ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『神の人種差別?』 マタイによる福音書15:21〜31

在宅礼拝 2021年2月7日


『神の人種差別?』在宅礼拝 2021年2月7日

 

案 内

華陽教会では、感染拡大による岐阜県の医療提供体制の逼迫を受けて、会衆が集まる礼拝を休止し、配信等による在宅礼拝へ切り替えています。共に今、見えない教会に集められていることを覚え、互いのために祈りを合わせ、神の招きにあずかりましょう。(*前奏)

 

招 詞

それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。(コリントの信徒への手紙二12:10)

 

讃美歌

旧讃美歌300番「みそらのかなたに」を歌います。54年版讃美歌をお持ちでない方は、そのままお聞きいただき、心で賛美を合わせましょう。

 

お祈り

共に祈りを合わせましょう。

 

◆愛と平和の源である私たちの神様。今日もまた、あなたによって守られて、在宅礼拝を始めることができ、感謝致します。どうか今、自宅で、施設で、職場で、屋外で、あなたの言葉を受けようとしている人を祝福してください。

◆私たちの神様。この一週間も、思いと言葉と行いによって罪を犯し、あなたを悲しませてしまいました。どうか今、語るべきことを語り、聞くべきことを聞き、行うべきことを行えるように、私たちの道を開いてください。

◆私たちの神様。この一週間も、心と体と魂が傷つき、疲れる出来事がありました。どうか今、挫折した者に慰めを、失敗した者に励ましを、傷ついた者に希望をもたらし、回復させてください。

◆私たちの神様。この一週間も、困っているとき、弱っているとき、苦しんでいるとき、あなたがそばにいてくれました。どうか今、打開する力を、解決の光を、解放の喜びを、あなたの愛する人たちと分かち合わせてください。

◆人と人との間におられる、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

聖 書

聖書の言葉を聞きましょう。マタイによる福音書15:21〜31(新共同訳より抜粋)

*当ブログ全体における聖書の引用を適切な範囲内で行うため、後ほど聖書箇所のみ記載し、本文をカットすることがあります。後からご覧になる方は、該当する聖書箇所を日本聖書協会の「聖書本文検索」か、手元に新共同訳聖書がある方はそちらからお読みください。

www.bible.or.jp

 

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Sabine SchulteによるPixabayからの画像

メッセージ

キリスト教会の礼拝へ行くと、「聖餐式」や「ミサ」と呼ばれる食事があります。カトリック教会では毎週、プロテスタント教会では月一くらいの頻度で行われます。みんなでパンと葡萄酒、あるいはパンと葡萄ジュース、もしくはパンのみをいただいて、神の子であるキリストが、十字架につけられ、殺されたあと、三日目に復活したことを記念する。

 

たまたまその日、初めて教会に来た人は、この見慣れない儀式に特別なものを感じるでしょう。きっと、あのパンと葡萄液を飲んだ人は良いことがあるに違いない。あれを受けるために、みんな教会へ来ているに違いない。けれども多くの場合、洗礼を受けていない人、信仰を告白していない人は、この食事を受けられません。

 

「クリスチャンですか?」「信徒の方ですか?」と質問され、「違う」と言えば、パンをもらいに行くことも、杯を受け取ることも控えるように言われます。「これは洗礼を受けた人が食べるものです」「あなたはまだ受けられません」……知らずに受け取って飲んだ場合、信徒の方からものすごく怒られることもあります。

 

「あなたは食べちゃいけないのに!」「それをいただいちゃダメなのに!」……ろくな説明もないまま進められていく礼拝で、ただ周りの真似をしただけなのに、そうやってひどく責められる。自分には、ここへ来る資格がないと思わされる。そうして教会を去った人、おそらくたくさんいるでしょう。

 

反対に、洗礼を受けている人たちも、自分たちだけがパンと杯を受けるとき、しばしば心が痛くなります。せっかく教会に来てくれた友人が、やっと礼拝に出てくれた家族が、「あなたはダメ」と言われて、一緒に食事を味わえない。隣で自分だけがパンを受け、杯を飲み、何だか差別している気分になる。

 

華陽教会も、昔はメソジストの教会らしく、聖餐台の前に出て、みんなで机を囲み、パンと杯をもらっていました。お互い輪になって、キリストに結ばれた神の家族であることを覚えながら、共に食事を分かち合うためです。しかしその間、座席にポツンと残された、教会員の家族や友人、初めて教会に来た人を取り残された気分にする。

 

