ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『実にひどい……』 ヨハネによる福音書6:60〜71

礼拝メッセージ 2020年3月15日

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【自分の肉を食べさせる】

実にひどい……そう言わざるを得ない話が、聖書の中にはたくさん出てきます。神の名による大量虐殺、あからさまな女性蔑視、人種差別や民族差別、終末の恐怖を煽る言葉。こんなの受け入れられない、そんな話聞いてられない! 思わず叫ぶ人たちも登場します。非常に健全な反応です。彼らの叫びは、現在の私たちを代弁します。

 

それは、様々な戦争や暴力が描かれる、旧約の中だけではありません。新約に登場するイエス様も、たくさんの人が離れ去り、一緒に居られなくなるような「ひどい話」を語りました……どんな話か?

 

「わたしは命のパンである」「天から降って来た生きたパン」「わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物」「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる」「このパンを食べる者は永遠に生きる」

 

カニバリズムか? と思いますよね……思わず、イエス様の言葉を聞いたユダヤ人は言いました。「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか?」……たわ言だ、頭がおかしい、と思った人もいるでしょう。逆に、本気で言っていると信じた人は、かえって恐怖を抱いたことだと思います。

 

この人は私に、自分の肉を食べさせようとしているのか? 血を飲ませようとしているのか? さすがにそれはひどすぎる。いくら、永遠の命が与えられると言われても、そんな行為は容認できない! 本当にひどい話です。1995年に地下鉄サリン事件を起こした、あのオウム真理教の麻原彰晃を思い出します。

 

彼もまた、自分の体液や髪の毛を飲めば、不思議な力を得られると言って、信者たちにイニシエーションを施しました。他にも多くのカルト団体が、教祖の一部を取り込むことで、信者も特別な力が得られると言い、高額な儀式を行います。イエス様の発言は、それらを彷彿とさせてしまいます。

 

この時、弟子たちの多くが離れ去り、一緒に歩まなくなりました。当然と言えば当然です。イエス様についてきた人のほとんどは、山の上でパンを増やして、空腹の民を満腹させた、あの有名な奇跡を見たからでした。

 

この人についていけば飢えずに済むかも、豊かになるかも、と思っていたのに、突然、人肉を食べさせられるかもしれない……なんて聞いたら、普通はひいていくでしょう。当たり前の反応です。しかし、これらの発言を聞いた後も、イエス様のもとに留まった人たちがいます。そう、後に「使徒」と呼ばれる12人の弟子たちです。

 

【命のパンは命の言葉】

「あなたがたも離れて行きたいか?」そう迫るイエス様に対し、彼らを代表してシモン・ペトロが答えます。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます!」……百点満点の答えです。

 

「命のパン、生きたパン、イエス様の肉を食べる」ということは、「イエス様の語った言葉、命の言葉を受け入れる」ということです。ヨハネによる福音書の冒頭にも、イエス様は「言が肉となって宿られた」者であると書かれていました。その言葉を聞いて信じることが、このパンを食べることなんです。

 

イエス様の最も近くで過ごしていたペトロたちは、この話が文字通り、「人の血肉を食べさせよう」という話じゃないと分かったんでしょう。実際、これまでもこの後も、イエス様は誰かに対し、自分の血肉を食べさせようとはなさいません。先ほど読んだところでも「わたしが話した言葉は霊であり、命である」と直接言っています。

 

すなわち、わたしの言葉が命のパン、これを信じることが、わたしの肉を食べることだと……でも、ほとんどの人が分かりやすい奇跡に目を奪われて、次に何を起こすか気になって、それらの言葉にきちんと耳を傾けていませんでした。

 

ただの水をぶどう酒に変え、夜通し獲れなかった魚を網にかからせ、たくさんの病人たちを癒し、5つのパンを5000人以上に行き渡らせる。それらの奇跡を起こした後、イエス様に従おうとする群衆は一気に膨れ上がって行きました。しかし、イエス様はたいてい集まってくる人たちを避けて、どこか遠くへ行こうとされます。

 

カルト団体の教祖なら、人々が熱狂している今こそ信者を増やす機会なのに、素直に言うことを聞かせるチャンスなのに、イエス様は冷却期間を置くんです。興奮し、昂ぶって、何も考えずに言うことを聞く人たちでなく、自分の頭で考えて、神の言葉を受け取る人たちを求めます。

 

イエス様のもとに集まった人たちには、いつも選択する自由がありました。信じるか信じないか、ついていくか去っていくか、彼らは留まるのも従うのも自分で決めることができました。命のパン、命の言葉とは、人をロボットのように従わせる力ではなく、その人の内側から、新しい生き方をもたらす力です。

 

イエス様から離れなかった弟子たちも、もともとは富やステータスに囚われている人間でした。様々な奇跡を目の当たりにして、特別な力で財産や地位を築きたいと思うこともあったでしょう。

 

しかし、繰り返し語られるイエス様の言葉を受けて、彼らは私利私欲のための生き方から、人々に仕え、神に喜ばれる誠実な生き方へと変えられていきます。誰が一番偉いかよく喧嘩していた弟子たちは、互いに支え合い、人々の食事の世話をし、虐げられていた女性や子ども、異邦人たちを教会へ招くようになるんです。

 

【悪魔の一人も食べていた】

けれども、この時点ではまだ、ペトロをはじめとする12人も、本当にイエス様の真意を分かっているわけじゃありません。「あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています」と言いながら、彼らはイエス様が十字架にかかって殺されようとしていることを知りませんでした。

 

「自分は鞭打たれ、磔にされ、人々に殺されて三日目に甦るんだ」そう話すイエス様に、「そんなことがあってはなりません」と戒めるのは、他ならぬシモン・ペトロでした。神の子である救い主が、みんなの代わりに罪人として十字架につけられる……そんな「ひどい話」は彼らにも受け入れられなかったんです。

 

自分の人生をあずける指導者には、そんなひどい姿をしてほしくない。自分たちの敵をかっこよく打ち倒し、戦いに勝利する立派な姿であってほしい。そんな期待が誰にだってあるでしょう。しかし、イエス様は、人々の期待する姿ではなく、人々に必要な存在であろうとなさいます。

 

裏切り者に声をかけ、見捨てる者を励まして、何度も、何度も、これまでと違う新しい生き方へ転換するよう導かれる。呪いを吐く者に顔を向け、疑う者に現れて、信じない者が信じるように、自分が打たれ、刺し貫かれた傷を見せるんです。あなたの痛み、あなたの苦しみ、あなたの葛藤が癒されるように、わたしは死を越えて会いに来た……。

 

イエス様が十字架につけられる前夜、最後の食事を弟子たちと共にしたとき、そこには悪魔の子、裏切り者と呼ばれたユダもいました。自分を裏切ると知っていて、イエス様は彼を弟子に選び、「友」と呼びかけ、最後まで一緒にいようとされました。

 

彼もまた、キリストの十字架と復活を記念する「主の食卓」にあずかって、「命のパン」を受けた後、その部屋を出ていったんです……実にひどい話です。イエス様は裏切り者にも、罪人にさえ永遠の命を与えようと、自らパンを差し出される……そう、ひどい話であると共に、私たちがひどい有様に陥ったとき、すくい上げる力を持っている。全ての人を救う方とは、こういう方なんです。

 

何度、この方のもとを離れ去っても、私たちが滅びることのないように、いつだって、呼びかけ続ける声がある。だから、疑い、迷い、怯んでいる者、恐れている者は思い出しなさい。あなたを選ばれた神の子は、あなたを捨てることはない。

 


『実にひどい……』ヨハネによる福音書6:60〜71