ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『そんな余裕ありません』 イザヤ書7:10〜14、マタイによる福音書1:18〜25

礼拝メッセージ 2019年12月21日

 

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【こんな状況で?】

 ちょっと生々しい話をします。もし、あなたに婚約者がいて、その人とまだ関係を持っていないのに、突然「子どもができた」と言われたら……あなたはいったいどうするでしょう?

 

 「誰との子ども?」と聞いてみたら、「誰でもない」と返ってくる。「浮気をしたの?」と疑ったら、「そうじゃない」と返してくる。

 

 何が何だか分かりません。どうしてこうなったのか分かりません。婚約者と話し合おうにも、いったい相手が誰なのか、正直に話してくれません。子どもができているにもかかわらず、浮気相手はいないと言う。

 

 結婚を前にして、もうお互いの家族に挨拶を済ませています。周りの友人とも、式の準備を進めています。

 

 すぐ相談できる人は思いつきません。この人が自分を裏切るなんて……謝ってもくれないなんて……頼むから、何があったのか正直に話してほしいとお願いしても、「実は聖霊によって子どもができて」と訳の分からないことを言ってくる。

 

 もう忍耐するのも限界です。嘘をついているか、正気を失ってしまったとしか思えません。本当は、2人の新しい生活をもっと喜んで迎えたかった。もっとワクワクした気持ちでいたかった。

 

 でも、現実は残酷です。周りのみんなが「もうすぐ結婚だね」「おめでとう」と盛り上がっている中、どうやって婚約を解消するか、夜遅くまで考えています。なるべく穏便に、これ以上傷つかないように、何と言って別れよう……?

 

 もうお分かりだと思いますが、これはマリアの婚約者ヨセフの直面していた状況です。彼は正しい人だったので、マリアのことを表沙汰にするのを望まず、ひそかに縁を切ろうとしました。

 

 彼のいた社会では、婚約した時点でもう夫婦とみなされ、浮気をすれば、石で打たれて殺されるという厳しい罰が待っていました。

 

 彼女と彼女のお腹にできた子どものことを考えると、それはさすがに不憫です。みんなの前で「聖霊によって身ごもって……」なんて言い訳するところも、できれば見たくありません。

 

 ここは誰にも訴えないで、そっと別れるのがいいだろう……ヨセフは比較的まともな人でした。現代の私たちから見ても、常識人で、誠実な人に見えたでしょう。

 

 おそらく、信仰生活も真面目な方だったと思いますが、いくら信心深くても、自分の最も身近なパートナーが「聖霊によって身ごもった」なんて言いだしたら、「いやいや、どうして君が?」となるでしょう。

 

 マリアには祭司の家系の親戚がいましたが、彼女自身は特別な身分じゃありません。まだ13歳か14歳くらいの少女です。

 

 妊娠してしまった事実を前に、死刑を恐れて、現実と幻の区別がつかなくなっていたとしても、おかしくはありません。

 

 マリアと婚約関係を続けられなくなったのは、まあ自然なことでした。まだ、こちらが納得する説明をして、素直に自分の過ちを認めてくれたなら、これからのことを考える余地があったかもしれません。

 

 しかし、理解できない説明で、謝ってもらえない状況が続いたら、そんな余裕もできません。縁を切ろうと決心したヨセフの心は、かなり不安定だったでしょう。

 

 そんな彼のもとに、夢で天使が現れます。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである」……さあ、新たな事件です。

 

【応答できない?】

 これをどう受けとめればいいんでしょうか? 彼が天使のお告げを受けたのは夢の中、現実ではありません。

 

 この夢が自分の想像から生まれたものなのか、天使によって見させられたものなのか、果たして判別できるでしょうか?

