ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『寂しい伝道』 使徒言行録8:26〜40

聖書研究祈祷会 2022年11月2日 


www.youtube.com

 

案 内

華陽教会では、マスク・消毒・換気・加湿・三密回避の座席調整をした上で、聖書研究祈祷会を配信と並行して行っています。共に今、教会にいる人も、配信を見ている人も、互いのために祈りを合わせ、聖書の言葉を味わいましょう。

 

讃美歌

マスクをしたままで、讃美歌21の54番「聖霊みちびく神のことばは」を歌います。諸事情でマスクを外している方は、歌うのをご遠慮いただき、心で賛美を合わせましょう。

 

お祈り

ひと言お祈りをします。共に心を合わせましょう。

◆命と力の源である、私たちの神様。今日もまた、あなたによって守られて、聖書研究祈祷会を始めることができ、感謝いたします。どうか今、ここに集まった人たちと、自宅で、施設で、職場で、屋外で、あなたの言葉を求めている人を導いてください。

◆私たちの神様。先日の日曜日には、505年目の宗教改革記念日を覚えて、みんなで礼拝することができ、感謝致します。どうか今、あなたがもたらす気づきと変化と回復に、私たちもあずかることができるように、心を開かせてください。

◆私たちの神様。施設に入っている方、入院している方、自宅で療養している方に、あなたの癒しと支えがありますように。どうか今、病気や怪我、衰えや障害によって、痛みや不安を抱えている人たちに、あなたの助けが豊かにもたらされますように。

◆私たちの神様。来週の日曜日には、先に召された方々が、あなたのもとに受け入れられ、天においても、地においても、共に礼拝していることを覚えます。どうか今、亡くなった方のご遺族、ご友人に、あなたの希望と慰めが続けてもたらされますように。

◆私たちを支え、導き、送り出すイエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

聖書朗読

聖書の言葉を聞きましょう。使徒言行録8:26〜40の新共同訳を朗読します。

*日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、配信終了後に聖書箇所のみ記載し、本文をカットしています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

www.bible.or.jp

lisa runnelsによるPixabayからの画像

メッセージ

エルサレムの教会が大迫害に遭い、消滅の危機を迎えた中、迫害を逃れてサマリアの町へやって来たフィリポは、多くの人を洗礼に導いていきました。ところが、彼が洗礼を授けた人々は、一人も聖霊が降っておらず、エルサレムから派遣された使徒ペトロとヨハネによって、初めて聖霊が与えられます。

 

こういう言い方をすると、良くないかもしれませんが、頑張って伝道して、洗礼を授けてきた後で、後からやって来たエリートに、一番良いところを持って行かれたように見えてきます。しかも、ペトロとヨハネは、フィリポに遠慮することなく、神様の言葉を力強く証しして、サマリアの多くの村で、イエス様の教えと業を広めていきます。

 

完全に活躍の場を奪われ、サマリアにおけるフィリポの影は薄くなります。さらに、ようやくペトロとヨハネが帰ったあとも、フィリポはサマリアに留まることを許されず、神様から突然、「ガザへ下る道へ行け」と命じられてしまいます。そこは人気がなく、寂しい道で、たくさんの人へ伝道するのに向いている場所とは思えませんでした。

 

なぜ、このようなタイミングで、こんなところへ、自分が遣わされたのか? サマリアで伝道を続けていちゃ駄目だったのか? 普通、どこかの町や村で、大勢の人を洗礼に導いた伝道者が、次の場所へ派遣されるなら、たとえ、信仰者が一人もいないような場所であっても、過疎地や荒れ地ではないと思います。

 

キリスト教がほとんど知られてない場所や、異なる信仰を持つ人たちが多い土地、あるいは、キリスト教が禁じられたり、迫害されたりしているような、難しいところへ遣わされる……それなら、まだ分かります。サマリアの町も、ユダヤ人から見れば、自分たちの信仰からかけ離れた、異質な信仰を持っていたからです。

 

しかし、フィリポが「行きなさい」と命じられたのは、町や村にさえなってない、人がほとんど通らない、寂しい道でした。どう見たって、伝道が成功する場所ではありません。リバイバルが起きたり、教会が増えたりする場所ではありません。そもそも人がいないからです。

