ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『満足できない答え』 ヨハネによる福音書14:1〜11

在宅礼拝 2021年5月2日


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案 内

華陽教会では岐阜県の医療提供体制を受けて、今週から会衆が集まる礼拝を休止し、配信等による在宅礼拝を行っています。共に今、自宅にいる人も、後から見る人も、聖書の言葉に耳を澄ませ、神の招きにあずかりましょう。(*前奏)

 

招 詞

神の内にいつもいると言う人は、イエスが歩まれたように自らも歩まなければなりません。(ヨハネの手紙一2:6)

 

讃美歌

旧讃美歌179番「よろこびあふるる」を歌います。54年版讃美歌をお持ちでない方は、そのままお聞きいただき、心で賛美を合わせましょう。(お立ちください)

 

お祈り

(ご着席ください)共に祈りを合わせましょう。

 

◆人と人との間におられる私たちの神様。今日もまた、あなたによって守られて日曜日の礼拝が始められたことを感謝致します。どうか今、自宅で、施設で、職場で、屋外で、あなたの言葉を受けようとしている人を祝福してください。

◆私たちの神様。今日から再び、会衆が集まる礼拝を休止し、それぞれの自宅から礼拝を行うことになりました。どうか今、集まることができない民、つながることが困難な家、力を失った人たちを回復させてください。

◆私たちの神様。礼拝のライブ配信のため、奏楽、司会、お祈りの奉仕に来てくれた人を守ってください。少数ですが、奉仕の間も感染症から守られて、安全に帰ることができるよう、導いてください。

◆私たちの神様。コロナ禍の前から、ずっと教会に来られない人、集まれない人のことを癒し、励まし、支えてください。必要な治療と、ケアと、つながりがもたらされ、帰る場所ができるよう、ここにも変化を与えてください。

◆全ての人を立ち上がらせる、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

聖 書

聖書の言葉を聞きましょう。ヨハネによる福音書14:1〜11(新共同訳より抜粋)

*当ブログ全体における聖書の引用を適切な範囲内で行うため、後ほど聖書箇所のみ記載し、本文をカットすることがあります。後からご覧になる方は、該当する聖書箇所を日本聖書協会の「聖書本文検索」か、手元に新共同訳聖書がある方はそちらからお読みください。

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交読文

詩編の言葉を読み交わしましょう。詩編98:1〜9(新共同訳交読詩編より抜粋)

交読詩編付きの『讃美歌21』をお持ちの方は、後ろの方に載っています。司会と会衆で交互に読んでいきますので、皆さんは一段下がったところと太字のところをお読みください。(お立ちください)

 

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jplenioによるPixabayからの画像

 メッセージ

キリスト教主義の幼稚園にいると、たまに、こんな質問を子どもたちが持って来ます。「イエス様って、今どこにいるの?」……なんて答えようか迷っていると、さらに厄介な要求がついて来ます。「ねえねえ、神様を見せて!」……白状すれば、子どもたちが満足する答えを返せたことはありません。

 

毎回しどろもどろになって、「僕もどこにいるのか分からないんだ」「神様、教えてくれないんだ」と正直に愚痴りたくなります。ちょうど今日、イエス様に向かって叫んだトマスのように……「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか!」

 

十字架にかけられる前から、イエス様のいる所は、イエス様の行き先は、弟子たちにもよく分かりませんでした。急に、山の中へこもったり、湖の上に現れたり、ユダヤ人の嫌うサマリア人の村へ行ったり、「いったい次はどこへ行く気だ……?」と振り回される毎日でした。

 

どうやら、イエス様を殺そうと計画している者たちがいる……そのことが分かってなお、この方は危険な町へずんずん入って行きました。一緒にいた弟子たちは、どこへ行こうと、たとえ死んでも離れない!……という強い覚悟で従っていました。でも、イエス様が何をする気か、どこへ行く気か、分かったためしはありません。

 

食事中、「わたしがどこへ行くのか、あなたがたは知っている」と言うイエス様に、トマスは驚いて言いました。質問というより、抗議に近いでしょう。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか」今まで私たちに行き先を教えたことなんてないでしょう? 知っているはずがありません!