だから、いつの間にか、前に出て食卓を囲むのをやめ、それぞれの座席へ、パンと杯を配る形になりました。それでも、同じ礼拝に参加しながら、自分はパンを食べられて、隣の人は食べられない……という状況を避けることはできません。クリスマスに来てくれた聖歌隊の学生も、イースターに来てくれた幼稚園の子どもたちも、食べられない。

 

仕方がない。この食卓に招かれているのは、信仰を告白して洗礼を受けた、教会の民だけだから。イエス様も、自分を信じる人たちへ「このように行いなさい」と言われたのだから……まあ、どこからが信仰者と言えるのか、正直分からないけれど。ちょっと煮え切らない感覚が、皆さんの中にもありますよね?

 

聖餐式は、イエス様が私たちと共にいることを覚える式でもありますが、もし、ここにイエス様がいたら、あの人にもパンを渡さないだろうか? この人にも杯を回さないだろうか? 「わたしは教会の信徒にしか、パンと杯を与えない」なんて言うだろうか? そうやって、一度は考えたことがあるんじゃないかと思います。

 

イエス様はそんなふうに人を差別する人じゃなかったよね、と……でも、今日の聖書日課で選ばれているエピソードは、まさに神の子の人種差別っぽい発言が出てきます。「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」……自分に助けを求めてきた異邦人、いわゆる非イスラエル人の女性に向かって放った言葉。

 

彼女はティルスとシドンの地方、つまり、異教徒の多い外国人が住む土地に生まれたカナン人。かつて、イスラエル人と争い、異なる信仰をもたらしてきた先住民です。あまり歓迎できる相手じゃありません。そんな彼女が、イエス様へ必死に叫んできます。「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」

 

異教徒の出身とはいえ、娘のために助けを求める女性です。しかも、イエス様のことを「ダビデの子」と呼びかけて、イスラエルの神に遣わされた特別な者だと認めている。ある種の信仰告白です。「私は異邦人ですが、あなたのことを信じています」「どうか娘を助けてください」というメッセージ。

 

もちろん、非イスラエル人が改宗者として認められるには、ただ「信じている」と言うだけでは済まされません。男性なら、生殖器の包皮を切り取る割礼を受け、信仰共同体の一員になったしるしを求められました。しかし、女性の場合は改宗者として認められる規定がありません。彼女にできるのは、ただ、訴えることだけです。

 

しかし、イエス様の反応はびっくりするほど冷たいもの。「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」……あなたはイスラエルの者じゃない。私が遣わされた相手じゃない。そんなふうに聞こえる言葉。一方、女性はめげずに答えます。「主よ、どうかお助けください」

 

すると、イエス様は挑発的な返事をします。「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」……異邦人の女性の子どもを「犬」呼ばわり。完全にアウトな発言です。今だったら炎上必至でしょう。外国人、異邦人に対する暴力的な反応です。この排他的な言動に対し、女性はなおも食い下がる。

 

「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」……もう、何が何でも娘を癒してもらおうとする母親の必死さが伝わってきますよね。すると、イエス様はこれまでと打って変わって、急にトーンダウンします。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように」

 

同時に、彼女の娘は癒された……このエピソードから、皆さんは何を感じるでしょう? 様々な疑問が湧いてきます。イエス様は、結局何がしたかったんだろう? あまりにしつこい女性に根負けして、しぶしぶ癒してあげたんだろうか? 本当はイスラエルの人たちだけを救いたかったんだろうか?

 

私にはそう思えません。イエス様はどういうわけか、異邦人の土地へわざわざやって来て、彼女の娘を癒すとすぐそこを去り、ガリラヤへ帰ってしまいます。最初から、彼女を助けることが目的であったかのようです。きっと、異邦人の女性も期待したんでしょう。こんな所までやって来たのは、カナン人の私たちも助けるためですよね?

 

けれども、イエス様についてきた弟子たちは、なぜ、この地までやって来たか、分かっていないようでした。彼女を見るとこう言います。「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので」……「娘を助けて!」と叫ぶ女性を「落ち着かせましょう」でも「助けてやりましょう」でもなく「追い払ってください」

 

ひどい扱いに見えますが、現在のキリストの弟子、私たちはどうでしょう? 神様に助けを求めてきたかもしれない初めての人たちが、何も知らずにパンと杯を得ようとしたら、「あなたは違う!」と、その食卓から追い払う。どうすれば一緒に分かち合えるかより、何がふさわしいかを気にしてしまう。

 

弟子たちも、カナン人の女性が救いを得ようと、天の恵み、命のパンを得ようとしたら言いました。「イエス様、その人は違います。パンをもらえる人じゃありません。追い払いましょう」……さあ、どうしたらいいでしょう? 異邦人の女性が、改宗の方法も用意されていない存在が、そこで、一緒にパンを受けるにはどうしたらいいか?

