日曜礼拝 2025年1月12日
説 明
教会にお集まりの皆さん、おはようございます。オンラインで配信を見ている方も、おはようございます。まもなく、10:30から礼拝が始まります。礼拝の最中は、携帯をマナーモードにしていただき、後から来た人も座れるように、席の譲り合いをお願いします。
礼拝の中で、立ち上がって賛美歌を歌うところや、立ち上がって祈りを合わせるところもありますが、体が不自由な方やお疲れの方は、座ったままで大丈夫です。賛美歌、聖書、交読文は、備え付けの籠からお使いください。それでは、もうしばらくお待ちください。
案 内
華陽教会では、讃美歌委員会の著作物使用許諾を得て、日曜日の礼拝を、配信と並行して行っています。共に今、教会にいる人も、配信を見ている人も、互いのために祈りを合わせ、神の招きにあずかりましょう。
前 奏
(*奏楽者は牧師の案内のあと、前奏を弾き始めます。司式者は前奏の終わり頃に講壇へ立ち、会衆を招く準備をします。招詞の聖書箇所は読み上げる必要はありません。網かけ部分は司会が読むところ、四角部分は会衆が立つところです。(かっこ)は会衆の様子を見て省けるときは省きます。)
招 詞
また、あなたがたの五体を不義のための道具として罪に任せてはなりません。かえって、自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また、五体を義のための道具として神に献げなさい。(ローマの信徒への手紙6:13)
讃美歌
旧讃美歌531番「こころの緒琴に」を歌いましょう。最後のアーメンは、つけずに歌います。(差し支えない方はお立ちください)
お祈り
ご着席ください。共に祈りを合わせましょう。
◆救いの源である神様。今日もまた、あなたによって守られて日曜日の礼拝に集まることができ、感謝致します。どうか今、初めて来た人、久々に来た人、自宅で、施設で、職場で、屋外で、あなたの言葉を受けようとしている人を祝福してください。
◆私たちの神様。本日、華陽教会では、隠退教師の鈴木重正牧師がメッセージをしてくださいます。どうか今、お話しくださる先生と、聞く私たちの間に、あなたの聖霊が豊かに注がれ、共に恵みを分かち合うことができますように。
◆私たちの神様。本日、柳本伸良牧師は城之橋教会へメッセージ奉仕に行かれています。どうか今、城之橋教会の礼拝が豊かに祝され、柳本秀良牧師と会衆の上に、あなたの癒しと平安がありますように。
◆私たちの神様。新学期が始まった、幼稚園や学校にいる子どもたちに、あなたの慈しみがありますように。学校へ行けない子どもたちにも、あなたの慰めが豊かにあって、安心できる居場所がもたらされますように。
◆人と人との間におられる、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
聖 書
聖書の言葉を聞きましょう。マタイによる福音書3:13〜17の新共同訳を朗読します。会衆席にある新約聖書の4頁です。
そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。
同じく、マタイによる福音書3:13〜17の聖書協会共同訳を朗読します。新約聖書の4頁です。お持ちでない方は、新共同訳と読み比べながらお聞きください。
その時、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼(バプテスマ)を受けるためである。ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「私こそ、あなたから洗礼(バプテスマ)を受けるべきなのに、あなたが、私のところに来られたのですか。」しかし、イエスはお答えになった。「今はそうさせてもらいたい。すべてを正しく行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。イエスは洗礼(バプテスマ)を受けると、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の霊が鳩のようにご自分の上に降って来るのを御覧になった。そして、「これは私の愛する子、私の心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。