 

 皆さんが、ヨセフと同じ立場になって、夢で天使にこう言われたら、素直に受け入れるでしょうか? 私の場合、かなり難しいと思います。確かに、聖書の中では多くの人が、夢でお告げを受けています。

 

 しかし、彼と同じく聖霊によって身ごもったことを知らされたマリアは、夢ではなく現実で、天使からお告げを受けていました。どうして、彼女には直接語られ、自分には夢を介して語られたのか、怪しく感じてしまうかもしれません。

 

 実は彼の他にも、妻は直接「神の人」から言葉を聞くけど、夫は直接語ってもらえない……という出来事が、士師記の13章に出てきます。

 

 イスラエルに王がいなかった時代、民の指導者として立てられたサムソンの父マノアと、その妻の話です。長い間子どもができなかったマノアの妻にも、神様は男の子が生まれると知らせました。

 

 しかし、夫マノアの方には知らせてもらえず、彼は妻からではなく、直接その言葉を聞きたいと、神様にこう祈ります。

 

 「わたしの主よ。お願いいたします。お遣わしになった神の人をもう一度わたしたちのところに来させ、生まれて来る子をどうすればよいのか教えてください」

 

 ところが今度も、神様は夫の方ではなく妻の方へ御使いを遣わします。「この間わたしのところにおいでになった方が、またお見えになっています」……妻にそう聞いたマノアは、急いで彼女について行って、御使いに対し、次々と質問をぶつけます。

 

 しかし、どれもまともに答えてもらえません。御使いはただ、「わたしがこの女に言ったことをすべて守りなさい」と言うだけです。

 

 妻の言葉を受け入れられず、疑っていた人ほど、余裕がなくなってきますよね。なぜ、神様は私に直接語らない?……なぜ、直接天使を遣わさない?

 

 パートナーを信頼できない自分に、神様は面と向かって話してくれない。私は嫌われているんだろうか? 心が軽くなるどころか、むしろ落ち込んでしまいますよね。

 

 事実、夢でお告げを受けたヨセフは、何の言葉も返せません。別れようとしていた婚約者の方が正しかったわけですから、罰が悪かったのかもしれません。

 

 天使からお告げを受けたとき、マリアは「お言葉どおり、この身になりますように」と返した一方で、ヨセフは一言も返せませんでした。

 

 彼が喜んでマリアを妻に迎えたのか、それとも半信半疑で、渋々彼女を受け入れたのか私たちには分かりません。

 

 分かるのは、目を覚ました彼が、婚約解消を取りやめたという事実だけ。マリアのお腹にいるのは本当に神の子なんだろうか?……ヨセフの中で問題がスッキリ片付くのは、ずっと後かもしれません。

 

 それ以上に、新たな問題が迫ってきます。もし、マリアの言うことが正しいなら、夢で天使に言われたことが本当なら、生まれてくる子は神の御子で、みんなを助ける救い主だ。

 

 そんな子どもを育てられるのか、私こそ父親になる資格があるのか……彼が無言で天使の言葉に従ったのは、キャパシティ限界の余裕のなさを表しているのかもしれません。

 

【余裕のない人へ】

 余裕がない……それは、この日を迎えた人たちに共通する要素です。皆、救い主の誕生を知らされたとき、余裕がありませんでした。

 

 マリアは戸惑い、ヨセフは悩み、羊飼いたちは恐れました。占星術の学者を通して、キリストの誕生を知ったエルサレムの市民も、まずは不安を抱きました。

 

 神の子、救い主が生まれたという知らせは、喜びよりも先に、恐れと不安をもたらします。こちらが準備できていないとき、救い主は現れました。

 

 身ごもった夫婦には、泊まる宿がありませんでした。羊飼いたちには、献げ物の用意がありません。エルサレムの住民は、新しい王が生まれると、勢力争いに巻き込まれてしまいます。

 

 ひと言でいえば、余裕のない人たちに、都合の悪いタイミングで、イエス様は現れました。確かに救いを待っていたけれど、私には助けてくれる人をお迎えする余裕がない。喜んで迎えられる状況じゃない。

 

 ある人のセクハラに困っていたら、一緒に訴えようという人が現れた。クラスのいじめに悩んでいたら、私に相談してという先生が現れた。パートナーの暴力に傷ついていたら、通報を受けた警察がやってきた……

 

 確かに、困っていた、苦しんでいた、悩んでいた。だけど、今私のもとに来られても、私にそんな余裕はない。

 