 

おそらく、自分がそこへ行くことに意味を見出すのは難しかったでしょう。しかし、フィリポはすぐに出かけて、延々と続く人気のない道を歩きます。すると、間もなく、エチオピア人の宦官が馬車に乗って、エルサレムから帰っているのが見えました。この宦官は、エチオピアの女王カンダケの高官で、全財産の管理を任された人物でした。

 

海外の国からやって来た最重要人物です。当然、この宦官が一人で出かけることを許されたとは思えません。おそらく、馬車が一台だけ進んでいたわけじゃないでしょう。護衛や従者もついて、ぞろぞろ行列ができていたと考えるのが自然です。もちろん、そんなところへ一般人が走り寄れば、護衛に警戒されて、下手すれば槍を振るわれるでしょう。

 

「寂しい道」に見えたところが、一気に緊張感のある、熱い場面になってきました。すかさず、神の霊がこう命じます。「追いかけて、あの馬車と一緒に行け」……さあ、命懸けの場面です。近づくだけで、SPに殺されかねないようなところへ、フィリポは命じられてすぐ、走り寄っていきます。

 

不思議なことに、女王の高官に、許可なく近づいたフィリポのことを、周りにいる人々は、まるで見えてないかのように、誰一人止めようとしていません。馬車に追いついてしまうフィリポの足も不思議ですが、神の働きなしに、このシーンは実現しないでしょう。彼が追いつくと、宦官が預言者イザヤの書を朗読しているのが聞こえてきます。

 

「読んでいることがお分かりになりますか」さっそくフィリポは宦官に尋ねます。自己紹介でも、挨拶でもなく、第一声から本題です。宦官の方も、「あなたは誰か?」「何をしに来たのか?」と問うことなく、まるでフィリポが誰なのか、何のためにやって来たのか最初から分かっていたように返答します。

 

「手引きしてくれる人がなければ、どうして分かりましょう」……見てのとおり、私には手引きが必要です。誰か説き起こしてくれる人が必要です。あなたを待っていました。さあ、どうぞ教えてください……そんなふうに、待っていた、準備していたとしか思えないほど、スムーズに伝道が始まりました。

 

ちなみに、宦官とは「去勢された者」であり、申命記23章には「睾丸のつぶれた者、陰茎を切断されている者は主の会衆に加わることはできない」とされていました。エチオピアから、わざわざ神を礼拝しに行ったにもかかわらず、この人はエルサレム神殿に入ることを許されず、神の民と一緒に礼拝することが叶わず、どうにか預言者の書だけ手に入れて、すごすごと帰路についた人物です。

 

おそらく、イエス様が生まれたとき、エルサレムへ訪れた占星術の学者たちのように、エチオピアの宦官も、その来訪を良く思われず、恐れられたことでしょう。異国の地、異教の地の高官が、長旅に必要な従者と護衛を連れてぞろぞろやって来るわけですから、見方によっては、イスラエルを侵略しにきた、偵察しにきたようにも見えるからです。

 

宦官は純粋に、礼拝したかったのに受け入れられず、預言者の語った人物を知りたかったのに教えてもらえず、追い出されるように出て来ました。そこへ、同じくエルサレムから追い出され、サマリアにも留まれなかったフィリポが遣わされていきます。このタイミングで、こんなところへ、自分が遣わされた理由が、徐々にフィリポも分かってきます。

 

エチオピアの宦官は、預言者の語った人物が、エルサレムで十字架につけられた、イエス・キリストであることをフィリポから告げ知らされ、イエス様の教えたこと、なさったことを聞いていきます。そして、フィリポから促されるまでもなく、自分の口で提案します。「ここに水があります。洗礼を受けるのに、何か妨げがあるでしょうか……」

 

またもや、準備されていたとしか思えないタイミングで、洗礼に必要なものがもたらされます。ここで、洗礼を授けられたのは宦官一人だけですが、その様子を彼に仕える人々はじっと見ていたことでしょう。聖書朗読とメッセージが、神の言葉の「見えないしるし」であるならば、洗礼と聖餐は、神の言葉の「見えるしるし」とも言われています。

 