*日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、配信終了後に聖書箇所のみ記載し、本文をカットしています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。 |
交読文
詩編の言葉を読み交わしましょう。詩編2:1〜12(新共同訳交読詩編より抜粋)
『交読詩編』か『讃美歌21』の後ろの方をご覧ください。司会と会衆で交互に読んでいきますので、皆さんは一段下がったところと太字のところをお読みください。(また、Aのところは牧師が、Bのところは会衆がお読みください。ご着席のままで大丈夫です。) |
なにゆえ、国々は騒ぎ立ち
人々はむなしく声をあげるのか。
なにゆえ、地上の王は構え、
支配者は結束して/主に逆らい、
主の油注がれた方に逆らうのか
「我らは、枷をはずし/縄を切って投げ捨てよう」と。
天を王座とする方は笑い
主は彼らを嘲り
憤って、恐怖に落とし
怒って、彼らに宣言される。
「聖なる山シオンで
わたしは自ら、王を即位させた。」
主の定められたところに従ってわたしは述べよう。主はわたしに告げられた。
「お前はわたしの子/今日、わたしはお前を生んだ。
求めよ。わたしは国々をお前の嗣業とし
地の果てまで、お前の領土とする。
お前は鉄の杖で彼らを打ち
陶工が器を砕くように砕く。」
すべての王よ、今や目覚めよ。
地を治める者よ、諭しを受けよ。
畏れ敬って、主に仕え
おののきつつ、喜び躍れ。
子に口づけせよ/主の憤りを招き、道を失うことのないように。
主の怒りはまたたくまに燃え上がる。
いかに幸いなことか/主を避けどころとする人はすべて。
讃美歌
讃美歌21の505番「歩ませてください」を歌いましょう。最後のアーメンはつけずに歌います。(差し支えない方はお立ちください)
メッセージ
昨年の12月22日の日曜日、私が所属する華陽教会で、バプテスマ(洗礼式)が行われました。キリストの誕生を記念するクリスマスの礼拝で2人の方が信仰を告白し、教会の一員になったんです。「自分が洗礼を受けたのも、ちょうどクリスマスの時期だった」という方が、ここにも何人かいるでしょう。
もし、洗礼式を一言で説明するとしたら、「キリスト教の入信式」という表現になると思います。おそらく、この教会で、父が聖餐式をやるときにも「洗礼式は、キリスト者になるための式で、この聖餐式は、キリスト者であり続けるための式です」というふうに伝えていると思います。
洗礼式では、水の中に体を沈めることで、キリストを知らない古い自分が死に、水の中から起こされることで、キリストを知って、新しい自分に生まれたことを表します。全身を水につけないで、頭から水を注ぐ「滴礼」の形も多いですが、いずれの場合も、水を用いて、「イエス様が私のことも、洗い清めてくださった」ことを証しします。
「証し」というのは、イエス様の教えと業、イエス様から受けた恵みを、みんなに伝えていくことです。洗礼式は、全ての人を救うために、十字架につけられて復活したイエス様が、私にも、罪の赦しを得させるため、十字架にかかり、新しく生きる者へと変えてくださったことを証言する「感謝の応答」でもあります。信仰者が、イエス様との出会いを示す、最初の伝道です。
よく、洗礼式を「救われるための条件」と考えてしまう人もいますが、条件というよりむしろ、「救いを信じて受け入れた者の感謝の応答」です。聖書をどれだけ読んでいるとか、礼拝にどれだけ参加したとか、「何か、救いに値する基準を満たしたから受けられる」というものではなく、ただ、「この私をも救ってくれる」と信じて応答する行為なんです。
しかし、聖書に出てくる初期の洗礼は「悔い改めのバプテスマ」と呼ばれ、少し違った意味がありました。イエス様が生まれる半年ほど前、不妊の女であったエリサベトと、高齢の祭司であったザカリアに、神様によって男の子が生まれます。その子は洗礼者ヨハネと呼ばれ、人々が、イエス様を信じて受け入れるための準備をする者となりました。
彼は、神様が約束していた救い主は、自分のあとから来るイエス様のことで、「この方に罪を赦していただきなさい」と人々に教え、勧めていました。そして、罪を告白した人が救い主に受け入れてもらえるよう「悔い改めの洗礼」を授けていました。後に、イエス様と敵対する、ファリサイ派やサドカイ派の人々が来たときは、彼らに向かって、「悔い改めにふさわしい実を結べ」と迫り、キリストを信じて受け入れるよう忠告していました。
