ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『感謝をすれば上手くいく?』 コロサイの信徒への手紙3:12〜17

礼拝メッセージ 2019年9月29日

 

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【憐れまなきゃいけない?】

 「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身につけなさい」

 

 ふむふむ、なるほど……確かに私は、神様に愛されて教会へ導かれた人間だから、聖書に書いてあるとおり、憐れみや謙遜、寛容な心を身につけないとな……そんなふうに、皆さんは素直に感じるでしょうか?

 

 それとも私みたいに、「そうは言っても……」と頭を抱えてしまうでしょうか? 聖書には、厳しく難しいと感じる教えもあれば、なるほど確かにと思わされる言葉もたくさん出てきます。

 

 できれば素直に受けとめたい、そのとおりに行動したいアドバイス……特に、「愛」がテーマの教えは、私たちの心にスッと染み込みます。

 

 「愛は、すべてを完成させるきずなです」……美しい響きですよね? 愛と絆、たいていの人が好きな言葉です。地震や台風など災害の後で、盛んに言われるようになったのもこの言葉。だけど、愛とか絆って、そんなに簡単で綺麗な話じゃありません。

 

 今日は岐阜地区の合同礼拝です。この礼拝が終わったら、一緒に行ける人たちで、東濃にある付知教会まで合同礼拝に出かけます。

 

 岐阜県に8つしかない日本基督教団の教会が、2年に一度集まって、一緒に礼拝の時を持つ。互いの絆、互いの愛を思い出せる、非常に大切な時間です。

 

 でも正直、午後から2時間かけて向こうへ行くのはかなりきつい……礼拝に1時間かかるとしたら、終わって帰ってくるのはもう夜です。

 

 たぶん私も、昨日東京から帰ってきたばかりなので、一日が終わる頃にはヘトヘトになっているでしょう。いくら同じ地区で久しぶりに顔を合わせる人たちのためであっても、なかなか喜んでは行けません。

 

 私たちにとっては、これが2年に1度の話ですが、付知をはじめとする東濃の3教会は、一人の牧師が兼務しているので、月に何度かの話です。1〜2時間かかる隣の教会へ礼拝に行ったり、3つの教会の合同礼拝を定期的に行っている。

 

 「礼拝の人数が増えて嬉しいな!」と素直に思うことばかりではないでしょう。私たちが、「久しぶりに遠い教会の人たちと会えるの楽しみだな!」と思うばかりではないように……「でも時間がな……」「でも場所がな……」と。

 

 同じ地区の教会が、継続的に礼拝を守れるようにする……そのために、慣れ親しんだやり方とは違う形に変わっていく。ある教会は、プロジェクターをつなげて画面越しに礼拝する。ある教会は、月に何回か牧師ではなく信徒の証で礼拝する。

 

 慣れないこと、初めてのことに戸惑いながら、落ち着かない礼拝になるかもしれません。岐阜地区の絆、教会同士の愛の交わりとは言っても、なかなか寛容になれないことも出てくるでしょう。

 

 なぜ私たちの教会が、他の教会のために、自分たちの礼拝を犠牲にしなければならないのか、わざわざ変えなければならないのかと……ただ、同じ地区の教会をみんなで一緒に支えなければ! という思いは、たいていの人が持っています。

 

 特に、田瀬、付知、坂下の教会は、3つが一緒になって、ようやく牧師が一人呼べる……そうやって一生懸命牧会しているところです。

 

 そういう教会のために頑張ろう。何とか協力していこう……でも、いつかは3教会が4教会になるかもしれません。自分のところだけで牧師を呼ぶのが難しい教会、岐阜地区でも増えていくでしょう。ここだって5年後、10年後は分かりません。

 

 毎週自分の教会で、普通に礼拝へ参加できる……そんな現状は、長くは続かないかもしれません。他の教会のために、牧師が交互に説教奉仕へ行ってしまう。そのために、朝からの礼拝が、午後からにズラされるかもしれない。

 

 場合によっては、自分の教会と隣の教会へ、交互に行かなければならない日々がやってくる。寛容な心で、それが許せるか?

 

 いやいや、どうして私たちが他の教会のために、礼拝の時間をズラさなきゃいけないのか? わざわざ自宅から遠い方の教会へ足を運ばなければならないのか? あっちの信徒がこっちへ来ればいいじゃないか? こっちに合わせてもらえばいいじゃないか?

