのない、誰からも搾取することのない優しい王様でした。はっきり言って、王様っぽくはありません。現代においても、たぶん選挙で指導者として選ばれることはなかなかないでしょう。

 

 しかし、そんなお方が、私たちを最も苦しめる力、絶対的な死の力から、解放をもたらします。「最後の敵として、死が滅ぼされます」……礼拝の最初に読まれた招きの詞は、コリントの信徒への手紙一15章26節の言葉です。20節にはこう書かれています。「キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。」

 

 パウロの記した言葉を聞いて、イエス様自身が語っている言葉、ヨハネによる福音書12章24節を思い出した人もいるでしょう。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」……多くの実を結んだ野菜や果実、穀物を目の前にしている今日、思い出すのにふさわしい言葉です。

 

 イエス様は、どれだけ武力や軍事力を誇る王であっても、倒せなかった敵を滅ぼしました。死んだら終わり、もう報われない、全ての関係も切れてしまう……そんな絶望を打ち砕きました。イエス様自身が十字架にかけられた後、死者の中から復活し、会えないはずの人たちと再会してくださったからです。ご自分を信じる全ての者に、永遠の命を与え、やがて来たる神の国で、再び出会う約束をしてくださったからです。

 

 来週、私たちはアドヴェント第1週目を迎えます。イエス様が誕生したことをお祝いするクリスマスまで、静かに準備し、待っている4週間……その最初の週に、イエス様の十字架と復活を思い起こす聖餐式が行われます。聖餐式は全ての人が神様のもとに招かれ、共に食卓について、死の支配が完全に終わったことを喜び合う食事を先取りしたものです。

 

 その日には、身分も、人種も、性別も関係なく、全ての人が、王たるイエス様と共に食事の席につきます。今日もこの後、昼食に出されるおにぎりを食べるとき、目の前にある果物をいくつか、皆さんで分かち合うことになるでしょう。与えられた収穫の実りに感謝するとき、その労苦を負ってくださった方々と共に、神様とイエス様に感謝して、秋の恵みを味わいたいと思います。