礼拝メッセージ 2019年3月10日
【悪魔を追い払えない】
ちょっと前に、こんな質問をされました。「神様を信じたら誘惑に強くなれますか?」「洗礼を受けたら誘惑に打ち勝てるようになりますか?」……教会に通っている皆さんは、この問いにどう答えます?
私は苦笑いしてこう言いました。「正直、神様を信じて、洗礼を受けて、牧師になってからの方が、誘惑に遭いやすくなりました」と。
不思議ですよね。神様を信じたら精神的に強くなったり、忍耐力が増したりするのかと思いきや、かえって誘惑を感じることが増えてしまった……皆さんも経験あると思います。
洗礼を受ける前は、祈祷会にも聖書講座にも一生懸命通っていたのに、洗礼を受けてからは、だんだん集会に行く日が減って、日曜日も休みがちになってきた。
教会に通い始めた頃は、人を許せる優しい人間になりたいと思っていたのに、教会に通い続けていたら、むしろ許せない人がどんどん増えていく。
クリスチャンになったら、悪口や噂話は避けようと思っていたのに、案外教会のみんなも、人の噂に花を咲かせているのを見て、まあいっか……と思うようになっている。
世間一般では、信仰を持つと、誘惑に強くなると思われているかもしれません。が、実際にはそうじゃないことを、皆さんよくご存知です。実は、神の子であるイエス様も、度々誘惑に遭いました。
それも、洗礼を受けた直後から文字通り「悪魔」がやって来ます。イエス様が「聖霊に満たされて」間もなく、言わば、悪魔が最も近寄りがたいだろうと思うタイミングで、普通にやって来るんです。
この悪魔、マタイによる福音書の並行箇所では、「試みる者」「誘惑する者」とも呼ばれています。
イエス様なら誘惑なんて簡単に追い払える。神の子なんだから悪魔祓いなんて造作もない。実際、この後イエス様はたくさんの人から悪霊を追い出します……ここでもチャチャッとやってしまうでしょう。
ところが、イエス様と悪魔との戦いが続いたのは、実に40日間! 思ったより、だいぶ手こずっています。
しかも、最終的に悪魔を倒したのでもなく、完全に追い払ったのでもなく、「時が来るまで」一時的に退散させることに成功したという微妙な勝利……イエス様、いったいどうしたんでしょう?
さらに、注意深くここを読んでいくと、おかしなことに気づきます。「さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を “霊” によって引き回され、40日間、悪魔から誘惑を受けられた。」
ここに出てくる「聖霊」という言葉は、ギリシャ語で「霊」を表す単語に「聖なる」という形容詞がついたもの……そして、後半に出てくる「霊」も同じ単語が使われており、英語で言えば “the” という定冠詞がついています。
直訳すると、「イエスは聖霊に満ちてヨルダン川から戻り、その霊によって荒れ野を連れまわされ、40日間悪魔の誘惑を受け続けた」となります。
つまり、イエス様を荒れ野に導き、悪魔のもとへ連れて行ったのは、洗礼を受けたときに降って来た聖霊だったということになります。
他の福音書では、もっとあからさまです。「イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた」「“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。」
おやおや、神様がイエス様に注いだ「霊」は、イエス様を誘惑から、悪魔から守るどころか、敵の前に引き出してしまいました。穏やかじゃありません。
さらに、イエス様は40日間、荒れ野の中を引き回され、心身ともに疲れ果てています。その上、何も食べてません。成人男性が何も食べずに生きることができるのは、だいたい36日間……イエス様、既に瀕死です。
そんな状態で、イエス様を悪魔の前に引き出した聖霊は、いったいどっちの味方なんでしょう?
イエス様はどう考えても、悪魔と闘う上で万全な状態ではありませんでした。圧倒的に悪魔が有利に見え、イエス様は不利に見えました。そんな中、悪魔は容赦なく誘惑を始めます。
【悪くない話】
最初の誘惑は、空腹に訴えかけるものでした。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ」……前半の「神の子なら」という言葉は、もともと「あなたは神の子なのだから」という断定的な表現です。
神の子であるならこんなことができるはずだ。神の子であるならこうしてもいいはずだ。そう言って悪魔は誘いかけてきます。
食欲は現代の私たちにとっても大きな誘惑です。食べ過ぎだと分かっている、ダイエットしなきゃと分かっている。だけど、どうしても食べてしまう……そんな場面いくらでもあるでしょう。
でも、イエス様が直面していた空腹はそんなレベルじゃありません。食べないと栄養失調で死ぬような状況……ここで食べ物を欲するのは自然で正当的な権利です。誰も悪いと言わないでしょう。
しかも、悪魔が「石にパンになるよう命じてみろ」と言ったのは荒れ野の中……そこは、人の住むことが想定されていない、城壁の外という場所でした。誰からの保護も保証も受けられず、罪人、病人、貧しい者、そういった弱い人たちが追いやられる所。
イエス様は、まさにそういう人たちを救うためにやってきました。追いやられた先で食べ物に困っていた人たちにとって、石をパンに変えるという奇跡は、まさに救い主に求めていたことです。
悪魔の言うとおりにしても、誰かが傷つくわけじゃありません。むしろ、自分も満たされるし、たくさんの人を救えます。魅力的な提案でした。
ところが、イエス様は旧約聖書を引用して、「人はパンだけで生きるものではない」と答え、悪魔の誘いを断ります。これは申命記8章3節からの引用で、この後に「人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」と続きます。