つまり、初期の洗礼、「悔い改めのバプテスマ」は、救い主に罪を赦され、受け入れてもらうための、清めの儀式、償いの儀式だったんです。そのため、罪の告白が不十分だと感じたり、償いが足りてないと思ったり、救い主に赦してもらえる自信のなかった人たちは自分自身を清めるために、何度もヨハネのもとへ来て、悔い改めの洗礼を受けていました。
現代の洗礼は、「キリストが私を清めてくださった」「罪の赦しを得させてくださった」と信じて応答する行為なので、赦されるために、何度も受ける必要はありません。しかし、今でも、「やっぱり自分は、救いにふさわしくないんじゃないか……」と不安になり、自分自身を清めるため、何度も洗礼を受けたくなる人がいるかもしれません。
「こんな自分の状態で、赦しを得られるわけがない」「天の国、神の国に、迎えてもらえるわけがない」「あのとき洗礼を受けたけど、まだまだ、自分が清くなったとは思えない」そんなふうに考えて「もう一度、洗礼を受けさせてもらえませんか?」と尋ねてくる人もたまにいます。今のままなら、自分は救いに値せず、滅びに定められてしまうだろう、と。
ところが、イエス様は、人々が救いに値するかどうか「審査をしようとする」どころか自分も洗礼を受けにやって来ます。ヨルダン川に訪れて、ヨハネに「洗礼を受けさせてほしい」と頼みます。本来なら、イエス様が洗礼を受けるシーンではなく、悔い改めた人々が、イエス様から審査を受け、合格かどうか言い渡されるシーンなのに、イエス様はそうなさいません。
洗礼者ヨハネも動揺します。「私こそ、あなたからバプテスマを受けるべきなのに、あなたが、私のところに来られたのですか」……それは、心からの戸惑いだったでしょう。あなたは救い主じゃないですか? 悔い改める必要のない、神の独り子じゃないですか? 誰よりも清い方で、こっち側ではないでしょう? それなのになぜ、洗礼を……?
簡単です。この方は、遠く離れたところから、私たちを審査する方じゃないからです。私たちと一緒に悩み、一緒に苦しみ、一緒に新しい命を受けて、天の国へと招かれる方だからです。イエス様は、高いところから見下ろして、あなたを審査するような方ではありません。あなたのところまで降りてきて、一緒に川の中に入り、一緒に水の中へ沈み、一緒に起き上がる方なんです。
私が牧師として、誰かに洗礼を授けるとき、洗礼を受ける方を通して、イエス様と新しく出会います。皆さんも想像してください。もし、自分が牧師で、誰かに洗礼を授けることになったとき、嬉しい反面、不安になってこないでしょうか? 本当に、私がこの人へ洗礼を授けていいんだろうか? そんな資格があるんだろうか? むしろ、私の方こそ、洗礼を受け直す必要があるんじゃないか?
そんなとき、ハッと気づかされるんです。今、私の前にいるのは、イエス様ご自身でもあるんだと……この人の洗礼を、自分から授けていいものか、迷ってしまう私のもとへ、この人を通して、イエス様が現れた……洗礼者ヨハネにイエス様が訪れて、「洗礼を受けさせてほしい」と頼んだように、イエス様は私にも、この人を通して、新しく出会いに来てくれたんだと。
そう、教会で誰かが洗礼を受けるとき、私たちは、受洗志願者を通して、新しくイエス様と出会わされます。かつて、イエス様が、あなたと共に水へ入り、あなたと共に起き上がって、一緒に歩んでいることを、その身で現してくださったように。イエス様は、洗礼を受ける者を通して、その人を迎える会衆にも、新しく出会ってくださいます。
神の子が洗礼を受けたのは、私たちと出会い続けるためなんです。倒れない者を導くためではなく、倒れた者と、共に起き上がるためなんです。溺れない者を救うためではなく、溺れた者と、共に川から上がるためです。「信じない者ではなく、信じる者となりなさい」イエス様がそう言われたのは、信じない弟子を見捨てるためではありませんでした。信じない者が、信じられるまで、救いにあずかる者となるまで、付き合い続けるためでした。
