ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『不思議な力が欲しくなる』 使徒言行録8:14〜24

聖書研究祈祷会 2022年10月26日


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案 内

華陽教会では、マスク・消毒・換気・加湿・三密回避の座席調整をした上で、聖書研究祈祷会を配信と並行して行っています。共に今、教会にいる人も、配信を見ている人も、互いのために祈りを合わせ、聖書の言葉を味わいましょう。

 

讃美歌

マスクをしたままで、讃美歌21の378番「栄光は主にあれ」を歌います。諸事情でマスクを外している方は、歌うのをご遠慮いただき、心で賛美を合わせましょう。

 

お祈り

ひと言お祈りをします。共に心を合わせましょう。

 

◆愛と平和の源である、私たちの神様。今日もまた、あなたによって守られて、聖書研究祈祷会を始めることができ、感謝いたします。どうか今、ここに集まった人たちと、自宅で、施設で、職場で、屋外で、あなたの言葉を求めている人を導いてください。

◆私たちの神様。今週は急に冷え込み、各地で、この秋一番の寒さが訪れています。風邪をひきかけている人や、気温の変化に体がついてこない人もいます。どうか今、一人一人の健康を支え、必要なところにあなたの癒しを与えてください。

◆私たちの神様。来週は、宗教改革505年目を記念して、新しい聖書の翻訳や、文語と口語の主の祈りを用います。どうか今、あなたの教えと業を広めるために、愛と平和を伝えるために、私たちの言葉と、姿勢と、振る舞いの全てが、用いられますように。

◆私たちの神様。再来週は、先に召された方々を覚えて、召天者記念礼拝が行われます。天においても、地においても、共にあなたを礼拝し、神の民として受け入れられていることを覚えます。どうか今、地上に残された一人一人に、あなたの希望が届きますように。

◆人と人との間におられる、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

聖書朗読

聖書の言葉を聞きましょう。使徒言行録8:14〜24の新共同訳と聖書協会共同訳を朗読します。

*日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、配信終了後に聖書箇所のみ記載し、本文をカットしています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

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Colin BehrensによるPixabayからの画像

メッセージ

初代教会がエルサレムで激しい迫害に遭い、信徒が各地へ散らされて、消滅の危機を迎えたとき、ステファノと同じく、食事の世話をするために選ばれたフィリポが、サマリアの町に下って伝道し、多くの人が洗礼を受けます。エルサレムの教会が破壊されてから、最初に成功した宣教です。

 

このときの洗礼は、エルサレムに残ったペトロやヨハネなどの使徒によってではなく、迫害によって追い出され、逃げ延びた先で伝道を続けた給仕係が行いました。見方を変えると、勇敢な12使徒が留まったエルサレムでは、他に一人も信徒を留めることができず、エルサレムの教会を置いて逃げていったフィリポによって、サマリアに多くの受洗者が与えられたとも受け取れます。

 

フィリポやステファノに食事の世話を任せ、祈りと御言葉の奉仕に専念しようと考えていた使徒たちは、むしろ、自分たちより彼らの方が、祈りと御言葉の奉仕に用いられているのを見て、驚くと同時に、焦っていたかもしれません。自分たちが先頭に立って、エルサレムの教会を復興させるつもりが、散らされた人たちが先頭に立って、周りの教会が作られていきます。

 

しかも、ユダヤ人と相性の悪いサマリアの町での伝道が、フィリポによって成功したとの知らせです。初代教会の中心地であったエルサレムの教会は、迫害によって使徒たちの他は、一人も信徒がいなくなり、異なる信仰の象徴であったサマリアの町に、新しい教会が作られて、どんどん信徒が増えていく……けっこうショックな状況です。

 

けれども、フィリポによって神様を信じるようになったサマリアの人々は、イエスの名によって洗礼を受けたものの、まだ聖霊を受けていないとみなされます。フィリポではなく、エルサレムから派遣された使徒ペトロとヨハネによって、手を置いて祈ってもらうことで、初めて「聖霊が与えられた」と人々に受けとめられています。

 