 

「イエス様ってどこにいるの?」と無邪気に聞いてくる子どもたちへ「君はもう知っているよ」と答えるくらいずるい話。いやいや、僕は一度も見てないよ。私は会ったことないよ。はぐらかさないで、どこにいるのか、どこへ行ったのか教えてよ……ところが、イエス様は私たちに満足できない答えを返します。

 

「わたしは道であり、真理であり、命である」「あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる」……意味不明な返答ですよね? イエス様の行く場所はやっぱり弟子たちに分かりません。「父のもとへ行く」というのは「神様のもとへ行く」という意味ですが、どうしたらそこへ行けるのか、はっきり教えてくれません。

 

あなたたちは私の行くところも、その行き方も知っている。私の父、神様のもとへ行く方法を知っている。本当にそうなら「ああ、確かにこの道は知っている」と分かるように地図とか写真とかゴールを見せてほしいですよね? フィリポも加勢して訴えます。「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」

 

ところが、これにも満足な答えをイエス様は返しません。やっぱりずるい返答をします。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ」……私を知っているなら、もうそれが全てだよ。父なる神も示されているし、私が行くところ、父の家、神の家も示されている。

 

もし、牧師である私が、「私を見てください! そうすれば、私の内にいる神様が分かります! 私を見た人は神を見たんです!」なんて言い出したら、非常に高慢ですよね? よほど自分に自信がないと、そんなことは言えません。しかも、否定すれば失礼になるから、相手の方も苦笑いするしかありません。なるほど、確かにご立派ですね……と。

 

私を見たら、私の父のことが分かる。私の神のことが分かる。だから、あなたたちは、もう見たいものを見ているし、知りたいものを知っているんだ! きっと誰一人、この答えに満足した人はいないでしょう。彼らはその後、見ることになります。神様を父と呼ぶ人が、十字架にかけられ、犯罪者として処刑され、みんなに見捨てられ、死んでいくのを。

 

弟子たちはイエス様を見て、神様を知ることができたんでしょうか? 十字架にかかったイエス様が、どこへ行ったか分かったんでしょうか? 同じところへ行く方法を彼らも理解したんでしょうか? いいえ、分かりませんでした。彼らは、墓に納められたイエス様が、三日目に姿を消したとき、やっぱりどこにいるのか分かりませんでした。

 

ある女性は、亡くなったイエス様が復活して、自分の背後に立ったとき、しっかり振り返っても、それがイエス様だと気づきません。もう見ているけど、理解せず、「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません」と泣きました。

 

また、ある弟子たちは、エマオの村へ向かっていたとき、復活したイエス様と長時間一緒に話をしました。しかし、やっぱりそこにいるのがイエス様だと分かりません。もう見ているし、心が燃えているけど、イエス様がパンを割く仕草を見せるまで、一緒にいたことに気づきませんでした。

 

「わたしは道であり、真理であり、命である」「わたしを見た者は、父を見たのだ」……そう語るイエス様は、常に答えを見せていました。私が一緒にいるよ、私がいるところに父がいるよ、神様がいるよ、あなたは神と共にいるよ、今、一緒に神の国へ向かっているよ……私たちはイエス様と一緒にいて、そのことを知っているのに、分からないと言う。

 

去年、ドキッとする出来事がありました。幼稚園の先生たちから、こう言われたんです。「先生、○○君が先生を見て『イエス様だ!』って言ったんです。すごいですよね?」……光栄なことかもしれませんが、正直、怖くなりました。すぐ、子どもたちに「僕はイエス様じゃないんだよ」と説明したくなりました。

 

違うんだ、ここにいるのはイエス様じゃなくて、ただの三十路のオッサンなんだ。臆病で、怠惰で、優柔不断な、ガッカリするような人間なんだ。でも、実はそのとき、小さな子どもが僕に教えていたんです。「イエス様はそこにいるよ。あなたの前に、あなたの後ろに、あなたの隣にいるんだよ。あなたの中に、あなた自身に現れているんだよ」

 

「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません」と言う弟子たちに、イエス様は、「わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている」と言いました。そう、知っているんです。もう私が歩いている道だから。一緒に進んできた道だから。あとは、信じるだけなんです。

 

神様が分からない、イエス様が分からない、いつも見失ってばかりいる、あなたのところ、あなた自身に、キリストは今も現れています。あなたの道が、イエス様のいる道が、これからも照らされますように。

 