洗礼を受けてなお、自分が清められたと思えない、救いにふさわしい者と思えない方はどうか安心してください。赦しを受けたと思えない、裁きを免れると思えない方は知ってください。イエス様は、あなたが救いに到達するまで、遠くから見ている方ではありません。あなたの隣にやって来て、あなたと一緒に荷物を背負って、救いの道を進む方です。
あなたが罪を告白し、悔い改めて祈るのは、イエス様に「審査」されるためではありません。イエス様は、あなたと一緒に歩むため、悔い改めのバプテスマを受けられました。あなたの重荷を一緒に担い、あなたのために執り成して、あなたを救いに導きます。足が止まって動かない者を「なぜ立ち止まるのか?」と責め立てることはありません。
むしろ、「すべて重荷を負って苦労している者は、私のもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう」と語ります。「私の軛は負いやすく、私の荷は軽いからである」と、一緒に荷物を背負います。たとえ、それを思いとどまらせようと、私たちが拒絶しても、「今は止めないでほしい」「今はそうさせてもらいたい」と言って、私たちが沈んでいる水の底へ自分も入ってくるんです。
「主よ、あなたにそんなことをさせるわけにはいきません」「私のために、そこまでしてもらうわけにはいきません」と言ったところで、この方は決して止まりません。「すべてを正しく行うのは、我々にふさわしいことです」と宣言し、私たちの道連れになるため、あなたと一緒にゴールするため、水の中へ入ります。
父なる神も、子なるキリストを止めません。むしろ、「これは私の愛する子、私の心に適う者」と宣言し、同じ思いであることを告げられます。“神の子が洗礼を受けちゃった”ちょっと不思議な出来事も「インマヌエル」(神が我々と共におられる)という呼び名にふさわしい、イエス様の生き方を伝えているんです。
どうか思い出してください。あなたが洗礼を受けた日を、あなたが新しくされた日を。イエス様は、あなたと一緒に水に浸り、あなたと一緒に出てこられました。あなたと一緒に荒れ野をさまよい、あなたと一緒に誘惑を受けました。あなたが悩み、苦しみ、疑って、神から離れようとしたときも、この方はあなたと共に苦しんで、御言葉を思い出させます。神の口から出る一つ一つの言葉を渡し、正しい道へ立ち帰らせます。
そう、イエス様は、あなたが神の国に迎えられるまで、あなたの道連れとして、付き合い続けてくださいます。あなたが滅びに定められるのを、ただ見ている方ではありません。この方は、自分を見捨てた者たちに「永遠の責苦の炎」ではなく、新しい生き方をもたらす「聖霊の炎」をもたらしました。良い実を結ばない者たちには、良い実を結べるようになるまで、死を越えて働きかけてきました。
私も未だに迷います。神様が愛しているのなら、どうして不幸がやってくるのか、どうして助けがすぐ来ないのか、疑問が次々湧いてきます。何か事件が起きる度に、神の裁きを受けているのか、自分はゆるされない存在なのか、心に疑いが出てきます。ついには、神様に叫んでしまいます。「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか……」
その叫びは、信仰を捨て、神に背いたとみなされてしまう叫びです。「不信仰者」「不信心者」と言われかねない叫びです。しかし、私と一緒に、同じ言葉で叫んだ方がおられます。十字架の上で、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と大声で叫び息を引き取った方がいます。その方こそ、主キリストです。
父なる神に「なぜ、お見捨てになったのですか」と大声で叫んだ神の子は、動かないまま、死んだままにはされませんでした。十字架につけられてから三日目に、死者の中から起こされて、再び、弟子たちに訪れます。神様が、愛する者を捨てたまま、傷ついたままにはなさらないことを、その身をもって示しました。
私たちが、「神に見捨てられた」と叫ぶとき、「なぜですか?」「どうしてですか?」と訴えるとき、イエス様も、私たちと一緒に叫び、一緒に呻き、一緒に起き上がってくださいます。捨てられたまま、傷ついたままにはされないことを、思い出させてくださいます。だから、あなたも信じてください。倒れたままにはされないことを知ってください。