その様子は、元魔術師のシモンからも「ペトロとヨハネが手を置いて祈ると、聖霊が与えられた」というふうに見えているので、いわゆる「異言」(人々が話せないはずの言葉を話し出した奇跡)に直面したのだと思います。そして、聖霊を授ける力を金で得ようとするシモンと、使徒ペトロの対決に焦点が当てられ、フィリポはサマリアの宣教の中心から隅っこへ追いやられていきます。

 

色々と考えさせられるところです。なぜ、神様は人々に洗礼を授けたフィリポによって聖霊が与えられるようにしなかったのか? フィリポが手を置いて祈っても、人々に聖霊は与えられなかったのか? 「手を置いて祈れば、だれでも聖霊が受けられる力」を魔術師シモンが求めたように、フィリポもその力を求めなかったのか?

 

今日のメッセージのタイトルに「不思議な力が欲しくなる」と付けましたが、これってかなり自然なことだと思うんです。私たちは、お金を持ってきて力を得ようとしたシモンのことを笑えません。一見すると、金で聖霊の力を買おうとしたように見えますが、シモンにとっては売買ではなく、献金のつもりだったかもしれません。

 

牧師が一生懸命献金して、自分が祈ったら、信仰者が与えられますように、教会に来る人が増えますように……と願ったり、信徒が一生懸命献金して、自分が祈ったら、家族や友人が同じ信仰を持ってくれますようにと願ったり……割と似たようなことを考えてしまうのが、人間の性だと思います。

 

一見すると、このエピソードは、不信仰な元魔術師と、本物の信仰者との緊張関係が描かれていると思えますが、もう一方で、洗礼を授けたフィリポと聖霊を授けたペトロたちとの間にも、緊張関係が見られます。迫害を耐えてエルサレムに残る一方で、他の信徒を留められないペトロたちと、受洗者がたくさん与えられる一方で、聖霊を授けることができないフィリポの姿。

 

もしかしたら、ペトロをはじめとする使徒たちは、エルサレムで多くの洗礼を導けたのは、自分たちの手柄だという思いが、どこかにあったかもしれません。自分たちが頑張れば、迫害で教会が破壊されても、信徒を留められると思っていたかもしれません。しかし、信徒たちは皆、ユダヤとサマリアの地方へ出ていって、自分たちの手を離れ、新たな伝道が開始されます。

 

もしかしたら、使徒たちから按手を受けたフィリポもまた、サマリアで多くの受洗者が生まれたのは、自分の手柄だという思いが、どこかにあったかもしれません。自分が頑張れば、難しい地域でも、信徒だけでなく、伝道する教師も育てられると思っていたかもしれません。しかし、彼一人では、人々に聖霊を授けることはできず、破壊されて信徒を失ったエルサレムからやってきた使徒たちの手によって、人々に聖霊が与えられます。

 

ペトロをはじめとする使徒たちも、フィリポ自身も、自分によって受洗者が与えられる力、自分によって聖霊が与えられる力を、求めていたと思うんです。しかし、それらは彼らが望むとき、望む形では与えられません。自分の他の誰かが遣わされ、受洗者が与えられ、聖霊が与えられます。自分が完璧な奉仕を行えるようになるのでなく、自分に欠けた力を補う者、とりなす者が遣わされて、一緒に宣教の働きを完成させます。

 

以前、私が神学生だったとき、教会へ誘って、一緒に行くようになった人がいました。もともとは、洗礼を受けてくれるなんて思わずに、自分の信じているものや、一緒に信じている人たちを知ってほしくて連れて行っただけでした。ところが、その人が洗礼を受けたいと言い出したとき、私はどこかで、自分がその気持ちを導いたんだと思っていました。

 

しかし、洗礼式があった当日に、その人がみんなの前で語った証に出てきたのは、教会に連れて行った私ではなく、同じ学校で、別の教会に行っていた、その人の友人の姿でした。友人は、その人を自分の教会へ誘ったことも、連れて行ったこともありませんでしたが、自分の姿を通して、洗礼を受けたいという気持ちをもたらした人でした。

 

