ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『タダ飯が食えるよ』 イザヤ書55:1〜10

礼拝メッセージ 2018年12月9日                     

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【招いちゃっていいの?】

 「来て、銀を払うことなく穀物を求め、価を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ!」冒頭から、かなり太っ腹な言葉が聞こえてきました。聖書の中で、たいていは裁きと審判を強調する預言者が、ここまで一貫して神様の赦しと慰めを語るのは、なかなか珍しいことです。しかも、今日の言葉は、神様が将来開く祝宴に、人々を招こうとする大胆な呼びかけから始まっています。

 

 簡単に言えば、「タダ飯が食えるよ」と誘っているわけです。しかも、誰がタダ飯にありつけるのか、神様は全く条件を設けません。ちょっと心配になるくらいです。道をうろついている知らないオッさんが来るかもしれない。路上で生活する人たちが押し寄せて来るかもしれない。言葉の通じない外国人、怪しい店で働く女性たちも来るかもしれない。

 

 誰が来てもいい、誰もが参加できる祝宴……それってけっこう厄介な人も来ないですか? 何かの間違いじゃないですか? 思わず聞き返したくなります。私たちが締め出したい人も、みんなそこへ来ちゃうのですから! 言うことを聞かないで走り回る子どもたち、挨拶もせずスマホをいじっている青年たち、酒や薬をやめられず、唸ったり叫んだりしている人たち。

 

 彼らも来るかもしれません。なにせ、タダ飯が食えるのですから。しかも、簡単で粗末な料理ではありません。良いものを食べることができるのです。働いていない者も、問題を起こした者も、厄介払いされる者も、みんなです。渇きを覚えている者、銀を持たない者たち……普段、共同体から締め出されている者たちが、神様から呼びかけられ、食事に招待されました。

 

 それはちょうど、ルカによる福音書1章53節で、イエス様を身ごもったマリアの賛歌でも、繰り返されている響きです。「飢えた者を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返される」……貧者が裕福な者を妬み、自分たちに代わって彼らが破滅することを願った歌にも聞こえる言葉。

 

 貧しい人を締め出し、追い出してきた人たちが、今度は神様から追い出されてしまうのでしょうか?……いえ、ちょっと違います。先ほども言ったように、神様はこの宴会に入るための条件を、全く、誰にも、課していません。ここで飲みたい者、ここで食べたい者は、誰でも来るがよいと呼びかけるわけです。

 

 唯一、私たちをそこから締め出しうるのは、「自分はその祝宴よりも、もっと他に行きたい場所がある」という主張です。私の知らない人、私の苦手な人、私の締め出したい人が招かれているここよりも、別のところで食事がしたい……それだけが、タダ飯を食べられない条件でした。

 

 主人である神様が、私の気に入らない人を招くなら、私はここに入れません。そう言って、宴会から自分を締め出すのは、神様ではなく、人の方なのです。身体中にピアスのついた人、肌から刺青が覗く人、髪を紫に染めた人、そんな人が礼拝に来るなら、私は教会へ入れません。綺麗な部屋で、落ち着いた音楽をかけ、一人で聖書を読みましょう……。

 

【エルサレムに帰れない】

 いつの間にか、私たちは神様が招いている祝宴を自ら拒み、自ら締め出しているのかもしれません。今日はアドヴェント第2週目です。イエス様が再びこの世に来られ、悪を打ち破った神様の祝宴が開かれる日を待ち望む、クリスマスまでの4週間……その最中、神様は他人に締め出され、あるいは自らを締め出してしまう私たちに、この言葉を与えました。

 

 「耳を傾けて聞き、わたしのもとに来るがよい。聞き従って、魂に命を得よ!」私はそこへ行けません……招かれたって入れません……そう口にするあなたに対し、神様は言うのです。「いいから言うことを聞いて入りなさい。私に従って、ここで食べ、ここで飲み、永遠の命にあずかりなさい」と。

 

 この言葉を最初に語られた、紀元前6世紀後半のイスラエル人は、数世代前に、国を滅ぼされ、バビロンへ連れて行かれた人たちでした。彼らは長いこと外国で暮らしている間に、もう自分の国には帰れないと諦め、神様から与えられた土地に戻ろうという意志を失っていました。

 

 そんな中、ペルシャ王国によってバビロンが倒され、長かった囚われの生活に、解放が訪れます。ところが、50年近くも帰っていなかったエルサレムは、もはや故郷とは言い難く、土地もすっかり荒れ果てていました。自分の家、自分の土地が残っているかも分からない故郷へ帰るより、このまま外国に留まった方が、安心して暮らしていける。そう考える人たちもいました。

 

 いえ、むしろほとんどの人がそうでした。長いこと外国に囚われていた自分たちが帰っても、エルサレムに残っていた人たちは歓迎するだろうか? 50年も離れていれば、故郷の人間も赤の他人です。外国の生活を捨てて帰っても、仕事をもらえるか分かりません。作物の種を分けてもらえる保証はありません。言葉だって、うまく通じるか分からないのです。

 

 そもそもエルサレムに残っている、バビロンへ連れて行かれなかった人間の大半は、教養や技術を身につけていない、連れて行っても役に立たないと思われた、下流階級の人間でした。病気だった者、障害のあった者、娼婦をしていた者、身寄りのなかった者……彼らが残っているエルサレムへ、神様は「帰っておいで」と言われるのです。

 