「悔い改めが足りてない」「信じる気持ちが欠けている」「罪の赦しを得られない」……そのように感じている者へ、そのように見なされる者へ、救い主は訪れました。他ならぬあなたのために、この方は洗礼を受け、十字架につけられ、復活して、何度も会いに来てくれました。これからも、疑い、迷い、戸惑う者と、新しく出会い続けます。
だから、この方を止めずに迎えなさい。正しいことをすべて行いなさい。天から聞こえてくる、神の宣言を聞きなさい。味わい、見よ、主の恵み深さを。アーメン。
讃美歌
オンライン賛美歌6番「戻らない世界で」(©️柳本和良)を歌います。(差し支えない方はお立ちください)
使徒信条
教会の信仰を告白しましょう。「使徒信条」讃美歌21の93-4Aです。オンライン賛美歌の後ろの方の2頁をご覧ください。
紹 介
本日も、初めて礼拝に来られた方、初めて配信を見られた方、久しぶりに参加された方と一緒に礼拝にあずかれたことを感謝致します。受付でご了承いただいた方のみ、配信終了後にご紹介させていただきます。ぜひ、これからも一緒に礼拝へ出られると嬉しいです。
とりなし
共に、神様から委ねられた、とりなしの務めを果たしましょう。オンライン讃美歌の後ろの方の1頁をご覧ください。
主の祈り
イエス様が教えられた『主の祈り』を祈りましょう。讃美歌21の93-5A。オンライン讃美歌の後ろの方の4頁をご覧ください。差し支えない方は、お立ちください。
聖句と主題
御着席ください。新年度の年間聖句を心に留めて、今週も新しく遣わされましょう。
年間聖句
「父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください。それは、天地創造の前からわたしを愛して、与えてくださったわたしの栄光を、彼らに見せるためです。」
年間主題
華陽教会では、「ここをみんなに知らせよう」というテーマで、ヨハネによる福音書17章18節を今年度の年間聖句にしています。
今週は、教会と地域のつながりが豊かにされるよう祈り、来月のピアノの奉献コンサートに向けて、準備を進めていきましょう。
献 金
感謝の献げ物として献金をします。クリアファイルに挟まれた封筒をご利用ください。献金に、金額に定めはありません。持ち合わせのない方は、空のまま封筒をお入れください。
献金の祈り(例)
主なる神よ、私たちが持っているものはみな、あなたからいただいたものです。今、私自身の生き方をあなたの御用のためにおささげします。どうか、ここにささげた献金もあなたの求めていることに用いてください。主イエス・キリストによって祈ります。アーメン。
讃美歌
献金の讃美歌512番「主よ、献げます」3節を歌いましょう。
讃美歌
オンライン賛美歌15番「わたしたちは旅人」を歌いましょう。差し支えない方はお立ちください。
祝 福
共に、神様の祝福を受けましょう。
派 遣
しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。(マタイによる福音書3:15)
祝 福
わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。(ローマの信徒への手紙1:7b)
報 告
本日も教会に集まって、また配信を通して礼拝にご参加くださり、ありがとうございます。先週の日曜礼拝は、教会に集まった22名、同時に視聴された10名、計34名が参加されました。後から動画や原稿を通して祈りを合わせてくださった方も感謝致します。
柳本伸良牧師は、15日まで出張のため不在です。水曜日の聖書研究祈祷会はお休みですが、金曜日の午後2時半からの「キリスト教ABC講座」と夜7時半からの「聖書の学びと祈りの会」は、予定どおり2階礼拝堂で開かれます。どうぞ手ぶらでお越しください。
なお、来週の日曜礼拝は信徒立証礼拝の予定でしたが、諸事情のため2月16日に延期することとなったので、当日は城之橋教会で礼拝奉仕を行っている柳本伸良牧師のメッセージを代読して礼拝を守ります。
礼拝後、ハレルヤランチを挟んで、月毎にテーマを定めて学びのときを持つ「ぶどう園の集い」と、近況を自由に分かち合う「ヒラソルの会」も開かれます。興味のある方は、お好きな方にご参加ください。
柳本伸良牧師は、来週まで、城之橋教会で礼拝奉仕をしています。ぜひ、それぞれの教会のためにお祈りください。それではまた、日曜日まで、皆さん一人一人に、神様の平和がありますように。