ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『あなたはあの人を正せますか?』 ルカによる福音書7:36〜50、ガラテヤの信徒への手紙6:1〜10

礼拝メッセージ 2019年7月27日

 

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【仲間を正せるか?】

 「あなたはあの人を正せますか?」と聞いて、皆さんは誰を思い浮かべました? もちろん、今ここで言う必要はありません。

 

 万が一、すぐ近くに座っている人だったら、礼拝中気まずい一時間を過ごすことになりますから。ある人は、自分の家族、友人後輩、あるいは、上司や教師、恩師に当たる人の名前を思い浮かべたかもしれません。

 

 自分が「正す」なんてちょっと無理……という人たち。一人一人、違う人の顔が浮かんだでしょう。あの人は間違っている、正さないと大変なことになる。というか、もう大変なことになっている! なんて場合も当然ある。

 

 姦淫、わいせつ、好色、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心*1……宣教者パウロの書いた手紙にも、様々な問題を抱えた人間模様が出てきます。教会という場所に似合わない単語が、教会で読まれる、教会へ当てた手紙に頻出する。なかなか皮肉な話ですよね。

 

 初代教会において最も問題になったのは、仲間内で起きた人間関係のトラブルでした。外からの攻撃や迫害より、仲違いやいじめ、ハラスメントといった、共同体の不和に関する記述の方が、圧倒的に多いんです。

 

 私たちの間でもそうですよ。部活における問題は、敵のチームから来る嫌がらせより、自分のチームで起きるいじめです。会社における問題は、取引先との関係より、上司や部下との関係です。教会における問題は、世の中の無理解より、身内で起きる諍いです。そう、味方であるはずの仲間こそ、私たちの頭を悩ます問題児。

 

 そんな中、パウロはこう勧めてきます。「兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、“霊”に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい」

 

 間違いを犯す仲間がいたら、優しく穏やかに正しなさい……なかなか無茶言ってくれるじゃありませんか! それができたらとっくにやっている! と言いたいところです。

 

 相手が、敵対している外の人間なら、「正す」という行為に一歩踏み出すことは、ある程度楽かもしれません。

 

 もし、優しく穏やかに間違いを指摘して、向こうに逆ギレされたところで、単に距離ができるだけですから。

 

 でも、身内の間違いを指摘したら、「それはダメだよ」と正したら、逆ギレされても、逃げ場がありません。かえって、コミュニティーの中で言い争いの種を作った「厄介な人」になっちゃいます。

 

 告白すると、それが怖くて、私は何度もパウロの勧告を無視してきました。だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、その人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせよ……「不注意にも」という言葉から、この文脈では「不意打ち」という要素が非常に際立ってきます*2。そう、過ちは不意に訪れる、罪は突然捕えてくる。

 

 私たちが最も対処しがたいのは、親しい人が、思いがけず罠にはまっていくときです。真面目で勤勉だったあの人が、マルチ商法にはまっていく。いつも冷静だったあの子が、恋で盲目になっていく。尊敬しているあの先生が、パワハラを重ねるようになる……あなたはあの人を正せますか? パウロの勧告は、あなたの心に届いてますか?

 

【不意打ちの罪】

 私はずっと、学生の頃から、差別を煽る団体や、暴力を支持する指導者には、ついていくまいと思ってました。もしも、誰かに従うよう勧められても、そういうところと関係を持つのは、絶対にすまいと思っていたんです。

 

 ところが、いざ自分のコミュニティーが「他国に対する攻撃を支持し、LGBTや他宗教に差別的な団体」と関わりがあると知ったとき、それに反対するのが難しくなりました。

 

 自分の親しい人たちが、大切な仲間が、その団体で「救われた」と話しているのを聞いて、批判するのが怖くなったんです。

 

 ある人々の命が軽んじられる、そんな発言をした指導者の団体に協力する。それは、キリスト者として間違っていると、確かに心の中で思っていました。

 

 しかも、そのコミュニティーは同じキリスト者のコミュニティー……反対の声を挙げなければ、愛と平和を教えたイエス様の道から、どんどん外れていくだろう……確かにそう分かっていました。

 

 しかも、同じ理由から、「ここと関係すべきじゃないかもしれない」という人が、私の目の前にいたんです。目の前にいたのに、私はその声に同意することも、一緒に止めることもできませんでした。

 

 自分の指摘によって、みんなの関係がギクシャクし、共同体に不和がもたらされることを、何より恐れてしまったんです。

 

