ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

岐阜市の華陽教会にいる牧師個人のブログ

『死なずにすむなら』 創世記3:1〜19

礼拝メッセージ 2019年11月3日

 

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【どうして死ぬの?】

 「死なずにすむなら」……誰もが一度は考えたことがあると思います。自分自身の死を恐れるとき、愛する人の命が尽きようとしているとき、「もっと生きられたら」「死が訪れなかったら」と、私たちは繰り返し何度も願います。

 

 どうして人は死ななければならないのだろう?……こんな問いを持つこと自体、愚かなことかもしれません。考えたって仕方がない。

 

 鳥も獣も魚も皆、いつかは必ず死んでいく。それが自然の法則だと理解し、私たちも死を受け入れなければならない。神様は、世界をそういうふうに造ったのだから。

 

 けれども、聖書を読んでいると、神様が「死」と対立するもの、「死」を滅ぼすものであることが、色んな箇所に出てきます。

 

 私たちが死ぬように造ったのは神様なのに、その神様が死を打ち破り、私たちに永遠の命を与えようと、この世に独り子を遣わされる……それが、新約聖書に記されたイエス・キリストの話です。

 

 でも、ちょっと不思議ですよね? だったら最初から、人間が死なないように、永遠に生きられるように創造してくれたらよかったのに。そしたら、誠実だったあの人や、仲が良かったあの人と、今も一緒に過ごせたのに……どうして神様は、死が訪れるように私たちを造ったんでしょう?

 

 この厄介な問題について、ある人はこんなふうに答えます。神様は最初、「御自分にかたどって人を創造された」「神にかたどって創造された」……

 

 人類はもともと、神にかたどられた「像」を持つ、死に襲われることのない存在だった。「神の似姿」を持つ存在だった。けれども、人は自ら罪を犯し、堕落によって「神の似姿」を損なわせてしまった。

 

 本来なら神と同じところで生きられた人間は、こうして死ぬものとなってしまった。だから、人が死ななければならないのは、神様がそう造ったわけではなく、人間が自ら招いた結果である……いわゆる『原罪』の教えです。

 

 一度、「神の似姿」を破損させてしまった人間は、この世に悪を満映させ、それ以降、生まれてきた瞬間から、罪を犯さずにはいられない存在になってしまった。

 

 最初の人間が犯した罪によって、その子孫も皆「死」という運命が定められる……甚だ迷惑な話ですよね。

 

 大気汚染や放射能汚染の原因を作って、その被害と影響を、子々孫々までもたらしてしまう近代の私たちみたいです。

 

 確かに、人間の「死」と、人間が犯した「罪」は密接に結びついている。私たちが死ぬのは自業自得で、もはや受け入れるほかはない。これは、人が自ら神の呪いを招いてしまった結果だから……。

 

【神様が脅してくる?】

 キリスト教の礼拝に出ると、こんなふうに何度も「罪」という言葉を聞かされます。あなたも罪人、わたしも罪人。だから悔い改めて、神様に立ち返りましょう。死を避けることはできないけれど、死んだあと天国に入れてもらえるように……。

 

 さあ、今のうちに信じましょう! あなたが信じれば、亡くなったあの人も天国に入れてもらえるかもしれません!

 

 さすがに、ここまであからさまに言う教会はだいぶ減ったと思いますが、でも、似たようなことを私たちは言ってきました。

 

 人は誰しも死を恐れる。死んだあと、どうなるかが怖い。罪を犯した人間に対し、神様は容赦ない方だから……今反省しなければ、今悔い改めなければ、天国の前で締め出されてしまうかもしれない。

 

 もしかしたら、既に亡くなったあの人は、信仰のなかったあの人は、もう神様から締め出されてしまったんだろうか? 私が死んで、天国に行っても会えないんだろうか?

 

 正直な話、死んだことのない私には、よく分かりません。神様は閻魔大王のように、罪によっては容赦なく「地獄行き」「滅びの道」へと落とすんでしょうか?

 

 この世で肉体が滅ぶ「死」と、あの世で魂が滅ぼされる「死」……これらを二重に恐れなければならないって、なかなかしんどい人生です。

 

 神様は、私たちの「死なずにすむなら」という思いを駆り立て、今日も脅してくるんでしょうか? 恐怖によって、私たちに信仰を持たせようとするんでしょうか?

