ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『捨て置かれた者』 マタイによる福音書4:18〜25

在宅礼拝 2021年1月17日


『捨て置かれた者』在宅礼拝 2021年1月17日

 

案 内

華陽教会では、感染拡大による岐阜県の医療提供体制の逼迫を受けて、会衆が集まる礼拝を休止し、配信等による在宅礼拝へ切り替えています。共に今、見えない教会に集められていることを覚え、互いのために祈りを合わせ、神の招きにあずかりましょう。(*前奏)

 

招 詞

彼がそれをわたしの前に開くと、表にも裏にも文字が記されていた。それは哀歌と、呻きと、嘆きの言葉であった。(エゼキエル書2:10)

 

讃美歌

旧讃美歌300番「みそらのかなたに」を歌います。54年版讃美歌をお持ちでない方は、そのままお聞きいただき、心で賛美を合わせましょう。

 

お祈り

共に祈りを合わせましょう。

 

◆古いものを新しくされる私たちの神様。今日もまた、あなたによって守られて、日曜日の礼拝を始めることができ、感謝致します。どうか今、自宅で、施設で、職場で、屋外で、あなたの言葉を受けようとしている人を祝福してください。

◆痛みを強さに変える私たちの神様。この一週間、打たれ、壊され、押しつぶされてきた人に、あなたは見えない力をもたらします。どうか今、それぞれが必要とする癒しと勇気とつながりを、あなたの手から与えてください。

◆怒りを慰めに変える私たちの神様。この一週間、偏見、無理解、理不尽と戦ってきた人に、あなたは正義と回復をもたらします。どうか今、それぞれが必要とする働きかけを、あなたの手から与えてください。

◆嘆きを喜びに変える私たちの神様。この一週間、夢も、希望も、期待も持てなかった人に、あなたは知恵と発見をもたらします。どうか今、それぞれが必要とする気づきと助けを、あなたの手から与えてください。

◆全ての者を満たされる、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

聖 書

聖書の言葉を聞きましょう。マタイによる福音書4:18〜25(新共同訳より抜粋)

*当ブログ全体における聖書の引用を適切な範囲内で行うため、後ほど聖書箇所のみ記載し、本文をカットすることがあります。後からご覧になる方は、該当する聖書箇所を日本聖書協会の「聖書本文検索」か、手元に新共同訳聖書がある方はそちらからお読みください。

www.bible.or.jp

 

交読文

共に、詩編の言葉を読み交わしましょう。詩編40:6〜12

(*起立のジェスチャー)

讃美歌21をお持ちの方は、後ろの方をお開きください。配信では私が全て読みますが、皆さんは一段下がったところと太字のところをお読みください。(新共同訳交読詩編より)

 

 

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vhesseによるPixabayからの画像

メッセージ

職業と家族を捨てる

神に仕え、イエス・キリストの弟子になる……そのためには、何かを捨てて従わなければならない。自分の何かを犠牲にして、覚悟を示して、神様に仕えなければならない。そうじゃないと、神の民、神の子イエスの弟子だとは、到底認めてもらえない。本物の信仰、本物の献身(神に自分の生涯をささげること)とはみなされない。

 

そう感じている人って、たぶん多いと思うんです。たとえば、みんなの前で公に信仰を告白し、洗礼(バプテスマ)を受けるとき、キリスト教に入信するとき、何かしら、今までの自分とは違うことを示さなければならない、つまらない生き方を捨てて、新しい自分になったことを示さなければならない……そういうプレッシャーを覚えやすいでしょう。

 

もし将来、牧師や神父を目指すなら、安定した生活も、様々なキャリアもかなぐり捨てて、何もかも神様にささげる覚悟が求められる。それができないなら、神の民、神の祭司、キリストの弟子と呼ばれる資格はないだろう……程度の差はあれ、たぶん似たようなイメージを持っている方がほとんどですよね?

 

実際、ガリラヤ湖のほとりで、最初にイエス様の弟子となった4人も、大切なものをかなぐり捨てて、イエス様に従いました。漁師をしていたペトロとアンデレの兄弟は、仕事の途中であったにもかかわらず、「わたしについてきなさい」と言うイエス様に、すぐ網を捨てて従いました。

 

同様に、その後声をかけられたヤコブとヨハネの兄弟も、イエス様に呼ばれるとすぐ、舟を残して従いました。漁師が網を捨て、舟を残して置いていくという行為は、そう簡単にできるものではありません。サラリーマンがパソコンを捨て、車を置いて会社を空けるようなもの……即刻、仕事を失いますよね?

