日曜礼拝 2024年12月8日
説 明
教会にお集まりの皆さん、おはようございます。オンラインで配信を見ている方も、おはようございます。まもなく、10:30から礼拝が始まります。礼拝の最中は、携帯をマナーモードにしていただき、後から来た人も座れるように、席の譲り合いをお願いします。
礼拝の中で、立ち上がって賛美歌を歌うところや、立ち上がって祈りを合わせるところもありますが、体が不自由な方やお疲れの方は、座ったままで大丈夫です。賛美歌、聖書、交読文は、備え付けの籠からお使いください。それでは、もうしばらくお待ちください。
案 内
華陽教会では、讃美歌委員会の著作物使用許諾を得て、日曜日の礼拝を、配信と並行して行っています。共に今、教会にいる人も、配信を見ている人も、互いのために祈りを合わせ、神の招きにあずかりましょう。
前 奏
(*奏楽者は牧師の案内のあと、前奏を弾き始めます。司式者は前奏の終わり頃に講壇へ立ち、会衆を招く準備をします。招詞の聖書箇所は読み上げる必要はありません。網かけ部分は司会が読むところ、四角部分は会衆が立つところです。(かっこ)は会衆の様子を見て省けるときは省きます。)
招 詞
神は、わたしの福音すなわちイエス・キリストについての宣教によって、あなたがたを強めることがおできになります。この福音は、世々にわたって隠されていた、秘められた計画を啓示するものです。(ローマの信徒への手紙16:25)
讃美歌
旧讃美歌506番「たえなる愛かな」を歌いましょう。最後のアーメンはつけて歌います。(差し支えない方はお立ちください)
お祈り
ご着席ください。共に祈りを合わせましょう。
◆世界を創造し、完成される神様。今日もまた、あなたによって守られて、日曜日の礼拝に集まることができ、感謝致します。どうか今、初めて来た人、久々に来た人、自宅で、施設で、職場で、屋外で、あなたの言葉を受けようとしている人を祝福してください。
◆私たちの神様。キリストの誕生を記念するクリスマスの準備をしつつ、キリストが再び来られるときを待ち望むアドヴェント第2週目を迎えました。どうか今、私たちの思いと言葉と行動を導き、隣人と喜びを分かち合う日を整えさせてください。
◆私たちの神様。クリスマスに洗礼を受けられる人、久しぶりに礼拝へ来られる人、初めて訪れようとしている人に、あなたの慈しみがありますように。どうか今、出会いと再会が導かれ、新しい関係を築けるように、私たちを互いに迎えさせてください。
◆私たちの神様。家族の病気や衰え、怪我や障害を癒してください。それぞれの心身を守り、支えてください。どうか今、苦しんでいる人、心配している人、怖がっている人に、あなたの平安がもたらされるように、一人一人を遣わしてください。
◆全てのものを新たにされる、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
聖 書
聖書の言葉を聞きましょう。イザヤ書59:12~20、マタイによる福音書13:53~58(新共同訳より抜粋)
*日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、配信終了後に聖書箇所のみ記載し、本文をカットしています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。 |
交読文
詩編の言葉を読み交わしましょう。詩編96:1~13(新共同訳交読詩編より抜粋)
『交読詩編』か『讃美歌21』の後ろの方をご覧ください。司会と会衆で交互に読んでいきますので、皆さんは一段下がったところと太字のところをお読みください。(また、Aのところは牧師が、Bのところは会衆がお読みください。ご着席のままで大丈夫です。) |
讃美歌
讃美歌21の228番「造りぬしなる主」を歌いましょう。最後のアーメンはつけて歌います。(差し支えない方はお立ちください)
メッセージ
アドヴェントは、キリストの誕生を記念する、クリスマスの訪れを待ち望む期間であると共に、天に昇ったイエス様が、世の終わりに、再び来られるときを待ち望む期間でもありました。その日は全ての悪が滅ぼされ、神様に受け入れられた人々が、新しい天と地、神の国、天の国に迎えられる日でもあるため、裁きの日、審判の日とも呼ばれます。