 それは不意打ちの罪でした。パウロが記した「罪」という言葉も、文字通りには「脱線する」という意味があります*3

 

 私たちは不意に脱線します。正しい道から、キリストの指し示した道から、いつだって簡単に脱線します。きっかけは自分じゃなくても、脱線したことが分かったまま、どんどん外れていくならば、間違いなく私自身の罪となるでしょう。

 

 もしもあのとき、議論ある団体と関わっているのが、自分のコミュニティーでなかったら、別の共同体だったなら、私は抗議も反対もできたでしょう。

 

 「そこと関わるのは考え直すべきですよ」と……でも、自分の所属している共同体が正しい道から脱線すると、ただ道から外れていくのを眺めるだけの傍観者に成り果ててしまったんです。

 

 他の学校のいじめは批判できる、他の会社の不正は指摘できる、他の教会のパワハラは非難できる。でも、自分のクラス、自分の部署、自分の教会では言えなくなる。それが私たちの姿かもしれません。

 

 間違いを犯す仲間がいたら、優しく穏やかに正しなさい……そう言った直後、パウロが残している言葉も刺さります。

 

 「あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい。互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです」

 

 「互いに重荷を担いなさい」と聞いたとき、多くの人が、普通は相手から感謝される行為だと思うでしょう。だって、その人のために、重い荷物を背負うわけですから。

 

 しかし、ここで言う重荷とは、感謝される行為からほど遠いものです。間違いを正すという重荷。感謝どころか、怒り、不機嫌、関係の解消を招きかねない危険な行為……まさに「重荷」なんです、これを背負うことは……

 

 これを互いに担うことが、キリスト者同士の関係です。表面上は仲良くできれば、まあOKという形式的な関係じゃないんです。

 

【責めにくい人へ】

 最初に読んだ、ルカによる福音書には、そんな重荷を背負った、ある方の姿が出てきます。私たちの教師であり、友であり、兄弟である、救い主イエス・キリストです。

 

 イエス様は、あるファリサイ派の人が「一緒に食事をしてほしい」と願ったので、その家に入って食卓に着きます。

 

 ファリサイ派といえば、神様から与えられた掟を杓子定規に適用し、色んな人を裁いてしまう存在だった、イエス様の論敵です。聖書をよく読んでいる人は、今回も頭の固いファリサイ派をイエス様が批判する話だと思ったかもしれません。

 

 実際、彼らは食事の途中、ある「罪深い女」がイエス様に香油を塗るのを見て、さっそくイエス様につまずきます。

 

 「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」……この時代、客のいる家に他人が勝手に入ってくることは、社会的慣習として、一応許されることでした*4

 

 しかし、「罪深い女」と言われる女性は、おそらく娼婦であり*5、この場にふさわしい人とは思われませんでした。

 

 しかも、ファリサイ派の人から見て、汚れた者であるこの女性は、イエス様に直接触れて、自分の髪の毛で油を塗ります。接吻したり、触ったり、娼婦と思われる女性がそうするのを止めないイエス様は、いったい何を考えているんでしょう?

 

 もしもこの後、風俗で働いている女性が、教会のランチにやって来て、私に触り始めたら、皆さんも「何で止めないの?」と思うでしょう。それくらいつまずくことだったんです。(もちろん私の場合は止めなきゃいけません……)

 

 ただし、イエス様はこの女性が、心から自分の罪を赦されたいと思っていること、イエス様に助けを求めてやって来たことを、よく分かっていました。

 

 だから、反論を開始します。人を見た目で判断し、その人の涙を見ても、憐れみを覚えず、嫌悪に引きずられてしまう人たちへ、自らの間違いに気づかせます。

 

 ただし、イエス様が語りかけたのは、鼻から自分に反対しているファリサイ派の人ではありませんでした。なんと、身内のシモン・ペトロ、自分に従っている弟子に向かって言い始めたんです。

 

 「シモン、あなたに言いたいことがある」と……そう、実は「罪深い女」が家に入ってくるのを見て、イエス様に触るのを見て、「何でイエス様は止めないの?」と思ったのは、ファリサイ派の人だけではありませんでした。

 

 皆さんも分かるでしょう? 女性に触られるイエス様につまずいたのは、そこにいた弟子たちも同じだったんです。

 

 ただし、彼らはファリサイ派と違って、つまずきを態度にも出せません。だって、自分の先生ですから……それまずくないですか? 止めた方がよくないですか? と疑問にすべき当たり前のことを、彼らは一切口にせず、思っているようにも見せません。

