ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『知らない方と会うために』 イザヤ書42:1〜9、ヨハネによる福音書1:29〜34

礼拝メッセージ 2020年1月12日

 

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【礼拝の目的って?】

 「礼拝に来る目的は何ですか?」と聞かれたら、皆さんはどう答えるでしょうか? 疲れた心を癒すため、困難に立ち向かう力を得るため、友人や知人に会いに来るため……あるいは、親や親戚に連れられて仕方なく……という人もいるかもしれません。

 

 もし、それ以外に何かを期待するとしたら、「聖なる力、聖なる方の存在に触れる」という目的があるでしょう。

 

 教会に来るとき、神様の存在を全く意識しない人は、むしろ珍しいはずです。もしかしたら今日ここで、神様を感じられるかもしれない……という期待。

 

 そう、礼拝の目的は、何よりもまず「神様と出会うこと」です。私たちを創り、生かしておられる神様はどのような方か? 全ての者の救い主イエス・キリストとは、いったいどんな方なのか? それを伝え、人々に証しすることが、キリスト教会の礼拝です。

 

 初めて礼拝に出る多くの人が「知らない方と会うために」やって来ます。自分を助けてくれるもの、自分を支えてくれるもの、自分を導いてくれるもの。

 

 それが何か分からないまま、「もしかしたら、ここにいるかもしれない!」と、藁にもすがる思いでやって来た。

 

 皆さんはどうだったでしょうか? 最初から、神様がどんな方か、イエス様がどんな方か、知っていた人はいるでしょうか?

 

 分かったつもりで来ていたら、自分はまだまだ神様のこと、イエス様のことをよく分かっていなかった……そう気づかされる人もいます。

 

 私もそうです。何年も礼拝に出ているのに、「神様ってこういうことするのか」「イエス様ってこういう方なのか」……と未だに驚くことがあります。

 

 非常に厳しいイメージだった神様が、どこまでもねばり強く人々のことを導かれる。常に優しいイメージのイエス様が、虐げられた人のために激しい怒りを露わにされる。そんな驚きがしばしばある。

 

【神の子羊って?】

 先ほど読んだヨハネによる福音書にも、イエス様について不思議なことが載っていました。「見よ、世の罪を取り除く神の子羊だ」……洗礼者ヨハネは、自分の方へやって来るイエス様を見てそう言います。

 

 子羊って、皆さんはどんなイメージを持っていますか? 決して強い存在ではないと思います。生まれたばかりの子羊は、狼や獅子に狙われる非常に弱い存在です。

 

 軍馬として活躍した馬や、崖や谷を駆け下りるカモシカに比べると、何だか見劣りしちゃいます。むしろ子羊と言えば、昔から犠牲にささげる動物として用いられてきた存在です。

 

 神様に対し、罪を犯した人間が、その代償として代わりにささげていた動物。四肢を裂かれ、血を流され、焼き尽くす献げ物として祭壇に乗せられる……そんな生き物にたとえられる。

 

 イエス様は、神のひとり子としてこの世に遣わされた方です。全ての者の救い主、この世を治める新しい王として生まれています。

 

 本来なら、鋭い爪と牙を持ち、あらゆる獣に恐れられる、ライオンのような動物が、この方を象徴するのにふさわしいでしょう。

 

 けれども、イエス様がたとえられたのは、地の獣を恐怖で支配する動物ではなく、人々の罪を代わりに背負い、その身を焼き尽くされる動物でした。

 

 力と権威を見せびらかして、暴力で支配する王ではなく、他人のために自分を犠牲にせずにはいられない、憐れみ深い王として、イエス様はやってきた。そのことを洗礼者ヨハネは語ったんです。

 

 最初に読んだ、イザヤ書42章で語られている「主の僕」も、イエス様の姿と重なってきます。「彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく、裁きを導き出して、確かなものとする」

 

 吹けば消えそうな小さい火、弱っている人の灯火も、イエス様は消えないように、折れないように、優しい声で導かれます。安心しなさい、私があなたと共にいる……と。

 

【放っておけない?】

 さらに、ヨハネはこんな言葉も語っています。「わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た」……ヨハネが人々に授けていた洗礼は「悔い改めのバプテスマ」と呼ばれています。

 

 現在、教会で行われている洗礼とは、少し位置付けが違います。悔い改めのバプテスマは、文字通り、自分の罪を悔い改めて、救いの訪れを準備するため、何度も行われていた儀式です。

 

 本来、神の子であり、罪を犯していないイエス様に、悔い改める必要はありません。けれども、イエス様の父なる神はヨハネに対し、自分の独り子であるイエス様に、洗礼を授けなさいと促します。

 

 初めから清い存在、聖なる存在であるにもかかわらず、私たち人間と同じように、罪ある存在として、悔い改めのバプテスマを受けられた。危険の及ばない高い所から手を差し伸べてくるのでなく、私たちと同じところで、痛みや苦しみを共有された。

 

 「この方こそ神の子である」と洗礼者ヨハネは証しします。マタイによる福音書では、イエス様がヨハネから洗礼を受けようとしたとき、「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか」とヨハネが驚いたことが書かれています。

 

 そうなんです。悪いことをしていない謝る必要のない者が、悪いことをして謝らなきゃいけない者の方へ、自ら和解しに来たんです。本当はこっちが行かなきゃいけないのに……。

 

 神様は、いつまでも自分の生き方を改めない人間に、自ら近寄って和解しようとする方です。過ちを繰り返す私たちを、放っておくことのできない方です。

 

 私たちは礼拝において、この方に招かれ、罪を赦され、新しい生き方へ変えられていくことを知らされます。そして、自分のもとへ、バプテスマを受けに来たイエス様に驚いたヨハネのように、「この方こそ神の子だ」と証しする機会を与えられます。

 

 「知らない方と会うために」ここに集められた私たちは、この方が誰か、どんな方かを語られて、新しく日常へと送り出されます。そして、少しずつ変えられていく生き方によって、神様の愛を証しする者となるんです。

 

 今、あなたに訪れた救いの知らせが、さらにあなたから広がっていくように、それぞれの日常へと出ていきましょう。