多くの人が不安になるのは、この裁きの日に、自分たちは神様を信じて、神様に従った者として、天の国に迎えてもらうことができるのか?……それとも、神様に背いて、神様に逆らった者として、滅びを宣告されてしまうのか?……という点です。これに関して、預言者イザヤは、かなり厳しい言葉を残しています。
「御前に、わたしたちの背きの罪は重く/わたしたち自身の罪が不利な証言をする。背きの罪はわたしたちと共にあり/わたしたちは自分の咎を知っている」……イザヤ書56〜66章は、かつて、バビロニアに国を滅ぼされ、外国へ捕虜として連行されたイスラエル人が、エルサレムに帰還するのを許された時代、語られたものと言われています。
敗戦から約50年、国に帰ってきた人々は、期待していた状況とは違うエルサレムの姿に落胆し、絶望の最中にありました。荒廃した町はそのままで、壊れた神殿も放置され、復興の兆しは見えません。ようやく帰ってきた故郷は、圧政者による不正がはびこり、罪のない者の血が流され、正義と恵みの業から程遠い姿をしていました。
不正を正そうとする者はなく、罪のない人を守ろうと、とりなす者もいませんでした。多くの人は、世の中が良くなることを期待できず、自分が負け組にならないよう、抜け目のない、利口な人間になるのに必死で、神様から離れた生き方をすることが、当たり前になっていました。
いじめっ子の標的が、自分自身にならないよう、一緒になって、いじめられっ子を馬鹿にしたり、無視したり、嘲笑ったりするように、歪んだ現状を改善しようとする者は、なかなか現れませんでした。私たちが、それぞれ遣わされている日常でも、似たような光景があるかもしれません。
間違っていると分かっているし、変えなきゃいけないと思っているけど、かえって酷い目に遭うのを恐れ、現状を放置したまま過ごしている。毎日やり過ごして生きている……こんな自分に都合よく、神様の手が差し伸べられるなんてあり得ない……そんなふうに感じてしまい、祈ることさえはばかられる。
イザヤ書59章11節には、こんな言葉もありました。「わたしたちは皆、熊のようにうなり/鳩のような声を立てる。正義を望んだが、それはなかった。救いを望んだが、わたしたちを遠く去った」……もはや、まともに祈れない、神様に向かって叫べない、人々の様子が描かれます。
普通に考えたら、そんな状態の人々に、救いが訪れないのは自業自得です。「主の日」と呼ばれる裁きの日、終末の日に、神から離れた者として、滅ぼされるのが自然です。正義を行わなかったから、悪を放置し続けたから、救いにあずかることはないと、断罪されても仕方ありません。
ところが神様は、正義を行う者がないのを見て、とりなす者がないのを見て、人々を、そのまま滅ぼすのではなく、歪んだ現状を変えようと、自ら乗り出して来られます。恵みの業を鎧とし、救いを兜とし、報復を衣とし、熱情を上着として身につけ、「贖う者」として、シオン(エルサレム)に、自分に背いた者たちに、介入すると言われます。
ここで言う「報復」は「救い」と深く関係しており、嘆いている人々が慰められ、過ちを犯していた人が悔い改め、神様に立ち帰るまでのプロセスとして出てきます。正義を行う者がいないまま、とりなす者がいないまま、全てを滅ぼすのではなく、正しくない者が正しい者に、救いにあずかる者となるように、新しい変化をもたらすことを意味します。
神様は、自分に背いて離れてしまった人々へ、新たに出会われ、新たに契約を結ばれて自分の目に悪と映らなくなるように、自分の救いにあずかる者となるように、繰り返し、人々を導き続けます。歪んだ状態を放置せず、その人自身が、期待さえできない、新たな変化をもたらします。
神の子イエス・キリストも、自分を受け入れず、理解せず、信じようとしない人たちを放置しないで訪れます。イザヤ書の後に読まれた、マタイによる福音書の記事は、まさにイエス様を受け入れず、イエス様から離れていった、ナザレの人々が描かれていました。ナザレの町は、冒頭で記されるように、イエス様の故郷の町です。