私自身は、その人を教会へ誘うことはできましたが、私と一緒に教会へ行っているだけでは、その人が洗礼を受けることはなかったと思います。その人の友人が、同じ教会には行けなかったけど、自分の生きる姿を通して神様を証ししてきたことで、受洗の決意につながったんだと思います。

 

正直、牧師になった今でも、私自身が、誰かを教会へつなげたり、受洗の決意を導いたり、洗礼そのものを授けたり、そういう特別な、不思議な力に憧れてしまいます。でも、私が私の持つ力で宣教が完成するのではなく、神様が一緒に遣わし、補い合い、とりなし合うようになった、信じる仲間、信仰共同体によって、初めて宣教の業が完成します。

 

人々に洗礼を授けたフィリポも、人々に聖霊を授けたペトロも、自分の働きによってではなく、神様によって、互いにとりなし合うよう遣わされた仲間の助けによって、新たな宣教を展開していきました。重要なのは、私自身に特別な力が授けられることではないんです。互いを補い、互いをとりなす仲間が遣わされていることなんです。

 

私たちを豊かに送り出す神様に、栄光と賛美と誉がありますように。アーメン。

 

とりなし

共に、神様から与えられたとりなしの務めを果たしましょう。本日は『信徒の友』の「日毎の糧」で紹介されている(東京都台東区の下谷教会)のために、弱っている人のために、困っている人のために、苦しんでいる人のために、祈りを合わせましょう。

 

◆神様、あなたは祈りに応えて恵みを与えてくださいます。どうか今、私たちがささげる祈りをお聞きください。

◆東京都台東区の下谷教会のために祈ります。会衆一人一人の健康が守られて、信仰生活が豊かに送れますように。コロナ禍で弱ってしまった教会の体力が回復されますように。新しく礼拝へ来られる人との出会いが導かれますように。

◆弱っている人のために祈ります。様々な病気や怪我、心身の衰えによって、不安や恐れが増し、自信を失っている人たちに、あなたの癒しがありますように。それぞれを強めてくれる気づきと助けがもたらされますように。

◆困っている人のために祈ります。人間関係や周囲の環境、突然の出来事によって、どうしたらいいか分からなくなっている人たちに、あなたの慰めがありますように。それぞれを支えてくれる仲間と知識がもたらされますように。

◆苦しんでいる人のために祈ります。人に頼ることが苦手な人、人を信じることが困難な人、人と関わることが厳しい人に、あなたの慈しみがありますように。それぞれの解決に必要な信頼と安心がもたらされますように。

◆今も生きておられ、私たちをとりなしてくださる方、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

讃美歌

マスクをしたままで、オンライン賛美歌19番「悲しみながら立ち去るとき」(©️柳本和良)を歌います。

 

 

主の祈り

共に、イエス様が弟子たちに教えられた最も基本的な祈りを祈りましょう。讃美歌21の93-5Aです。主の祈り。

 

主の祈り93-5A

天にまします我らの父よ。
願わくは御名をあがめさせたまえ。
御国を来たらせたまえ。
みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧を今日も与えたまえ。
我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。
我らを試みにあわせず、悪より救いだしたまえ。
国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり。
アーメン。


日本聖公会/ローマ・カトリック教会共通口語訳

天におられるわたしたちの父よ、み名が聖とされますように。
み国が来ますように。
みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。
わたしたちの日ごとの糧を、今日もお与えください。
わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。
わたしたちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください。
国と力と栄光は、永遠にあなたのものです。アーメン。

 

報 告

本日も、教会に集まって、また配信を通して、聖書研究祈祷会にご参加くださり、ありがとうございます。先週の聖書研究には、教会に集まった4名、同時に視聴された5名、計9名が参加されました。後から動画を見て祈りを合わせてくださった方も感謝致します。

 

配信終了後、時間のある方は、14:30まで、聖研の質問や感想、キリスト教について気になっていることを自由に聞ける第二部「分かち合い」の時を開きます。人前でお祈りするのを遠慮したい方は、飛ばしてもらうこともできます。よかったらぜひご参加ください。

 

それではまた、日曜日まで、皆さん一人一人に神様の平和がありますように。