ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『見つけることができない』 ヨハネによる福音書7:32〜39。

小規模礼拝Bグループ 2020年5月24日


『見つけることができない』ヨハネによる福音書7:32〜39

 

 

招 詞

彼らが話しながら歩き続けていると、見よ、火の戦車が火の馬に引かれて現れ、二人の間を分けた。エリヤは嵐の中を天に上って行った。(列王記下2:11)

 

讃美歌

讃美歌337番「たたえよ、この日」を歌いましょう。(動画では著作権に配慮して歌いませんが、『讃美歌21』をお持ちの方はぜひ、この賛美を味わいつつ、御言葉を受け取る準備をしましょう)

 

お祈り

共に祈りを合わせましょう。

 

◆復活と希望の主である私たちの神様。今日もまた、あなたによって守られて、日曜日の礼拝が始められたことを感謝致します。どうか今、家庭で、職場で、施設で、屋外で、あなたの言葉を受けようとしている人を祝福してください。

◆主なる神よ、21日には、復活したイエス様が天へ昇られたことを記念する昇天日を迎えました。私たちは今、イエス様を直接見ることはできませんが、天を見上げる全ての者が、あなたの元に集っています。今この時、私たちの感謝と祈りを受け取ってください。

◆主なる神よ、緊急事態宣言の解除や県内の感染動向を受けて、今週から教会員の半分ずつが交代で礼拝に集まります。今週自宅で礼拝を守る人、基礎疾患などにより、引き続き待機が必要な人たちに、あなたの恵みがありますように。

◆主なる神よ、来週にはペンテコステを迎えます。天気が晴れれば、屋外の園庭で短く礼拝を行う予定です。どうか今、それぞれの教会や自宅で、工夫してこの日を覚えようとする人たちに、必要な準備ができますように。

◆主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

聖 書

聖書の言葉を聞きましょう。ヨハネによる福音書7:32〜39。

 

ファリサイ派の人々は、群衆がイエスについてこのようにささやいているのを耳にした。祭司長たちとファリサイ派の人々は、イエスを捕らえるために下役たちを遣わした。そこで、イエスは言われた。「今しばらく、わたしはあなたたちと共にいる。それから、自分をお遣わしになった方のもとへ帰る。あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない。」すると、ユダヤ人たちが互いに言った。「わたしたちが見つけることはないとは、いったい、どこへ行くつもりだろう。ギリシア人の間に離散しているユダヤ人のところへ行って、ギリシア人に教えるとでもいうのか。『あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない』と彼は言ったが、その言葉はどういう意味なのか。」

 

祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである。

 

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TumisuによるPixabayからの画像

メッセージ

 

捕まらないあの人

ずいぶん季節外れな話をしますが、皆さんは子どもの頃、サンタを捕まえようとしたことがないでしょうか? 自分の部屋に仕掛けを作って、誰かが入って来たら鈴が鳴るようにしたり、何かへ引っかかるようにしたり、色々やんちゃした記憶があるかもしれません。

 

でも、不思議とサンタに気づけることはなく、朝になるとプレゼントだけが置いてある。どこから来て、どこへ帰っていくのか分からない。にもかかわらず、確かに自分のもとへ来たという「証拠」だけが残される……何だかイエス様と似ています。

 

神の子としてこの世に現れ、聞いたことのない教えを語り、様々な奇跡を起こして帰っていく。「この方は誰だ?」「どこから来たんだ?」……みんなが探して回りますが、イエス様は何度も人々の間をすり抜けて、なかなか捕まえられません。

 

ついには、十字架にかかって貼り付けにされてしまいますが、三日目に遺体は消えている。どこから来て、どこへ帰ったか分からない。空飛ぶソリで姿を消したサンタのように、イエス様も天へ昇って見えなくなります。

 

しかも、あらかじめこう言われています。「あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない」……何だか怪盗みたいなかっこいいセリフですよね。

 

何とかしてサンタのアジトを見つけようとする子どもたちが、捕まえる方法を両親に聞いてみたときのよう。「あのね、サンタの住処に行くことはできないし、見つけることはできないの」

 

子どもの頃、それでも諦めきれず、サンタがどこにいるのか調べ回った人の中には、「そうか、北極にいるから行くことができないのか!」と思ったり、「フィンランドまで遠いから、子どもじゃ行けないってことなんだな」と考えた人もいるでしょう。

 

そう、大好きなサンタを何とか捕まえてみたい、何とか見てみたいと思って、色々空回りした昔のように、大人になっても私たちは、まだ見たことのないイエス様を何とか捕まえようとして、色んなものを調べます。

 

なぜ自分には見ることができないのか、なぜ会いに行くことができないのか、納得のいく答えを探し出すんです。皮肉にも、イエス様の言葉を聞いたユダヤ人たちの反応は、現代の私たちとそっくりです。

 

「わたしたちが見つけることはないとは、いったい、どこへ行くつもりだろう。ギリシア人の間に離散しているユダヤ人のところへ行って、ギリシア人に教えるとでもいうのか?」……確かに辻褄の合う合理的な考えです。

 