人々は、久しぶりに帰ってきたイエス様の知恵と奇跡に驚きつつも、イエス様の教えを素直に受け取れませんでした。彼らはつまずいてこう言います。「この人は大工の息子ではないか。母親はマリアと言い、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。姉妹たちは皆、我々と一緒に住んでいるではないか。」
この言葉には、侮蔑と皮肉も混じっていたかもしれません。皆さんもご存知のとおり、イエス様は、大工のヨセフとマリアの子どもとして生まれてきました。しかし、マリアはヨセフと結婚する前、婚約中に、聖霊によって身籠ったので、イエス様とヨセフの間に、血のつながりはありませんでした。
ヨセフは当初、マリアが不貞によって妊娠したのではないかと思い、ひそかに縁を切ろうとしていましたが、夢で天使からお告げを受け、彼女を妻として迎え入れます。しかし、周りの人からは、婚約中に浮気をして、身籠った子と思われたのかもしれません。あるいは、婚約期間を終える前に、2人が関係を持ってしまったと考えたのかもしれません。
もしかしたら、ナザレの人々が、イエス様を指して、「この人は大工の息子ではないか」と言った言葉は、「この人は不貞を犯した親の子どもではないか?」「そんな奴が、どうして神の国の教えを語ったり、奇跡を行ったりできるだろうか?」という差別的な意図が込められていたのかもしれません。
イエス様自身、「預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである」と言っているため、他の兄弟や親戚との間でも、出自をめぐって、関係がギクシャクしていたのかもしれません。実際、イエス様の宣教活動を兄弟がよく思っていなかった様子も、聖書の中には出てきます。
また、イエス様が生まれるとき、身重のマリアを連れて、故郷へ帰ってきたヨセフたちに、部屋を空けてくれる人はいませんでした。イエス様は、父ヨセフの生まれ故郷でも、自分が育った故郷でも、敬われずに生きてきました。それは、彼らが救い主を受け入れず、神の子に背いたということでもありました。
けれども、イエス様は自分を受け入れない、ガリラヤのナザレという町を放置することはありません。ナザレの人々に敬われなかったにもかかわらず、その後も「ナザレの人」「ナザレのイエス」と呼ばれたのは、イエス様が、ナザレの者であることを否定しないで、隠さないで、自分と故郷の関係を保ち続けたからでしょう。
実は、ナザレの人々が口にした「この人は、このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう?」という疑問は、嵐を鎮める奇跡を起こしたイエス様に、弟子たちが口にした「いったい、この方はどういう方なのだろう。風や湖さえも従うではないか」という疑問とも重なります。
よく見ると、イエス様に従っていた弟子たちも、その奇跡やしるしを目の当たりにしたとき、すぐには、イエス様が神の子だと受け入れられませんでした。イエス様が十字架にかかって死に、三日目に復活することを告げたときも、「そんなことはあってはなりません」と反対し、「退け、サタン」と言われることもありました。
おそらく、ほとんどのキリスト教徒は、イエス様に従ったペトロ、ヤコブ、ヨハネをはじめとする弟子たちが、「イエス様に背いて滅びに定められてしまった」とは思わないでしょうが、実は、彼らがイエス様に背いたり、イエス様の言うことを信じなかったり、受け入れなかったりする様子は、けっこう何度も出てきます。
にもかかわらず、イエス様は弟子たちを捨てることなく導き続けます。彼らが自分を見捨てた後も、復活して、「あなたがたに平和があるように」「わたしに従いなさい」と呼びかけ、新たに関係を築きに来ます。信じない者ではなく信じる者となるように、滅びに定められた者ではなく救いにあずかる者となるように、死を超えて変化をもたらしに来ます。
キリストが再び来られるとき、もたらされる「裁き」とは、神に背いてしまった者、神に従えなかった者を、単に滅ぼすものではなく、信じない者が信じる者に、従えなかった者が従う者に、新しく変えられるための裁きです。「俺なんて」「私なんて」と本人でさえ期待できない変化と回復をもたらされる、神の支配が及ぶことです。