 

さらに、彼らは家族に黙ってイエス様に従います。ペトロには同居している姑がいたので、妻が存在したことも分かっていますが、彼女たちは何も相談されません。ヤコブとヨハネも、一緒に網の手入れをしていた父ゼベダイに、何も言わずに出て行きます。仕事を捨てるばかりか、大切な家族まで捨て置いて、イエス様に従った。

 

神に仕え、キリストに従うとは、職を捨て、家族を捨てる覚悟がいる……そういうことなんでしょうか? 実際、洗礼を受けるとき、家族の反対を押し切って教会に来た人もいるでしょう。過去の交友関係や、一部の人付き合いを断ち切るように言われた人もいるでしょう。中には、趣味を捨て、仕事を変えるよう迫られてきた人もいます。

 

それができなきゃ「キリスト者」「献身者」とは認められない! あなたに捨てる覚悟はあるか?……こんな強迫的な問いかけに、今も悩まされている人がいます。何かを切り捨てたゆえに、あるいは切り捨てられないゆえに、自分の生き方、自分の信仰はこれでいいのか、揺れ動いている人がいます。

 

私たちが気になるのは、ある人が神に仕え、キリストに従おうとする際、その場に取り残され、捨て置かれる者たちです。何も言わずに仕事を捨てて、イエス様についていった夫の妻はどうなったのか? 突然、自分を置いて、家を出ていった息子たちの父親はどうなったのか? 

 

やっぱり、かわいそうですよね? 気がついたら勝手に仕事を辞めて、よく知らないセミナーの手伝いに夫が出かけるようになる。気がついたら息子が大学を辞め、家にも帰って来なくなり、謎の男に従っている。こんなの不安に決まっています。破壊的カルトが、今までの交友関係を断ち切らせ、家族とも縁を切らせて、自分たちの支配下に置いているような、そんなヤバい光景を思い出さずにはいられません。

 

けれども、イエス様に従った弟子たちの家族は、本当に捨てられたんでしょうか? 弟子たちが置いていった網や舟は、残されたままだったんでしょうか? 度々、「大切なものを捨てる覚悟」と「即座の決断」が「神への服従」を示すんだ……と強調されてきたエピソードは、本当にそこを強調していて、いいんでしょうか?

 

実は、家族を置いてイエス様に従った弟子たちは、決して、家族と縁を切らされたわけではありませんでした。むしろ、イエス様の方から度々彼らの家へ訪れて、家族と出会っていたんです。先ほども言ったように、ペトロは妻の母親と同居していましたが、彼女は体が悪く、熱を出して寝込んでいました。

 

しかし、イエス様はペトロの家に訪れると、彼女の手に触れ、熱を去らせ、みんなをもてなせるほど元気にします。また、父親を舟に残して出ていったヤコブとヨハネも、家族と縁を切ったようではありませんでした。20章には、2人の母親がイエス様と会話するシーンが出てきます。彼女がイエス様のことを信頼している様子も見られます。

 

どうやら、「家族を捨ててイエス様についていく」ということは、単に家族との関係を切るということではないようです。むしろ、弟子たちとその家族は、より新しい関係に変わっていきます。「イエス様に従う」ということは、今までの関係を断ち切ることではなく、古い関係を捨て、新しい関係にされることを信じてついていくということなんです。

 

また、弟子たちが捨てた網と舟は、その後も何度か登場します。それは、イエス様が、舟の上で嵐をしずめた日であったり、湖の上を歩いた日であったり、弟子たちのために岸辺で食事を用意して待っていた日のことでした。かつて、弟子たちが漁に使っていた舟は単なる仕事道具から、神の業が現れる場所へと変えられます。

 

どうやら、「仕事を捨ててイエス様についていく」ということは、単に今までやってきたことを投げ捨てるということではないようです。むしろ、弟子たちの技術や道具は、より新しい用いられ方をしていきます。「イエス様に従う」ということは、今までの経験をガラクタにすることではなく、その経験が新しい形で生かされると、信じてついていくということなんです。

 

さらに私たちは、イエス様に従う者たちが、世間から、社会から「捨て置かれた者」たちと出会い、彼らと一緒にイエス様についていく者となった出来事を目の当たりにします。それは、イエス様が4人の漁師を弟子にしてすぐ、諸会堂で教え、病人を癒し、シリア中にその評判が広がったときのことです。

 

噂を聞いた人々は、色々な病気や苦しみに悩む者、悪霊に取り憑かれた者、てんかんの者、中風の者、あらゆる病人を連れてきて、イエス様に癒してもらいました。連れてこられた人たちはみな、罪ゆえに罰を受けた者、汚れた者として蔑まれ、社会から取り残された人たちでした。

 

けれども、イエス様は4人の弟子たちと共に、彼らと出会い、彼らに触れて、「神の国が近づいた」という良い知らせを分かち合います。「イエス様に従う」ということは、今まで自分が、周りと一緒になって捨て置いてきた人たちと、新しい関係が結ばれるということでもあるんです。

 