讃美歌

讃美歌21の573番「光かかげよ、主のみ民よ」を歌います。讃美歌21をお持ちでない方は、そのままお聞きいただき、心で賛美を合わせましょう。(お立ちください)

 

使徒信条

教会の信仰を告白しましょう。使徒信条(讃美歌21の93-4Aです)。

 

我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがへり、天に昇り、全能の父なる神の右に坐したまへり、かしこより来りて、生ける者と死ねる者とを審きたまはん。我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交はり、罪の赦し、身体のよみがへり、永遠の生命を信ず。アーメン。(*着席のジェスチャー)

 

とりなし

神様から委ねられた、とりなしの務めを果たしましょう。

 

司会:神様、あなたは祈りに応えて恵みを与えてくださいます。どうか今、わたしたちがささげる祈りをお聞きください。

司会:世界の国民と政府のために祈ります。

会衆:主よ、政治に携わる人々に、知恵と勇気と良心を与え、全ての場所に、自由と平和をもたらしてください。

司会:世界に広がる全ての教会のために祈ります。

会衆:主よ、教会を聖霊によって力づけ、その信仰を新たにし、私たちの一致と結びつきを強めてください。

司会:教会員のために祈ります。

会衆:主よ、私たち全てを、御言葉によって豊かに養い、あなたの愛と平和を伝える者として送り出してください。

 

司会:一緒に礼拝できなかった人のために祈ります。

会衆:主よ、病気や衰え、仕事や様々な事情のために、一緒に礼拝できない人たちを、あなたが癒し回復してください。

司会:身近な人のために祈ります。

会衆:主よ、私たちの家族や友人、仲間たちが、あなたの愛を知れますように、私自身を用いてください。

司会:幼稚園、教会学校、地域の子どもたちを覚えて祈ります。

会衆:主よ、子どもたちの健康と安全を守り、疲れを癒し、安らぎと成長をもたらしてください。

司会:苦しんでいる人のために祈ります。

会衆:主よ、病気や怪我、悩みや苦しみを抱える人たちに、あなたからの平安と、必要な助けを与えてください。

司会:今も生きておられ、とりなしてくださる方、主イエス・キリストのお名前によって祈ります。

一同:アーメン。

 

主の祈り

共に、イエス様が教えられた『主の祈り』を祈りましょう。

 

天にまします我らの父よ。

願わくは御名をあがめさせたまえ。

御国を来たらせたまえ。

みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。

我らの日用の糧を今日も与えたまえ。

我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。

我らを試みにあわせず、悪より救いだしたまえ。

国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり。

アーメン。

 

献 金

感謝の献げ物として献金をします。配信を見ておられる教会員の方は、郵送する献金袋に入れて、また後日来られたときにおささげください。

 

讃美歌

マスクをしたままで、オンライン賛美歌「わたしたちは旅人」(©️柳本和良)を歌いましょう。(お立ちください)

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祝 福

共に、神様の祝福を受けましょう。

 

派 遣

わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことはできない。(ヨハネによる福音書14:6より)

 

祝 福

神がわたしたちを憐れみ、祝福し、御顔の輝きをわたしたちに向けてくださいますように。あなたの道をこの地が知り、御救いをすべての民が知るために。(詩編67:2〜3)

 

報 告

本日も、教会に集まって、配信を通して、日曜礼拝にご参加くださり、ありがとうございます。先週の小規模礼拝は、教会に集まった 名、同時に視聴された 名、計 名の出席でした。後から配信や原稿を見て、祈りを合わせてくださった方も感謝致します。

 

来週は、信徒立証礼拝として教会員の方が信仰の証をしてくださいます。個人のお話が含まれるので、来週に関しては、教会員のみの限定公開で配信をさせていただきます。配信のリンクは、先週の定期教会総会の議事録と一緒に送らせていただきます。

 

また、5日水曜日の在宅聖研祈祷会は、牧師休暇のため、ライブ配信ではなく、あらかじめ収録した動画を13時半からプレミア配信で見られるようにしています。牧師に相談や用事のある方は、6日(木)以降にお問い合わせください。

 

なお、会衆礼拝の再開は2週間毎に検討し、決定次第、教会員への連絡網とホームページでお知らせします。5月の再開は厳しいかもしれませんが、皆さんの心と体と魂の健康が守られるようにお祈りしています。また日曜日まで、神様の平和がありますように。