ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『支持者を蹴散らすメッセージ』 使徒言行録3:11〜4:4

聖書研究祈祷会 2019年7月3日

 

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【信心は関係ない?】

 先々週の日曜日に、『初代教会はカルト的?』というタイトルで、礼拝のメッセージを行いました。

 

 ペンテコステの直後、聖霊を受けた弟子たちの言葉を聞いて、3000人もの信徒が加わった*1。彼らは皆一つになって、全ての物を共有し、財産や持ち物を売り払い、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った*2

 

 私物の所有を制限される、財産や持ち物が全て組織の手に渡る。そういう意味では、破壊的カルトの要素を少なからず持っていたと言えるでしょう。

 

 ただし、注目すべき点は、集まった財産や持ち物の代金を、一部の人が手にするのでなく、皆で分け合っていたことです。

 

 多くの破壊的カルトは、信者から集めた献金や財産は、団体の幹部やリーダーの元に集められます。しかし、イエス様の弟子たちは、共有された財産を必要なところへ分配し、自分の手元には、ほとんど残していないようでした。

 

 使徒言行録3章で、ペトロとヨハネは足の不自由な男と出会い、施しを求められますが、2人は何も出せません。そりゃそうです。持ち物や財産は全て、集まった信者に共有してしまったんですから。

 

 けれども、ペトロはこう言います。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい*3

 

 すると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして、歩き回ったり踊ったりして、神を賛美し始めました。

 

 鮮やかな癒しの奇跡……民衆は皆非常に驚いて、彼らの方へ一斉に集まってきます。生まれつき歩けなかった人を一瞬で癒した方がいる。あの方は誰だ? 預言者か? それとも神の使いだろうか?

 

 ペトロとヨハネ、それに癒された男を囲んで、何百人、何千人もの人が寄ってきます。

 

 信者を増やす絶好のチャンスです。ペトロは民衆に向かって語り始めます。「イスラエルの人たち、なぜこのことに驚くのですか。また、わたしたちがまるで自分の力や信心によって、この人を歩かせたかのように、なぜ、わたしたちを見つめるのですか*4

 

 どうも、民衆を責めているようです。信者の獲得を目指すなら、最初は優しいことを言って、しっかりと抱きかかえてから、こういう厳しさを出すべきです。じゃないと、逃げられちゃうじゃないですか?

 

 けれども、ペトロはおかまいなし。本当に、信じさせる気があるのか心配になるほど、ショッキングなメッセージを語ります。

 

 「あなたがたは、命への導き手である方を殺してしまいましたが、神はこの方を死者の中から復活させてくださいました*5

 

 ついに、集まってきた人たちを人殺し呼ばわり! せっかく、自分を応援してくれるかもしれない人が集まったのに、支持者を蹴散らす勢いです。

 

 「男が歩けるようになったのは、私の力や信心によってではない」「あなたたちはキリストを拒んで殺してしまった」……これが一発目のメッセージって、なかなかきつくないですか?

 

【信仰があった?】

 なんだ? なんだ? とざわつく民衆たちに、ペトロはどうしてこの男が癒されたのかを語ります。

 

 「あなたがたの見て知っているこの人を、イエスの名が強くしました。それは、その名を信じる信仰によるものです。イエスによる信仰が、あなたがた一同の前でこの人を完全にいやしたのです*6

 

 これちょっと不思議じゃないでしょうか? ペトロは最初、この男が癒されたのは、自分自身の信心や力によってではないと言いました。

 

 では、男を癒した「その名を信じる信仰」というのは、いったい誰の信仰なんでしょう? 文脈から考えれば、これは癒された男自身の信仰と考えるのが自然です*7

 

 でも、足の不自由な男は、果たしてイエス様を信じていたんでしょうか? 彼は、イエス様の弟子たちに、「御心ならば、キリストは私を癒してくださいます」とでも言ったんでしょうか? 3章に戻って見てみましょう。

 

 

 ペトロとヨハネが、午後三時の祈りの時に神殿に上って行った。すると、生まれながら足の不自由な男が運ばれて来た。神殿の境内に入る人に施しを乞うため、毎日「美しい門」という神殿の門のそばに置いてもらっていたのである。彼は、ペトロとヨハネが境内に入ろうとするのを見て、施しを乞うた。

 ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見て、「わたしたちを見なさい」と言った。その男が、何かもらえるかと思って2人を見つめていると、ペトロは言った。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」*8

 

 

 さあ、足の不自由だった男は、キリストを信じていたのか? 治してもらえると信じたのか? そんな気配、ここにはないですよね*9……むしろ、男が2人に求めたのは、単なる施しであって、癒してもらえると信じて願った形跡はありません。

 

 また、ペトロとヨハネが何者かも分かっていないように感じます。単に、「神殿へ礼拝しに来た2人組」くらいの認識しかなかったんじゃないでしょうか?

 

 そもそも、この男がキリストを知っていたかさえ怪しいです。彼は、自分から一言もイエスの名を口にしません。癒される前も、癒された後もそうです。

 

 男の信仰を確認することは、私たちにはできません。「その名を信じる信仰」とは、最初から男にあったものでも、男が自分で示したものでもなかったんです。

 

 ただ一つ言えるのは、男が癒されたのは、キリストの名を聞いた後、イエスという名を知った後だということです。「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」……ペトロの言葉に、彼は思いを巡らせます。

 

 ナザレのイエス……どこかで聞いたことがあるような? 誰かが神殿で噂していた人かもしれない。以前、境内で暴れたとも、病人を癒したとも耳にした気がする。

 

 そう、確か「神の子を自称した」という罪で、十字架につけられた人だった。「その人の名によって立ち上がり、歩きなさい」だって? いったいなぜ、その名によって命じられるんだろう?