悪魔は世の中のみんなが喜ぶやり方、みんなが求めるやり方で奇跡を行えと誘いますが、イエス様は神様の喜ぶやり方、神様の求めるやり方で人々を救うことを選びました。
【権力と繁栄】
次に、悪魔はイエス様を高く引き上げ、一瞬のうちに世界の全ての国々を見せてこう言います。
「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」
2つ目の誘惑は、先ほどの荒れ野から離れて、高い所で行なわれます。荒れ野が人々の追いやられる場所であったのに対し、高い所は人々が注目し、期待の集まる場所でした。
一切の権力と繁栄とをものにする……というのは、当時、人々がメシア(救い主)に期待していた人物像でもあります。
この時代、ローマ帝国に支配され、独立することのできなかったユダヤ人たちは、自分たちを外国の支配から解放する政治的軍事的力を持ったメシアを期待していました。
ようするに、虐げられた人々を解放するための力です。単に地位や名声を求める願いとはちょっと違います。たくさんの人を救うための近道として、人々のメシア的期待に応えたら? と悪魔は誘ってきたんです。
しかし、イエス様は再び旧約聖書の言葉を引用して「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある」と言って断ります。この言葉は、最初に読んだ申命記6章13節から来ており、自分たちが繁栄し豊かになった時も、神様を忘れてはならないという教えでした。
ここでもイエス様は、「人々の期待に応えたらどうだ」という悪魔に対し、世の中の期待ではなく、神様の期待に応えることを選びます。
【神の子の証明】
3つ目の誘惑は、エルサレムの神殿の屋根で行われました。エルサレムという場所は、この先イエス様が十字架につけられて殺されることになっていた場所です。
後に、オリーブ山でイエス様が苦しみ悶えて祈るように、イエス様自身、本当は避けたいと思わざるを得なかった十字架による死という出来事を暗示する場所でした。
まさにその場所で、「神殿から飛び降りても無事な姿を人々に見せたらどうだ」と誘われます。十字架上で、死ななくても済む奇跡を起こせ……そういう誘いでもあったと言えるでしょう。
しかも、このとき悪魔は、詩篇91篇の11節、12節を引用しています。紛れもなく聖書の言葉、神の言葉を使って勧めてくるんです。
しかし、イエス様は3つめの誘惑も、「あなたの神である主を試してはならない」と断ります。申命記6章16節の言葉を、引用し返したんです。こういったやり取りを見ていると、思わずドキッとさせられます。
悪魔が聖書の言葉を用いてイエス様を試したように、私たち自身も、聖書の言葉を使って本来進むべきではない方向へ誘われることがあるからです。
聖書に書いてあるから、こうしなければならないと誰かに強要する。聖書で言われているから、私はこうしてもいいんだと主張する。
結局、神様が何を求めているかなんてどうでもよくて、私が言いたいことを聖書に言わせているだけだった……そんな私やあなたの姿を、悪魔が映し出してきます。
そう、ここに出て来る悪魔って、私たちの姿です。私たちが期待し、私たちが求めているものを、神様に、イエス様に、言わせようとし、やらせようとする。
自分の願いは正しいこと、実現すべきことと思いながら、実際に神様がどう考えているかなんて、実は考えていない私たち。
どうやら、聖書の言葉が語られているなら、それに素直に従っていいというわけではないようです。未だに、聖書の言葉を使って多くの戦争や暴力が正当化されている現実を見ても、それは頷かざるを得ません。
その多くは、人が人を従わせようとするために、自分の望みを叶えるために語られます。しかし、イエス様は自分のためではなく、最後まで神様の求めることを考えて、誘惑を拒み続けました。
【悪魔は再びやってくる?】
さらに、3つ目の誘惑を拒んだイエス様の姿は、もう一つ大事なことを気づかせてくれます。「天使たちが守ってくれるはずだから、神殿から飛び降りてみろ」という悪魔の誘いは、イエス様が十字架につけられる道から引き離そうとするものでもありました。
しかし、その十字架につけられる間際、オリーブ山で祈っていたイエス様の前に現れ、力づけてくれたのは、他ならぬ天使たちでした。神様から遣わされる天使たちは、本当に必要な時に、本当に必要な形で、イエス様の元へ遣されました。
悪魔は良く見える方向へ、魅力的な方向へ人々を誘いますが、それは本当に必要な生き方から、神様の求める生き方から、人間を遠ざけてしまいます。そんな中、イエス様は絶えず、本当に必要な生き方を選んで、誘惑を退けていきました。
しかも、イエス様はこの時だけ誘惑に苦しめられたんじゃありません。私たちと同じように、何度も誘惑を受けたことが、最後に暗示されています。
「悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた」……この「時が来るまで」という言葉は、悪魔が再びイエス様のもとへ訪れたことを想像させます。私たちは生きている限り、洗礼を受けた後であろうとなかろうと誘惑に遭い続けます。
追い払った、振り払ったと思ったら、またやって来たということが度々起こります。それはあなたの弱さや、あなたの不信仰を意味するのではありません。
誘惑が迫って来るのは、あなたがイエス様と同じ道を歩んでいる証なんです。あなたが誘惑に悩むとき、その誘惑と戦ったイエス様が近くにいます。あなたと一緒に、神様の求める生き方を選ぼうとするイエス様がいます。
受難節に入りました。この時期、私たちはいくつもの苦しみを受けたイエス様が、たくさんの誘惑に遭いながら、それでも神様の意志に従ったことを覚えます。
私たち一人一人も、誘惑に出会うとき、この道をイエス様と一緒に歩かされていることを思い出しましょう。