 

 憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身につけて生活するって、教会同士に限定しても難しい……。

 

【憐れみにくい相手なら?】

 しかも、これが「憐れみにくい相手」だったらどうでしょう? 自分たちよりも立派な会堂があるところ、地区で色々やりあったところ、かつて自分がそこから出てきたところ……

 

 あそこのために、私たちの礼拝を今までと変えなければならない……責めるべきところがあるのに、憐れみをもって寛容に助け合わなければならない……愛と絆を育まなければならない……

 

 似たような状況に立たされた家族の話が、旧約聖書に出てきます。今日はあまりに長かったので読みませんでしたが、創世記37章2節から28節の物語……そう、イスラエルの12部族となる、ヤコブの息子たちの話です。

 

 先に生まれたどの息子よりも、末っ子だからという理由で、ひいきにされていたヨセフ……彼は、父親から最も可愛がられ、長男でさえもらえなかった、裾の長い晴れ着を受け取ります。

 

 当然、兄たちは嫉妬し、父の愛情を独り占めするヨセフのことを妬みます。そこで大人しくしていたらまだよかったのに、ヨセフは兄たちの行動をヤコブに告げ口しちゃうんです。さらに彼は、兄弟を苛立たせる言動を繰り返します。

 

 「聞いてください。わたしはこんな夢を見ました。畑でわたしたちが束を結わえていると、いきなりわたしの束が起き上がり、まっすぐに立ったのです。すると、兄さんたちの束が周りに集まって来て、わたしの束にひれ伏しました」

 

 ようするに、自分が兄弟の中で一番になるという夢を見た……という話です。本当にそんな夢を見たとしても、話せばマウントを取られた兄たちに、腹を立てられるのは分かりきっています。

 

 実際、彼らは怒ります。ところがヨセフは、この後も懲りずに別の話をするんです。「わたしはまた夢を見ました。太陽と月と11の星がわたしにひれ伏しているのです」

 

 これにはさすがに、父親のヤコブも叱ります。「一体どういうことだ、お前が見たその夢は、わたしもお母さんも兄さんたちも、お前の前に行って、地面にひれ伏すというのか」……

 

 ヨセフは、自分の見た夢の意味を分かっていなかったわけじゃありません。続きを読んだら分かるように、彼は夢の意味を理解するのも得意でした。彼は、その夢が人を苛立たせる内容だと分かった上で、わざわざ話してしまうんです。

 

 当然、兄たちはどんどん妬みと憎しみを募らせて、とうとうある日、ヨセフを穴に放り込み、エジプトの商隊に売ってしまいます。兄弟の絆は、家族の愛は、保つことができません。

 

 もちろん、ヨセフは兄弟の中で最も小さく弱い者です。憐れみの心、慈愛の心で接していくべき相手です。責めるべきことがあったとしても、寛容な心でそれを赦し、兄弟の絆を保たなければなりません。

 

 けれども、それができなかった兄たちの気持ち、私たちは痛いほど知るときがあるでしょう。ここまで言われたら、憐れみの心だって失せてしまう。こんな態度を取られたら、寛容な心は保てない。

 

 それでも、憐れまなきゃいけないのか? 赦し合わなきゃいけないのか? 愛さなければいけないのか?……家族でも、教会でも、地区でも、教区でも、絆が切れそうな場面は、何度も、何度も出てきます。

 

【どうして感謝しろと?】

 ひたすら忍耐が課せられる現実の中で、後から読まれたコロサイの信徒への手紙、ここでは、こんな言葉を語ってきます。

 

 「いつも感謝していなさい」「知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい」「何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい」

 

 感謝、感謝、感謝の嵐……いやいや、憐れみ、慈愛、謙遜、柔和、寛容に加えて、「絶えず感謝しろ」とまで言われたら、さすがに私たちもヘトヘトです。

 

 責めるべき相手がいるときに、自分を抑えているときに、感謝なんてできますか? コロサイの信徒への手紙が書かれたのは、ちょうどキリスト教会に、様々な怪しい教えが侵食しているときでした*1

 

 偏った教えに染まる信徒たち。それに抵抗しつつ、諭しつつ、寛容に接しようとする。でも、「分かってないのはあんたの方だ」と蔑まれ、非難され、どんどん心にどす黒いものが溜まっていく。

 

 こんなんじゃダメだ。憐れみと慈愛を持って接しなければならないのに、仲間のことが憎くて、憎くて仕方ない……そんなときに言われた言葉。

 

 「いつも感謝していなさい」……そうか、私には感謝の心が足りなかったのか! だから上手くいかなかったのか。こんな状況でも感謝して顔をあげていれば、きっと寛容な心も取り戻せるし、あの人との関係も回復する!……そんなふうに思いますかね?