実際、異邦人に分け隔てなく接して来たイエス様なら、こういう行動をとってもおかしくない。当時の一般的なユダヤ人なら、異邦人との接触はなるべく避けようとしたはずなので、まさに「自分たちの行けないところ」というわけです。

 

ところが、イエス様の行き先は、合理的な思考からは全く導き出せないところでした。自分をお遣わしになった方のもと、神様のもとへ帰ると行って、天へ昇っていくんですから……こんなの想像つくわけありません。確かに行けるはずありません。

 

何だか突き放された気分になります。「あなたは私に近づけない」「あなたは私を見つけられない」「諦めて大人しくしてなさい」……イエス様の言葉から、そんな印象を受けた人だっているでしょう。

 

けれども、この話の直後、わざわざイエス様が人々に向かって、大声で呼びかけた言葉が書かれています。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」

 

ちょうど、ヨハネによる福音書4章でも、似たような言葉が語られていました。人目を避けて遅い時間に水を汲み来た女性に向かって、イエス様が語った言葉。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」

 

「そんな水あるわけないでしょう?」と、まともな人なら返したでしょう。文字どおり、一度飲んだら渇かない水なんて、この世に存在しないから。

 

しかし、私たちは知っています。人目を避けて、正午まで乾きを我慢する暮らしをしていたこの女性が、イエス様の一言で、自ら避けていた村人たちのところへ行き、「この方が、わたしの行ったことをすべて言い当てました」と伝えて回ったことを。

 

孤立していた一人の女性が、どこから来たのか分からないイエス様の話をして回り、また周囲との関係を取り戻す。もうみんなを避けて、正午まで渇きを我慢しなくてよくなった。さらにすごいのは、まだイエス様に会ったことのない人たちも、彼女の言葉を聞いて信じるようになったことです。

 

イエス様を見ることもなく、人から聞いただけで信じた人は、聖書の中でも、実はほとんど出てきません。弟子たちでさえ、イエス様を見るまで、奇跡を目の当たりにするまで、信じることはありませんでした。にもかかわらず、見ないで信じる人がいた。それも、昼まで閉じこもっていた、家で縮こまっていた女性によって。

 

「わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」……そんなのあり得ない、起こるはずがない! ということが、実際に彼女を通して実現します。彼女の内から溢れ出る言葉によって、イエス様と出会い、信じた人たち。

 

私たちの前には、見つけることができないにもかかわらず、出会える方が存在します。その方のもとへ行くことも捕まえることもできないのに、いつの間にか気になって仕方のない方、気にせずにはいられない方がおられます。

 

もし、子どもの頃、どこから来て、どこへ帰っていくのか探し出そうとしたサンタのように、あなたがイエス様のことを気にしているなら、実はもう、あなたの中に生きた水がわき出ています。その水が川となって溢れ出るまで、イエス様は言い続けるでしょう。

 

 「来て、飲みなさい」

 

主の祈り

共に、主イエス・キリストが私たちに教えられた、最も基本的な祈りを祈りましょう。

 

天にまします我らの父よ。

願わくは御名をあがめさせたまえ。

御国を来たらせたまえ。

みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。

我らの日用の糧を今日も与えたまえ。

我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。

我らを試みにあわせず、悪より救いだしたまえ。

国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり。

アーメン。

 

讃美歌

讃美歌432番「重荷を負う者」を歌いましょう。(こちらも著作権に配慮して動画内では歌いませんが、『讃美歌21』をお持ちの方はぜひ、この賛美に込められた応答の思いに心を合わせましょう)

 

とりなし

神の祝福にあずかった者として、とりなしの務めを果たしましょう。

 

◆神様、あなたは祈りに応えて恵みを与えてくださいます。どうか今、わたしたちがささげる祈りをお聞きください。

◆世界の国民と政府のために祈ります。主よ、政治に携わる人々に、知恵と勇気と良心を与え、全ての場所に、自由と平和をもたらしてください。

◆世界に広がる全ての教会のために祈ります。主よ、教会を聖霊によって力づけ、その信仰を新たにし、私たちの一致と結びつきを強めてください。

◆教会員のために祈ります。主よ、私たち全てを、御言葉によって豊かに養い、あなたの愛と平和を伝える者として送り出してください。

◆一緒に礼拝できなかった人のために祈ります。主よ、病気や衰え、仕事や様々な事情のために、一緒に礼拝できない人たちを、あなたが癒し回復してください。

◆身近な人のために祈ります。主よ、私たちの家族や友人、仲間たちが、あなたの愛を知れますように、私自身を用いてください。

◆幼稚園、教会学校、地域の子どもたちを覚えて祈ります。主よ、子どもたちの健康と安全を守り、疲れを癒し、安らぎと成長をもたらしてください。

◆苦しんでいる人のために祈ります。主よ、病気や怪我、悩みや苦しみを抱える人たちに、あなたからの平安と、必要な助けを与えてください。

◆今も生きておられ、とりなしてくださる方、主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

祝 福

共に、神様の祝福を受けましょう。

 

神がわたしたちを憐れみ、祝福し、御顔の輝きをわたしたちに向けてくださいますように。あなたの道をこの地が知り、御救いをすべての民が知るために。アーメン。(詩編67:2〜3)