 

 私は「違う」と思っています。神様が私たちに望むのは、死を恐れ、地獄を恐れて、自分に従うことじゃない。むしろ、その恐れから解放されて、新しく生きていくことだ……

 

 今日は、創世記3章に記された出来事から、もう一度、神様がどんな方であるのか、振り返ろうと思うんです。

 

【生きているとは?】

 先ほど読んだ、蛇の誘惑の物語……まさに、『原罪』の教理が生まれた、人間に「死」がもたらされた理由を描いているという箇所です。世界が創造されて間もない頃、神様はエデンに園を設け、人間とある約束をしました。

 

 「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる」「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、(園の中央にある)善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」

 

 ちなみにこの木は、いかにもおいしそうで目を引き付け、食べたら賢くなりそうな見た目だったと言われています。

 

 それを園の一番真ん中、一番目立つところにおいて、「これだけは食べちゃダメ!」と約束したわけです。

 

 ある部屋に、たくさんお菓子を用意しといて、一番目立つ場所に、一番美味しそうなケーキを置いて、親が子どもに「他は食べてもいいけど、これだけは食べちゃダメ」って言うのに似ています。けっこう意地が悪いですよね。

 

 「何で食べたらいけないの?」という疑問には、「食べると必ず死んでしまう」という答えが返される。この木の実はおいしそうだけど、実は毒が入っている。食べると、あなたに「死」が入り込んでしまう……

 

 そう言われているように感じるかもしれません。しかし、原文のニュアンスはもっと衝撃的です。

 

 「食べると必ず死刑に処せられる!」……ようするに「食べたら死刑だ、分かっているな?」という言葉です。

 

 食べても毒がまわって死ぬわけじゃないけれど、約束を破った罰として、必ず死刑に処せられる。これが、神様と人間との間に交わされた、最初の約束ごとでした。

 

 いきなり重たい契約を交わしますよね。「食べたら私が殺すからな」「約束守れよ」って言うんです。「あなたは私に従いなさい」と……いやいや、自分に従ってほしいなら、最初からそう造ればよかったじゃないですか?

 

 絶対に逆らうことのないように、自分の思いどおりに動くように、プログラムすればいいでしょう?

 

 私たちが機械やロボットを作るときだって、わざわざ自分に逆らえるようには作りません。こっちの言うとおりに動いてもらわないと困りますから。

 

 でも神様は、人間を思いどおりに操作できる、ロボットみたいにはしたくなかったようなんです。むしろ、自分の意志を持って、自分で選択して生きることを求めたらしい……。

 

 神様は、人間が自らの意志を持たないで、誰かに操られて過ごすことを「生きている」とは考えなかった。自分で考え、自分で選択して約束を守る、人格的な関係を築くことこそ、「命あるもの」の姿と考えた。

 

 実は、人間に厄介な誘惑をもたらしたように見える木は「あなたは自分の意志で考え、自分で選択して生きている」ということを示す「生」の象徴でもあったんです。

 

【死とは何だろう?】

 逆に言えば、これをしなくなったとき……自分で考えるのをやめ、誰かの言いなりになった状態こそ、人の死と言えるのかもしれません。

 

 事実、この物語は、最初は自分で考えて、神様との約束を守ろうとしていた人間が、ついには自分で考えるのをやめ、他人の言いなりになってしまう様子が描かれています。

 

 ある日、エバのもとに現れた蛇が、彼女にこんなことを言ってきます。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか?」

 

 この後に続く状況から考えて、たぶん、蛇は園の中央でエバに声をかけたんでしょう。目の前にいかにもおいしそうな木の実があるのに、それを取って食べない彼女に「どうして?」と思ったのかもしれません。

 

 するとエバは、蛇にこう答えます。「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました」

 

 これ実際には、そんなこと言ってないんです。神様が人間に命じたのは、あくまで「この果実を食べてはいけない」ということであって、「触れてもいけない」とまでは言っていません。

 

 エバがこんなふうに言ったのは、自分がこの木に触れてしまったら、食べたい衝動を抑えきれなくなるかもしれない……と思ったためでしょうか?