 

 素直にそう思った方が良いのかもしれません。でも、正直に告白します。私はそんなに素直じゃありません……

 

 「感謝をすれば上手くいく」……そんな教えが、あらゆるところで語られるようになりました。

 

 キリスト教でなくても、ニューエイジ、疑似科学、破壊的カルトの類でも語られます。非常に便利な言葉です。変に宗教臭くないし、誰もが納得したくなる、誰もが受け入れやすい言葉です。

 

 だけど、「感謝」って上手くいくためにするものなんでしょうか? 世渡り上手になるために、自分に幸運を呼ぶために、「感謝」って利用するものなんでしょうか? 上手くいってない人たちは、「感謝」ができてないんでしょうか?

 

 不運や不吉を祓うため、お守りのように「感謝の心」を持っている、恐れや不安に駆られて「感謝する」……それって、頼ろうとしているのは神様じゃなくて、「感謝」というやり方を身につけた、自分自身じゃないですか?

 

【キリストの体にされた私】

 コロサイの信徒への手紙には、「父である神に感謝しなさい」と繰り返し、繰り返し出てきます。この方は、あなたがたを選び、愛し、赦してくださった。そのことを思い出して感謝しなさい。そしてあなたも、赦し、愛し、教えなさい……と。

 

 そう、手紙の著者は「救われるために感謝せよ」と言っているのではありません。「あなたはもう赦されている、救われているから、神様に感謝するんだ」と言うんです。

 

 先ほど触れた、ヤコブの息子たちの話……兄たちに売り飛ばされたヨセフと彼らとの関係は、もはや回復が見込めません。見込めるはずがありません。

 

 だって、11人の兄弟が、末っ子の弟を奴隷にして売り渡したんです。将来仲直りする図なんて、ありえないでしょう?

 

 ヨセフだって、売られたときの年齢は、もう17歳を超えている。しっかりと自分で判断ができるとき。兄たちの行動は赦されるものではありませんが、人を苛立たせ、謙虚になることができなかったヨセフ自身の言動も、非がないわけではありません。

 

 彼に人を思いやる気持ちがあれば、もうちょっと同情できるのに……そう思った人もいるでしょう。

 

 そう、ヨセフとヨセフの兄弟たちは、もともと綺麗な心とは言えないタイプの人たちです。深い同情を誘えるだけの、謙遜や柔和を身につけた人ではありません。

 

 どうしようもない家族です。どうしようもない家族ですが、神様はこの家族を回復させると約束します。父、母、11人の兄弟と、仲違いしたヨセフが再会する。再会して、ひれ伏して、再び関係が築かれると……想像できなかった和解が、数十年後に実現します。

 

 あのときどうしようもないことを言った自分が、赦しと和解を与えられた。あのときどうしようもないことをした自分に、再び絆がもたらされた……

 

 ヤコブの息子たちをはじめとして、神様は全ての人に、憐れみと慈愛をもって回復の道を与えます。私たちを寛容に導き、もう既に、救いの計画に入れている。

 

 岐阜地区の教会同士、私たちはどうしようもないことをしでかしたことが、これまでもあったかもしれません。これからもやってしまうかもしれません。寛容になれない、絆を保てないときが度々出てくるかもしれません。

 

 仲直りしたいとさえ、思えない日がやって来る……だけど、その私たちに、神様は、既に回復の用意をされている。

 

 だから、主に感謝しなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。愛は、すべてを完成させる絆です。

*1:永田竹司「コロサイの信徒への手紙」『新共同訳 新約聖書注解』日本基督教団出版局、2008年、567頁下段20行〜568頁6行、19行〜25行参照。