もしかすると、「何かを捨てて」「何かを置いてきて」従った方が、ずっと楽なのかもしれません。突然、姑が寝込んでいる家にイエス様を連れてきたペトロが、家族からどう思われたのか? 突然、仕事を放り出してイエス様についていった兄弟が、両親をどうやって納得させたのか? いっそ縁を切り、捨て置いた方が悩まずに済んだかもしれない。

 

けれど、イエス様は自分についてくる者の家へ、容赦なく入っていって、私たちの関係を断ち切るどころか新しくします。私たちが捨ててきた網や舟を拾わせて、新しい用い方をします。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」……漁師の生き方を捨てる者たちに、なお漁師であることを求めたように。

 

厄介な方と出会いました。この方が呼ぶと、なぜか私たちはすぐ従い始めますが、その後びっくりするくらい揺れ動き、右往左往し、葛藤します。嵐が吹き荒れ、正体不明の人影に気づき、船底で怯える私たちに、イエス様は今日も呼びかけ、語りかけます。「わたしだ。恐れることはない」……わたしは、あなたを捨て置かない。さあ、あなたも呼ばれました。顔をあげて、この方についていきましょう。

 

讃美歌

讃美歌21の512番「主よ、献げます」を歌います。讃美歌21をお持ちでない方は、そのままお聞きいただき、心で賛美を合わせましょう。

 

使徒信条

教会の信仰を告白しましょう。使徒信条(讃美歌21の93-4Aです)。

 

我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがへり、天に昇り、全能の父なる神の右に坐したまへり、かしこより来りて、生ける者と死ねる者とを審きたまはん。我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交はり、罪の赦し、身体のよみがへり、永遠の生命を信ず。アーメン。

 

とりなし

神様から委ねられた、とりなしの務めを果たしましょう。

 

◆神様、あなたは祈りに応えて恵みを与えてくださいます。どうか今、わたしたちがささげる祈りをお聞きください。

◆世界の国民と政府のために祈ります。主よ、政治に携わる人々に、知恵と勇気と良心を与え、全ての場所に、自由と平和をもたらしてください。

◆世界に広がる全ての教会のために祈ります。主よ、教会を聖霊によって力づけ、その信仰を新たにし、私たちの一致と結びつきを強めてください。

◆教会員のために祈ります。主よ、私たち全てを、御言葉によって豊かに養い、あなたの愛と平和を伝える者として送り出してください。

◆一緒に礼拝できなかった人のために祈ります。主よ、病気や衰え、仕事や様々な事情のために、一緒に礼拝できない人たちを、あなたが癒し回復してください。

◆身近な人のために祈ります。主よ、私たちの家族や友人、仲間たちが、あなたの愛を知れますように、私自身を用いてください。

◆幼稚園、教会学校、地域の子どもたちを覚えて祈ります。主よ、子どもたちの健康と安全を守り、疲れを癒し、安らぎと成長をもたらしてください。

◆苦しんでいる人のために祈ります。主よ、病気や怪我、悩みや苦しみを抱える人たちに、あなたからの平安と、必要な助けを与えてください。

◆今も生きておられ、とりなしてくださる方、主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

主の祈り

共に、イエス様が教えられた最も基本的な祈り、『主の祈り』を祈りましょう。讃美歌21の93-5Aです。

 

天にまします我らの父よ。

願わくは御名をあがめさせたまえ。

御国を来たらせたまえ。

みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。

我らの日用の糧を今日も与えたまえ。

我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。

我らを試みにあわせず、悪より救いだしたまえ。

国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり。

アーメン。

 

献 金

感謝の献げ物として献金をします。礼拝のライブ配信に参加されている方は、また後日、教会に来られたときにおささげください。

 

讃美歌

オンライン讃美歌「イェスは今日あなたを見つけ出して」(©️柳本和良)を歌います。オンライン讃美歌は、日本基督教団鈴蘭台教会のホームページか、今日の礼拝原稿を公開しているブログから、楽譜を見ることができます。(*楽譜の掲載は許可をいただいています)

 

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祝 福

共に、神様の祝福を受けましょう。

 

平和のうちに、この世へと出て行きなさい。主なる神に仕え、隣人を愛し、主なる神を愛し、隣人に仕えなさい。

 

見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守る。わたしは決して見捨てない。(創世記28:15より)

 

報 告

本日も、配信を通して在宅礼拝にご参加くださり、ありがとうございます。先週の在宅礼拝は、私と責任役員の3名、同時に視聴されていた22名、計25名の出席でした。後から配信や原稿を見て、祈りを合わせてくださった方も感謝します。

 

来週の日曜日も、配信等による在宅礼拝を行います。水曜日も、このチャンネルから在宅聖研を行っています。他に、ビデオ通話による小礼拝を希望される方、牧師と話がしたい方は、教会の電話番号か、ホームページの問い合わせフォームからご相談ください。

 

また日曜日まで、皆さん一人一人に神様の平和がありますように。