 

 イエスとは誰なのか、どんな人なのか、私とどういう関係があるのか?……男はイエスという名を知って、その方に心を向けていきます。その瞬間、ペトロが右手を取って起こすと、彼は立ち上がり、歩けるようになっていました。

 

 本来、信仰というにはだいぶ小さな心の動き、「イエス・キリストとは誰なのか?」「本当に私を立たせてくれるのか?」……疑問と期待に過ぎなかったものが、彼に変化をもたらします。

 

【無知のせい】

 聖書を深く読み込んだ、律法を忠実に守り通した、節制と修行を続けてきた……そんな人が大きな奇跡を経験するなら分かりますが、彼はイエスの名を聞いただけです。聞いただけで、「その名を信じる信仰」が認められ、新しい人生を与えられます。

 

 私たちもなかなかショックです。信仰とは、聖書を読み、礼拝に出て、毎日祈りながら育んでいくもの……外からキリストの名を告げられて、心がそっちへ向いた瞬間認められるなら、私たちが信仰だと思っているものは、いったい何なんだろう?

 

 長年、律法を守ることが信仰の証と考えてきたユダヤ社会の人々にとっても、神様の癒しが、イエスという名を知ったばかりの人にもたらされるのは、衝撃的なことでした。彼は信仰を告白したのか? 信仰的態度を見せたのか?

 

 神殿に入れず、礼拝に出られず、ラビの教えも受けられない「無知」だと思っていた男が、その信仰を認められ、癒されてしまった。ペトロの話は、民衆にとって、自分の常識を覆してくるメッセージでした。

 

 信仰は、その人が自分の力で努力して得られるものではない、外から名前を告げられ、外から与えられるものなのだ。私たちが「信仰」だと自負していたものは、外からのものを受け入れない、自分自身の思想に過ぎなかったのかもしれない。

 

 神殿で犠牲をささげている、神を礼拝し続けている、ラビの教えを受けている……「信仰」とは、そんな私の内に芽生えるものと思っていた。

 

 でも私は、果たして神に心を向けていたか? 神に命じられることを聞き、心に問いかけてきただろうか? 「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」……

 

 私が従ってきたのは、キリストの名によるものだろうか? 教師の名によるもの、組織の名によるもの、圧倒的多数の名によるもの……それらに従ってきたに過ぎないんじゃないか? ペトロはさらに続けます。

 

 「ところで、兄弟たち、あなたがたがあんなことをしたのは、指導者たちと同様に無知のためであったと、わたしには分かっています。しかし、神はすべての口を通して予告しておられたメシアの苦しみを、このようにして実現なさったのです。だから、自分の罪が消し去られるように、悔い改めて立ち帰りなさい*10

 

 神殿の境内に集まっていた人々は、決して「無知」とは言えないはずの人々でした。彼らの指導者とは祭司やレビ、律法学者です。

 

 礼拝に来て、犠牲をささげ、教えを乞うている真面目な人たち。毎週、教会へ通っているような人たちが、今更のように「悔い改めて立ち帰りなさい」と言われます。

 

 でも、民衆は怒れません。礼拝に出られなかった、神殿で犠牲をささげることもしなかった、足の不自由な男が立ち上がらされ、躍り上がって賛美する。

 

 彼を立ち上がらせたのは、自分たちが「十字架につけろ!」と要求したイエス・キリストの名によるものです。自分たちが蹴散らした、支持しなかった人の名です。

 

 その方が今、何も分かっていなかった自分たちにも、「罪が消し去られるように、悔い改めて立ち帰りなさい」と勧めてきます。罰や仕返しではなく、救いと祝福にあずからせようとしてきます。

 

 ペトロとヨハネの語ったことは、支持者を蹴散らすメッセージ……しかし、その言葉を聞いて信じた人は多く、5000人にもなりました。

 

 私たちも改めて、キリストの名によって何が命じられているか、耳をすませたいと思います。

*1:使徒2:41参照。

*2:使徒2:33〜45参照。

*3:使徒3:6

*4:使徒3:12)」

 

 おっと……せっかく人が寄ってきたのに、ペトロは自分の信心を否定します。「私の信仰心ゆえに、この男は治ったんだ」そういえば、強力な権威づけになるのに! より多くの人を従わせ、信者にできるかもしれないのに!

 

 その上、自分を持ち上げてくれるかもしれない人々に対し、ペトロは辛辣なメッセージを語ります。

 

 「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、わたしたちの先祖の神は、その僕イエスに栄光をお与えになりました。ところが、あなたがたはこのイエスを引き渡し、ピラトが釈放しようと決めていたのに、その面前でこの方を拒みました。聖なる正しい方を拒んで、人殺しの男を赦すように要求したのです((使徒3:13

*5:使徒3:15

*6:使徒3:16

*7:ウィリアム・ニール著、宮本あかり訳『ニューセンチュリー聖書注解 使徒言行録』日本基督教団出版局、2007年、109頁参照。

*8:使徒3:1〜6

*9:ウィリアム・ニール著、宮本あかり訳『ニューセンチュリー聖書注解 使徒言行録』日本基督教団出版局、2007年、109頁参照。

*10:使徒3:17〜19