まさに、エチオピアの宦官がフィリポから洗礼を受けるシーンは、その場に居合わせた人たちにとって、神の言葉の「見えるしるし」になったでしょう。帰国して、そのとき見たこと、そのとき聞いたことを伝えたのは、宦官だけではなかったでしょう。馬車を運転していた人も、護衛についていた人も、従者としてそばにいた人も、みんな語らずにはいられません。

 

2人が水から上がってくると、まもなく主の霊が、神の霊がフィリポを連れ去って、宦官は彼の姿を見失います。しかし、恐れたり、戸惑ったりするのでなく、むしろ、彼は喜び始めます。なぜなら、その様子こそ、エマオの途上で復活したイエス様と出会い、イエス様が本当に救い主だと知った弟子たちに共通する出来事だからです。

 

本当だ、フィリポが教えてくれたとおり、私はイエス様を知ることができた。エルサレムで、神殿で、神の民として一緒に礼拝することを許されなかった私にも、イエス様は彼を通して出会ってくれた。私も、神の民として受け入れられた。そうして、喜びにあふれて旅を続けます。新たな信仰者、伝道者が生まれます。

 

それは、受洗者がたった一人しか現れなかった、寂しい伝道に見えるかもしれません。しかし、その道は間違いなく、神が共におられたことを実感させられる、喜びにあふれた道でした。もし、私たちの前に、洗礼を受ける人がなかなか現れない、伝道する相手がほとんどいないように見える道が広がっているなら、そこには希望が広がっています。

 

行きなさい、わたしはあなたと共にいる……かつて、あなたに語りかけられ、今も語られ続けている、一つ一つの神の言葉が、力が、励ましが、全ての人へ、今日も届けられますように。アーメン。

 

とりなし

共に、神様から与えられたとりなしの務めを果たしましょう。本日は『信徒の友』の「日毎の糧」で紹介されている(東京都墨田区の東駒形教会)のために、障害のある人のために、差別を受けている人のために、暴力に苦しむ人のために、祈りを合わせましょう。

 

◆神様、あなたは祈りに応えて恵みを与えてくださいます。どうか今、私たちがささげる祈りをお聞きください。

◆東京都墨田区の東駒形教会のために祈ります。来年度、100周年を迎えるこの教会に、あなたの恵みと祝福が豊かにありますように。関東大震災の復興支援から築かれていった教会として、地域の人々と共に生きる使命を果たしていくことができますように。

◆障害のある人のために祈ります。発達障害、精神障害、身体障害のある人に、あなたの助けと回復がありますように。周囲と家族と本人の理解、適切なケアと治療が導かれ、生きやすい世の中ができますように。

◆差別を受けている人のために祈ります。人種、性別、出身、病気、障害、職業、信仰など、属性を理由に傷つけられ、否定され、生きにくくされている人たちに、あなたの慈しみがありますように。制度と、教育と、みんなの意識が豊かに変わっていけますように。

◆暴力に苦しむ人のために祈ります。理不尽な言動や態度、脅しや圧力に押しつぶされている人に、あなたの憐れみがありますように。周囲の気づきと、助けを求める勇気が与えられ、自分を犠牲にし続ける状況から、解放されますように。

◆今も生きておられ、私たちをとりなしてくださる方、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

讃美歌

マスクをしたままで、オンライン賛美歌1番「枯れた谷に鹿が」(©️柳本和良)を歌います。

 

 

主の祈り

共に、イエス様が弟子たちに教えられた最も基本的な祈りを祈りましょう。讃美歌21の93-5Aです。主の祈り。

 

 

報 告

本日も、教会に集まって、また配信を通して、聖書研究祈祷会にご参加くださり、ありがとうございます。先週の聖書研究には、教会に集まった3名、同時に視聴された5名、計8名が参加されました。後から動画を見て祈りを合わせてくださった方も感謝致します。

 

配信終了後、時間のある方は14:30まで、聖研の質問や感想、キリスト教について気になっていることなど自由に聞ける第二部「分かち合い」の時を開きます。人前でお祈りするのを遠慮したい方は、飛ばしてもらうこともできます。よかったらぜひご参加ください。

 

それではまた、日曜日まで、皆さん一人一人に神様の平和がありますように。