 

 ここでイエス様に問いかけたら、間違いなくギクシャクする。共同体に不和がもたらされる。

 

 ところが、イエス様の方は、自らこのタブーに触れてきます。「この人を見なさい」とペトロに言います。あなたが嫌悪し、避けようと思っている罪深い女が、私に何をしてくれたかを見つめなさい。

 

 彼女は私の足を涙でぬらし、髪の毛で拭って綺麗にしてくれた。あなたは足を洗う水も出さなかったが。

 

 彼女は私の一番汚いところ、土と埃のついていた足に、接吻してやまなかった。あなたは私に、接吻の挨拶もしなかったが。

 

 彼女は私の一番臭うところ、汗をかいた足元に香油を垂らして塗ってくれた。あなたは頭にオリープ油も塗ろうとしなかったが……あなたが嫌悪するこの人は、この家で誰よりも私を大切にもてなした。あなたはそれを見ていたか?

 

 仲間に対して「こうしてくれなかった」「ああしてくれなかった」って、すごく我儘な言葉です。「何この人?」ってファリサイ派の人たちは思ったでしょう。自分の弟子に向かって、なんて我儘言うんだろう……と。

 

 だからこそ、見るべきものを見てなかった、自分に足りないものがあった弟子たちは、他からは非難されません。

 

 イエス様が、こういう正し方をされたから。弟子たちの罪を指摘するとき、自分自身も白い目で見られることを厭わなかったから……この後、弟子たちの一行に、多くの婦人が加わります。

 

 七つの悪霊に取り憑かれていたマグダラのマリア、悪名高いヘロデの家令クザの妻だったヨハナ、その他多くの女性たちが、イエス様の群れに迎えられます*6。弟子たちはもう、彼女らを避けませんでした。

 

 柔和な心で、正しい道に立ち返らせる。それは、皆さんが綺麗なままで、非難されないままで、相手を正すことではありません。時として、かえって自分が非難の対象になることをイエス様は見せました。

 

 弟子たちの心を刺しながら、それでいて、傷口を広げないように、自分も白い目で見られながら、正しい道へ立ち返らせた。そんな優しい方の言葉が、今も私たちに語りかけます。

 

【罪まで赦すこの人】

 今日は、皆さんにお願いがあります。ここは「神の家」と呼ばれる教会です。信仰によって、家族になった人たちが集められる居場所です。

 

 その私たちに対して、パウロはこう勧めています。「今、時のある間に、すべての人に対して、特に信仰によって家族になった人々に対して、善を行いましょう」

 

 彼はよく知っていました。信仰によってつながった相手こそ、道を踏み外したとき、指摘することが難しいと。

 

 ニュースに出てくるセクハラ加害者、いじめを隠蔽した学校の職員……彼らを批判することができても、信仰を同じくする人に、その疑いが出てきたとき、私たちは思わずためらいます。

 

 事を大きくしたくない、何事もなかったように過ごしたい。でも、そこで苦しんでる人、痛みを覚えている人に、我慢させ、沈黙させ、排除するようなことがあってはなりません。

 

 仲間同士、ギクシャクする不安があっても、穏やかに優しく正すことを、一緒に約束してほしいんです。

 

 万一、私が不注意にも何かの罪に陥ったなら、“霊”に導かれて生きているあなたがたは、私を柔和な心で正しい道に立ち帰らせてください。

 

 万一、教会員が不注意にも、何かの罪に陥ったなら、私と一緒に、柔和な心で、正しい道に立ち帰らせる、手助けをしてほしいんです。あなた自身も、誘惑されないように、互いに重荷を担いましょう。

*1:ガラテヤ5:19、20参照。

*2:ドナルド・ガスリ著、新免貢訳『ニューセンチュリー聖書注解 ガラテヤの信徒への手紙』日本基督教団出版局、2004年、241頁1〜2行参照。

*3:ドナルド・ガスリ著、新免貢訳『ニューセンチュリー聖書注解 ガラテヤの信徒への手紙』日本基督教団出版局、2004年、241頁6行参照。

*4:加山久夫『新共同訳 新約聖書注解I』日本基督教団出版局、2013年、186頁冗談21行〜22行参照。

*5:加山久夫『新共同訳 新約聖書注解I』日本基督教団出版局、2013年、186頁上段22〜24行参照。

*6:ルカ8:1〜3参照。