 

 いずれにせよ、彼女は神様の言ったことをちょっと誇張してまで「食べてはいけない」という約束を守ろうとします。

 

 ところが、蛇は言うんです。「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ」

 

 実はこれ、本当のことでした。「善悪の知識の木」という名のとおり、その実を食べた者は、確かに賢くなるようです。触ったり食べたりしたからと言って、毒がまわって死ぬわけでもありません。

 

 問題は、なぜそのことを蛇が知っていたのか? なぜエバにそんなことを教えるのか? いくつも疑問が湧いてきます。

 

 でも、エバはおいしそうで、食べたら賢くなりそうな果実を見て、それ以上考えるのを止めてしまいました。

 

 蛇の言うことに疑問を持たず、実を取って食べてしまいます。このとき、実はアダムもずっと側にいました。蛇と彼女のやりとりを、じっと聞いていたんです。本来なら、彼もエバを止めなきゃいけません。

 

 「いやいや、その実を食べたら死刑と言われてるんだ!」……そう教えなきゃいけなかった。でも、彼はエバと違って、最初から約束を守ろうとする努力さえ見せません。

 

 自分で考えることなく、蛇に言われるまま、エバに渡されるまま、果実を食べてしまうんです。

 

 自分の意志で考えることを放棄したとき、2人に「死」が訪れました。それまで気にしていなかった「裸」が急に不安になり、慌てて腰を隠します。

 

 それでもまだ不安は拭えず、神様の足音が聞こえてくると、急いで木の間に隠れます。周りの目を恐れ、コソコソと行動するしかない姿は、まさにそれまでの「命あるもの」とは違った様子だったでしょう。

 

【生の消失と命の回復】

 さて、自分で考えるのをやめ、「食べたら死刑だ」と言われていた果実を食べ、神様から身を隠してしまったアダムとエバは、約束どおり、殺されてしまうのでしょうか?

 

 神様は、2人にそれぞれ罰を与えました。エバは苦しんで子を産むように、アダムは生涯食べ物を得ようと苦しむように。

 

 その様子は、19節の印象的な言葉で綴じられます。「お前は顔に汗を流してパンを得る。土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る」……

 

 こうして人は死ぬものとなった……『原罪』の教えではそう続くのですが、よくよく考えてみると、これって罪に対する「罰」というより、約束を破った者への「恩赦」なんですよね。

 

 もともとは、果実を食べた罰として死刑に処せられるはずだったのに、実際にはこう言われる。「あなたはこのまま死なないで、子どもを産み、子孫に恵まれる」「汗を流してパンを得て、土に返るときまで生きていく」

 

 さらに印象的なのは、20節の言葉です。「アダムは女をエバ(命)と名付けた。彼女がすべて命あるものの母となったからである」

 

 自分と一緒に死ぬはずだった、殺されるはずだった妻に対して、「命」という名前を付ける。考えることを放棄していたアダムが、初めて自発的に行動している場面です。

 

 本来処刑されるはずだった自分たちに、神様は「命あるものの母」となる未来をくれた。そのことを繰り返し思い出そう……。

 

 旧約聖書には、何度も考えることを放棄し、神様との約束を破ってしまう人間の姿が出てきます。

 

 ちょっと考えれば分かるのに、それはまずいと気づくのに、繰り返し罪を犯してしまう人間たち。

 

 しかし、神様はそんな私たちに、「命あるもの」の姿を取り戻すよう語り続けます。死なずにすむよう、呼び続けます。

 

 「死んではならない、生きなさい」「今度こそ、自ら考え選択し、私との約束を果たしなさい」……今、礼拝堂の前に写真を飾られた、私たちの隣人、家族、友人も、決して清廉潔白な人生を送れたわけじゃないでしょう。

 

 「ダメだ」と言われることだと分かっているのに、流れに任せてしまったこともあるかもしれません。

 

 しかし神様は、自分との約束を破った人間さえも、「命あるものの母」とされる方です。そのまま死んでいくはずだった、滅んでいくはずだった者たちを、新たな生へと導く方です。

 

 それこそ、自ら「死刑だ」と言っていた人たちにさえ、命をもたらしてくれる神……この方によって生かされ、歩んできた人たちの列に、この方々も招かれました。

 

 そして今日、あなたも招かれています。天においても、地においても、共に礼拝を守る私たちの間に、主の招く声が聞こえてきますように。