 

イエス様は新しい道を切り開きます。自分に対する彼女の必死なやりとりを見せ、弟子たちに宣言します。見なさい、この人の信仰は立派だ、彼女の願いは叶えられる。見なさい、新しい神の民を、私と一緒に食卓へ着く者を……そうして、ティルスとシドンの地方を去ってすぐ、イスラエル人のいるガリラヤで、人々を同じように癒されます。

 

去年、華陽教会では、訪問礼拝についてみんなで考えました。なかなか教会へ来られない信徒の家で、庭先や玄関で、一緒に礼拝が守られるように。その中で、信仰告白をしていない家族のことを相談してくれた人がいました。訪問礼拝で聖餐式をしてくれても、家族が一緒に受けられない。せっかくだから、一緒に何かできないか?

 

そこで、信仰を告白していない人とも神の祝福を分かち合える食事、「愛餐式」の式文を新しく作ることになりました。さらに、訪問礼拝で聖餐式か愛餐式かを選べるようにしたところ、別の方からも提案がありました。聖歌隊の学生たちが来てくれるクリスマスや、子どもたちが来てくれるイースターの礼拝でも、彼らと一緒にその食卓へつけないか?

 

やがて1月1日の元旦礼拝で、初めて、帰省して来た家族と一緒に、教会で愛餐式を行うことができました。その食事は、みんなが教会に集まれなくなった今日の礼拝でも、聖別が困難な聖餐式に代わって、それぞれの自宅から、一緒にあずかることができます。

 

たぶん、ご家族が、同居している方が、一緒に礼拝でパンを受けることは、不可能だと思っていた方もいるでしょう。そんなことを頼んだら「分かっていない」「間違っている」と怒られるんじゃないか? そう感じていた人もいるでしょう。しかし、イエス様は、あなたが誰かとパンを受けようとするとき、恵みを分かち合おうとするとき、言うんです。

 

「あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように」……この食卓につく者がますます広がっていくように、神様の憐れみを求めて歌いましょう。

 

讃美歌

讃美歌21の35番「主よ、あわれみたまえ」を歌います。讃美歌21をお持ちでない方は、そのままお聞きいただき、心で賛美を合わせましょう。

 

とりなし

神様から委ねられた、とりなしの務めを果たしましょう。

 

◆神様、あなたは祈りに応えて恵みを与えてくださいます。どうか今、わたしたちがささげる祈りをお聞きください。

◆世界の国民と政府のために祈ります。主よ、政治に携わる人々に、知恵と勇気と良心を与え、全ての場所に、自由と平和をもたらしてください。

◆世界に広がる全ての教会のために祈ります。主よ、教会を聖霊によって力づけ、その信仰を新たにし、私たちの一致と結びつきを強めてください。

◆教会員のために祈ります。主よ、私たち全てを、御言葉によって豊かに養い、あなたの愛と平和を伝える者として送り出してください。

◆一緒に礼拝できなかった人のために祈ります。主よ、病気や衰え、仕事や様々な事情のために、一緒に礼拝できない人たちを、あなたが癒し回復してください。

◆身近な人のために祈ります。主よ、私たちの家族や友人、仲間たちが、あなたの愛を知れますように、私自身を用いてください。

◆幼稚園、教会学校、地域の子どもたちを覚えて祈ります。主よ、子どもたちの健康と安全を守り、疲れを癒し、安らぎと成長をもたらしてください。

◆苦しんでいる人のために祈ります。主よ、病気や怪我、悩みや苦しみを抱える人たちに、あなたからの平安と、必要な助けを与えてください。

◆今も生きておられ、とりなしてくださる方、主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

主の祈り

共に、イエス様が教えられた最も基本的な祈り、『主の祈り』を祈りましょう。讃美歌21の93-5Aです。

 

天にまします我らの父よ。

願わくは御名をあがめさせたまえ。

御国を来たらせたまえ。

みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。

我らの日用の糧を今日も与えたまえ。

我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。

我らを試みにあわせず、悪より救いだしたまえ。

国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり。

アーメン。

 