 その上、自分にも非があることを知っています。私も、他のハラスメントを無視してきた。以前、いじめにも加わった。信頼するべき人を拒否してしまった。

 

 今もまだ、心が揺らいでいる。「お願いします」と答えられない。手を差し伸べようとした人も、私と一緒に居続けることはできないだろう。私にそんな資格はない。

 

 けれども、ヨセフに対し、天使が最後に語ったのはこんな言葉でした。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」

 

 インマヌエル、「神は我々と共におられる」という言葉。マリアの言うことが信じられず、彼女と別れようとしていた彼に、救い主は「私はあなたと共にいる」と宣言します。

 

 クリスマスは、準備万端の人のところへ、綺麗で正しい人のところへ訪れた出来事ではありません。むしろ、平凡で、余裕のない、どちらかというと「都合の悪さ」を感じていた人のところへ、神様はこの出来事をもたらしました。

 

 覚悟のできた、かっこいい人たちの話じゃなかった。スッキリしない、モヤモヤした感情を抱えた、小さな弱い人たちのところへ、救い主は生まれてきた。

 

 今はまだ、「おいでください」という余裕がないかもしれません。救い主の登場に、喜べないかもしれません。でも、やがて彼らは喜びにあふれ、感謝をささげ、高らかに神を賛美していきます。変化はこれから始まるんです。

 

 あなたにも、その日が訪れたことを今日思い出しましょう。余裕のない人たちに、神様は喜びをもたらしました。

 

 今、喜ぶことができない人、祈ることができない人、心のざわついている人がいます。キリストが私をとりなされたように、私たちも、その人たちを覚えて、とりなしの祈りを祈りましょう。

 

【とりなしの祈り】*1

 

司式者:神様、あなたは祈りに応えて恵みを与えてくださいます。

    どうか今、わたしたちがささげる祈りをお聞きください。

 

司式者:世界の国民と政府のために祈ります。

会 衆:主よ、政治に携わる人々に、知恵と勇気と良心を与え、

    全ての場所に、自由と平和をもたらしてください。

沈 黙(*心に思い浮かべた国や地域のために祈りましょう)

 

司式者:世界に広がる全ての教会のために祈ります。

会 衆:主よ、教会を聖霊によって力づけ、その信仰を新たにし、

    私たちの一致と結びつきを強めてください。

沈 黙(*心に思い浮かべた教会のために祈りましょう)

 

司式者:教会員のために祈ります。

会 衆:主よ、私たち全てを、御言葉によって豊かに養い、

    あなたの愛と平和を伝える者として送り出してください。

沈 黙(*左右前後に座っている人を覚えて祈りましょう)

 

司式者:今日ここに、出席できなかった人のために祈ります。

会 衆:主よ、病気や衰え、仕事や様々な事情のために、

    ここに見えない人たちを、あなたが癒し回復してください。

沈 黙(*心に思い浮かべた人のために祈りましょう)

 

司式者:身近な人のために祈ります。

会 衆:主よ、私たちの家族や友人、仲間たちが、

    あなたの愛を知れますように、私自身を用いてください。

沈 黙(*心に思い浮かべた人のために祈りましょう)

 

司式者:幼稚園、教会学校、地域の子どもたちを覚えて祈ります。

会 衆:主よ、子どもたちの健康と安全を守り、疲れを癒し、

    安らぎと成長をもたらしてください。

沈 黙(*心に思い浮かべた子どものために祈りましょう)

 

司式者:苦しんでいる人のために祈ります。

会 衆:主よ、病気や怪我、悩みや苦しみを抱える人たちに、

    あなたからの平安と、必要な助けを与えてください。

沈 黙(*心に思い浮かべた人のために祈りましょう)

 

司式者:今も生きておられ、とりなしてくださる方、

    主イエス・キリストのお名前によって祈ります。

一 同:アーメン。

*1:日本基督教団信仰職制委員会編『日本基督教団式文(試用版)主日礼拝式・結婚式・葬儀書式』日本キリスト教団出版局、2010年、71〜75頁「とりなしの祈り」参照。