 一方、バビロンへ連れて行かれたのは、教養を持ち、何らかの技術を身につけた、中流階級以上の者たちです。かつては、前者と一緒に食事をするなんて、考えられないことでした。自分たちが社会から締め出してきた者が、自分たちを出迎える場所へと、神様は招いている……そこが、命を得る場所だと言われている……この招きは、捕囚の民に対し、喜びよりも衝撃をもたらすものでした。

 

 神様、私はどこへ帰るのです? あなたが言われる場所は、私が締め出してきた人たちのいるところではないですか? 今さらそこへ戻り、彼らと協力してエルサレムを再建し、一緒に礼拝するようになるなんて、本気でお考えですか? 多くの人は、「あなたたちは解放された、喜んで国に帰りなさい!」と言われても、その言葉に素直に従えませんでした。

 

【人の思いを超える神様】

 「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なると、主は言われる」……8節の言葉には、頷かざるを得ないでしょう。誰が、預言者の言うことを聞いて、故郷へ帰る気になった者がいるでしょう? その招きに答えた者がいるでしょう?

 

 いたのです……後に、エルサレムへ帰国した者たちは、残っていた者たちと共に、神殿と城壁を再建し、もう一度礼拝する場所を整えます。外国での暮らしを捨てて、荒廃した故郷へ戻り、見知らぬ人たちと神様を礼拝する道に進んだ者たちがいました。なぜ、彼らがその気になったのか、正直私には分かりません。

 

 私たち人間の思いでは、ありえない道が選択され、ありえない答えがされました。神様は、招いても答えるはずのない人間を、粘り強く呼び続け、答えさせてしまうのです。教団の聖書日課では、イザヤ書55章の他に、ルカによる福音書4章14節〜21節が、今日の聖書箇所として選ばれていました。そこには、同じイザヤ書から朗読するイエス様の言葉が記されています。

 

 「主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」……捕らわれている人、目の見えない人、圧迫されている人というのは、全て社会的、経済的、さらには宗教的に排除され、周縁化された人たちです。共同体から締め出されてきた人たちに、改めて神様の救いが告げられます。

 

 ところが、この言葉を告げたイエス様自身が、自分の故郷で受け入れられず、締め出される人間となります。「この人はヨセフの子ではないか」……救い主であるはずがない! そう言い出し始めた人々に、イエス様は自分と同じように、預言者も故郷では歓迎されなかった話をしました。

 

 すると、人々は怒ってしまい、イエス様を町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行って、突き落とそうとするのです。ほぼ殺人未遂です。イエス様は人々の間を通り抜けて立ち去ります。けれども、やがてイエス様は、この世の全ての人間から締め出され、追い出される立場となります。神を冒涜した人間として、許されない罪人として、十字架につけられるのです。

 

 「彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちは癒された」……イザヤ書53章に記された苦難の僕の姿は、まさにイエス様の姿を想起させます。

 

 本来、イエス様を追い出した人間こそ、イエス様を締め出した人たちこそ、刺し貫かれ、打ち砕かれ、懲らしめを受けるはずでした。しかし、イエス様は誰一人、神の国から締め出されないように、自分が代わりに懲らしめを受け、十字架にかかってくださいます。そして、3日後に復活したイエス様は、自分を裏切り、見捨ててしまった人たちへ、愛と平和を告げたのです。

 

 神様の開く祝宴で、私はあなたを待っている。あなたは私に赦されて、私と同じテーブルにつき、私と共に食事を味わい、共に喜び楽しむのだ。そう言って、神様の招きに答えない人々を、答える人へ変えていったのです。ちょうど私たちが、わざわざ一時間の礼拝に参加するため、なぜかここへ、やって来てしまったように。神様の招きは、じわじわと私たちに変化をもたらします。

 

【招き続ける神様】

 「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい」……全ての人を招く神様と同じ言葉を、イエス様も語っています。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人のうちから生きた水が川となって流れ出るようになる」「疲れた者、重荷を負うている者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう!」

 

 先週、新しい式文を使った聖餐式でも、こんな言葉が読まれました。「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう」……もはや、食事に招かれる方自身が、私たちの家を訪れ、締め出される者とならないよう導きます。

 

 2週間後に訪れるクリスマスは、まさに、神の子である救い主が、私たちの住むところ、それも、締め出され、追い出された人たちのもとへ来てくれた出来事でした。イエス様が赤ん坊として誕生したのは、王宮でも、神殿でもありません。まともな家の中でさえありません。

 

 宿屋はもう、お客さんでいっぱいだからという理由で締め出され、やむなく泊めさせてもらった家畜小屋、追い出された人たちが身を寄せるところでイエス様は生まれました。イエス様を最初に訪問したのは、王や祭司ではありません。家に帰ることのできない、夜通し羊の番をしていた野宿者たちです。

 

 もしも、イエス様が王宮で生まれたら、神殿の中で生まれたら、彼らがその場に招かれることはなかったでしょう。羊飼いたち自身も、王を見に行こうとは思えなかったでしょう。彼らが天使の招きに答え、イエス様のもとを訪れたのは、その赤ん坊が「飼い葉桶の中に寝ている」と知らされたからです。日々、動物の世話と野宿で匂っていた彼らも、飼い葉桶の中に生まれた赤子なら、遠慮せず、祝いに行くことができました。

 

 「誰でも来なさい、ためらわずに」「わたしのもとに来るがよい」……神様が、あなたを招く呼びかけは、今日も繰り返されています。あなたが答えられるように、この方はどこまでも降りて来ます。この方と共に歩むため、耳を澄ませ、心を整え、クリスマスまでの間、準備をしていきましょう。