愛 餐

本日は、信仰を告白した人があずかる聖餐式に代わって、共に礼拝をささげる全ての人と神の祝福を分かち合う愛餐式を行います。配信を見ながら礼拝をささげている方も、お家にあるパンと水を用意して、一緒にこの食事にあずかれます。用意するパンと水は特別なものではなく、普段の食卓に出てくるもので大丈夫です。

 

食卓への招き

かつて、私たちの主イエス・キリストは、パンを求めて集まってきた群衆に言われました。「わたしは命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。わたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。(ヨハネ 6:35、57より)」

 

また、主は水を求めてやって来たサマリアの女性に言われました。「わたしが与える水を飲む者は、決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。(ヨハネ 4:14)」

 

主は、少年から受け取ったわずかなパンを祝福し、空腹だった5千人以上の人に分けられ、全ての者が食べて満腹になりました。この食卓は、キリストが神の国のしるしとしてなされた、あの「5千人の給食」のように、主の祝福による神の国のしるしです。

 

信仰を告白した人があずかる聖餐式ではありませんので、神の祝福を分かち合いたい方は誰でも、パンと水を受け取って、共に食事を味わいましょう。

 

感謝の祈り

感謝の祈りをささげます。

 

恵みと祝福の源なる私たちの神様、あなたは私たちに「命のパン」「命の水」をお与えになります。足りないものを満たし、欠けている力を養います。あなたは私たちを死の恐れから解放するため、御子イエス・キリストを遣わされ、貧しい者、嫌われ者、負い目のある者たちと、共に食事にあずかりました。

 

様々なやましさや後ろめたさがある人も、悩みや葛藤がある人も、疑い迷いがある人も、あなたは隔たりなく近づかれ、同じテーブルにつかれます。あなたが与えるパンと水は、信じない者を信じる者に、悲しむ者を喜ぶ者に、争う者をとりなす者に変えられます。どうか今、あなたから受けた恵みと祝福を、私たちも互いに分け合う者とならせてください。あなたの愛と平和が豊かに現されますように。アーメン。

 

分かち合い

共に、パンと水を分け合いましょう。普段、聖餐を受けられない人も、このパンと水は、信仰を「告白している」「していない」にかかわらず、一緒にいただくことができます。どうぞ、用意されたパンと水を受け取って、神の祝福にあずかりましょう。

 

(*配餐者はパンを配る)

主は言われます。「わたしの父が天からまことのパンをお与えになる。(ヨハネ6:32)」私たちもいただいたパンを食べましょう。あなたの内側から、生きた力が溢れ出るように。

 

(*配餐者はカップに水を注ぐ)

主は言われます。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。(ヨハネ7:37)」私たちもいただいた水を飲みましょう。あなたの内側から、生きた水が流れ出るように。

 

感謝の祈り

感謝の祈りをささげましょう。

 

愛と平和の源である私たちの神様、今ここで、あなたの祝福を分かち合う食事にあずかれたことを感謝致します。日々、あなたがもたらされる日用の糧も、心を養う御言葉の糧も、必要なとき、必要な仕方で備えられてきました。

 

足りない者には与える者が、失くした者には見つける者が、一人の者にはつながる者が与えられます。どうか今、私自身も、あなたからいただくつながり、発見、恵みの数々を、共に分け合う者として、送り出してください。主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

献 金

感謝の献げ物として献金をします。礼拝のライブ配信に参加されている方は、また後日、教会に来られたときにおささげください。

 

讃美歌

オンライン讃美歌「どうか平和の主が」(©️柳本和良)を歌います。オンライン讃美歌の楽譜は、著作者の許可を得て掲載しています。

 

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祝 福

共に、神様の祝福を受けましょう。

 

平和のうちに、この世へと出て行きなさい。主なる神に仕え、隣人を愛し、主なる神を愛し、隣人に仕えなさい。(マタイによる福音書28:19〜20)

 

平和の源である神があなたがた一同と共におられるように、アーメン。(ローマの信徒への手紙15:33)

 

報 告

本日も、配信を通して在宅礼拝にご参加くださり、ありがとうございます。先週の在宅礼拝は、私と奉仕者の5名、同時に視聴されていた15名、計20名の出席でした。後から配信や原稿を見て、祈りを合わせてくださった方も感謝致します。

 

配信等による在宅礼拝は2月21日まで延長して行います。会衆が集まる礼拝の再開は、2週間毎に役員会で検討し、決定次第、教会員への連絡網とホームページのお知らせでお伝えします。また日曜日まで、皆さん一人一人に神様の平和がありますように。