自分は口下手だと言っていたモーセが、人前に立つのを拒んでいたサウルが、「わたしは決して信じない」と言っていたトマスが、新しく出会い続ける神によって、新しく変えられてきたように、あなたも、あなたの大切な人も、この方によって変えられていきます。だから、恐れず、安心して、主の日が来るのを待ちなさい。
死を超えて、その呼びかけに、応えさせてきた方が、あなたを新しくすることを信じなさい。あなたがたを救いに来たことを信じなさい。あなたがたを自分の弟子と呼び、兄弟姉妹と呼んでいることを思い出しなさい。恵みと平和が、あなたがた一同と共にあるように。アーメン。
讃美歌
オンライン賛美歌42番「はじめに言があった」(©️柳本和良)を歌います。(差し支えない方はお立ちください)
使徒信条
教会の信仰を告白しましょう。「使徒信条」讃美歌21の93-4Aです。オンライン賛美歌の後ろの方の2頁をご覧ください。
紹 介
本日も、初めて礼拝に来られた方、初めて配信を見られた方、久しぶりに参加された方と一緒に礼拝にあずかれたことを感謝致します。受付でご了承いただいた方のみ、配信終了後にご紹介させていただきます。ぜひ、これからも一緒に礼拝へ出られると嬉しいです。
とりなし
共に、神様から委ねられた、とりなしの務めを果たしましょう。オンライン讃美歌の後ろの方の1頁をご覧ください。
主の祈り
イエス様が教えられた『主の祈り』を祈りましょう。讃美歌21の93-5A。オンライン讃美歌の後ろの方の4頁をご覧ください。差し支えない方は、お立ちください。
聖句と主題
御着席ください。新年度の年間聖句を心に留めて、今週も新しく遣わされましょう。
年間聖句
「父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください。それは、天地創造の前からわたしを愛して、与えてくださったわたしの栄光を、彼らに見せるためです。」
年間主題
華陽教会では、「ここをみんなに知らせよう」というテーマで、ヨハネによる福音書17章18節を今年度の年間聖句にしています。
今週は、来週の教会学校クリスマス会、再来週の芽含幼稚園クリスマス会のために祈りを合わせ、子どもたちに喜びを分かち合う準備をしていきましょう。
献 金
感謝の献げ物として献金をします。クリアファイルに挟まれた封筒をご利用ください。献金に、金額に定めはありません。持ち合わせのない方は、空のまま封筒をお入れください。
献金の祈り(例)
私たちの神様。今日の御言葉を感謝します。私たちの生き方をささげるしるしとして献金をささげます。あなたの御用のために用いてください。イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。
讃美歌
献金の讃美歌512番「主よ、献げます」4節を歌いましょう。
讃美歌
讃美歌21の29番「天のみ民も」を歌いましょう。差し支えない方はお立ちください。
祝 福
共に、神様の祝福を受けましょう。
派 遣
主は贖う者として、シオンに来られる。ヤコブのうちの罪を悔いる者のもとに来ると/主は言われる。(イザヤ書59:20)
祝 福
この知恵ある唯一の神に、イエス・キリストを通して栄光が世々限りなくありますように、アーメン。(ローマの信徒への手紙16:27)
報 告
本日も教会に集まって、また配信を通して礼拝にご参加くださり、ありがとうございます。先週の日曜礼拝は、教会に集まった20名、同時に視聴された8名、計28名が参加されました。後から動画や原稿を通して祈りを合わせてくださった方も感謝致します。
来週の日曜日は、アドヴェント第3週目の礼拝です。隠退教師の鈴木重正牧師が『系図に込められた意味』と題して、マタイによる福音書1:1~11のお話をしてくださいます。来週の午後1時半〜3時には、教会学校子ども会のクリスマス礼拝と祝会が開かれます。
子どもたちと保護者の方は、いつもと時間が違うので、ご注意ください。礼拝の後、ゲームや絵本の読み聞かせなどを予定しています。それではまた、日曜日まで、皆さん一人一人に、神様の平和がありますように。