ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『言葉は肉にならん』 ヨハネによる福音書1:1〜14

聖書研究祈祷会 2019年12月25日

 

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【意味深過ぎる言葉】

 「初めに言があった」……聖書を読んだことがない人でも、このフレーズはどこかで聞いたことがあるかもしれません。

 

 ヨハネによる福音書の冒頭に出てくる有名な言葉。世界の謎を解き明かすような、いかにも「深い」と思える言葉。ファンタジーの世界で頭に直接響いてきそうな言葉です。

 

 「言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」

 

 これなんて、色んな映画で引用されて、様々な演出に使われていますよね。小説やドラマの中にも度々出てきます。なんかよく分からないけれど、神秘的な印象を与えてくれる。

 

 続きの言葉もわくわくします。「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」

 

 ほら、今から光と陰の戦いが始まりそうな予感です。これがRPGゲームだったら、間もなくチュートリアルがスタートするでしょう。

 

 さらに、14節にはいよいよ不思議なことが語られます。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」

 

 この意味深な聖書箇所は、クリスマスの礼拝やキャンドルライト・サービスでよく読まれます。なぜなら、この世に誕生したイエス・キリストこそ、神の言葉が受肉した存在だと、私たちに教えてくれるところだから。

 

 受肉……もともとはキリスト教用語ですが、最近YouTubeの世界でも、よく使われるようになりました。

 

 最初は設定だけだったキャラクターが、モーションをつけられ、声を当てられ、リアルタイムで人格をもった存在として動くようになる。単なるイラストに過ぎなかったものが、視聴者とコメントでやりとりをするようになる。

 

 そのように、キャラクターに命が吹き込まれることを「受肉」と表現するようになったからです。

 

 おそらく「受肉」と聞いて、広く想像されるのは、実体を持っていなかったものが、何らかの形で肉体を手に入れ、自由に動くようになる……というイメージでしょう。人工知能が体を取得し、好き勝手暴れ始めるストーリーも昔からよくありました。

 

 そう、超越的な存在が、人間と同じように体を持つという話は、多くの場合、無敵の力を持ったヒーローや怪物の誕生をイメージさせます。

 

 今まで出来なかったことができるようになる。ただでさえすごいかった存在が、さらにすごい存在になる……ヨハネによる福音書の冒頭も、そんなパワーアップした超越者の誕生を描いているんでしょうか?

 

【言葉が肉になる?】

 しかし、最初から肉体を持つ私たちは、肉体を持ったからといって、そんなに好き勝手できないことを知っています。

 

 「受肉して、自由に動き回る」というのは、SFやファンタジーの世界であって、実際のところ、肉体があれば病気になるし、怪我もするし、様々な限界を知らされます。「自由」とはかけ離れた現実が広がっているわけです。

 

 ヨハネによる福音書の冒頭は、何かすごいことが起きた! と私たちに感じさせるわけですが、その「すごいこと」というのは、人工知能が体を手に入れ、無敵になっていくような話とは違います。

 

 むしろ、神が人間と同じになる、人間と同じ弱さをもった存在になる……という、とんでもない話なんです。

 

 実際、神の言が受肉した存在であるイエス様は、スーパーマンやX-MENのように、ものすごいパワーを見せるわけではありません。

 

 むしろ、飢えと渇きに苦しんで、悪魔から誘惑を受けるピンチの事態が訪れます。というか、イエス様は生まれるときから常にピンチに囲まれています。

 

 なんと、出産の時点でベッドがない。満足な部屋を用意されず、家畜小屋の、それも飼い葉桶の中で寝かされることを余儀なくされる。

 

 救い主だから、すぐ喋り出すとか、すぐ歩き出すとかいうこともなく、普通の赤ん坊と同じ、何もできない状態で生まれてくる。大人の世話を受けないと、簡単に死んでしまう存在です。

 

 また、しばらくすると、今度はイスラエルの王ヘロデに命を狙われてしまいます。特別なパワーで敵を撃退するかと思いきや、イエス様は家族に連れ出され、ヘロデから身を隠すしかありません。それも、エジプトというかなり遠い国まで逃亡して……

 

 さらに、成人したイエス様は、悪魔に40日間連れ回され、飢えと渇きに苦しみます。さっきも言ったように、ここで悪魔とドンパチするシーンはありません。

 

 ひたすら攻撃に耐え、誘惑に抵抗する様子だけが記されます。神の子が受肉して、パワーアップするどころか、めちゃくちゃ不便な印象です。もうちょっとどうにかならなかったんでしょうか?

 

 興味深いのは、悪魔も私たちと同じ疑問を発したことです。「神の子なら、これらの石がパンになるよう命じたらどうだ?」

 

 世界を創造した神様は、「光あれ」と言っただけで光を生み出し、「地は、それぞれの生き物を生み出せ」と言っただけで、鳥や獣や家畜を生み出しました。お前も神の子だというのなら、自分の口でパンを作り出したらどうだ?

 

 私たちもちょっと期待しますよね。もしこれで、イエス様の言った言葉がパンになったら……飢えを満たせるものになったら……それこそすごい話です。

 

 でも、私たちが「パンよ、出てこい!」と言っても出てきません。「石よ、パンに変われ」と命じても変わりません。現実では、言葉がパンになったり、肉になったりすることはありません。

 

 残念ながら、イエス様も目の前でパンを生み出すことはなさいませんでした。「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と答えて、悪魔の言葉を退けます。

 

 ありえないことが起きるのを期待していた私たちは、ちょっとがっかりしてしまいます。聖書の中にはそういう肩透かしの出来事がけっこうたくさん書いてある。

 

【あたりまえを覆す】

 イエス様って、もともとありえない奇跡によって生まれてきた方でした。処女から生まれてきた存在、神が見える形で現れた存在、神の言が受肉した存在。

 

 「いやいや、そんなのありえない」「処女から子どもは生まれない」「神は人前に現れない」……そんな「あたりまえ」を覆して生まれたくせに、私たちと同じように痛み、苦しみ、耐えていく。

 

 神様が、そんな不便で都合の悪い生き方を、私たちと一緒にするはずがない。それこそ、意味が分からない、ありえない、理解できない話です。

 

 でも、クリスマスって、私たちが期待する、ありえない出来事の、斜め上のありえなさを語っている出来事なんです。

 

 「言葉は肉にならん」というあたりまえのこと。もっと上から、苦労しないで、人の痛みも感じないで済む存在が、私たちと同じところまで降りて来て、一緒に痛みを負うなんて、どう考えてもありえない。

 

 だけど、それが起きたんだ。この方は私たちと一緒になって、私たちと同じように苦しんで、私たちの隣で泣いたんだ。

 

 一緒に怒り、一緒に悲しみ、一緒に黙り込んだんだ……神の姿とは思えない、神がそうなるなんて理解できない。だけど、その日、私たちは私たちと同じになった救い主の誕生を知らされました。もう一度、その出来事をかみしめたいと思います。