ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

ワクチン接種に恐怖を感じている人へ

2021年6月30日

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Liz MasonerによるPixabayからの画像

ワクチン接種・マスク着用・アルコール消毒に関して「同調圧力を感じる」「危険性を無視してないか」という不安の声が、私の知り合いからも聞こえてくるようになりました。

 

心配になる気持ちは痛いほど分かるのですが、一歩立ち止まって、自分を不安にさせている根拠が正しいかを見つめないと、医療拒否や他者を巻き込む危険な態度につながってしまいます。

 

なぜ、こんなことを書いているかというと、私自身が、不安や恐怖から生まれた疑問を、よく検証しないまま共有してしまったことで、周りにも極端な恐怖を抱かせたり、安全が確認されているものを危険だと思わせてしまったことがあるからです。

 

それは、東日本大震災で福島第一原発事故が起きて以降、約6年にわたって、私自身が放射能汚染に関する様々な不安や恐怖を呟いていたときの経験です。最近、何人かの方が指摘しているように、ワクチンに対する恐怖を訴える人々の様子は、放射能汚染の恐怖を訴えていた頃の私とよく似ている気がします。

 

過去に、私がSNSで投稿した内容の中には「原発事故以降、癌や奇形児が増えている」「福島から出荷されている食品は危険」といった記事のシェアや「自分が住んでいる関東も放射線量が高くて不安」といった呟きが含まれました。

 

それらの多くは正確でない、確認不十分な内容か、検証不十分な言説を元にした呟きで、デマや不正確な情報の拡散に、私も加担してしまいました。

 

被曝の不安にさらされていた福島とその周辺の方々、私が間違った情報を拡散してしまった方々、私が耳を傾けなかった放射線に関する正しい指摘をしておられた方々に、この場では不十分ですが、深くお詫び致します。

 

当時も、放射能に関するデマや不正確な情報を指摘する専門家の方々がいましたが、あるキーワードが聞こえてくる度に、私はその人たちの声を「御用学者」や「フェイク」と一括りにして切り捨てていました。

 

そのキーワードは「恐怖を煽るな」「風評被害」という言葉です。以前、別の記事にも書きましたが、私はこの2つが出てくるだけで「相手は自分を黙らせようとしている」「正しい情報を拒んで思考停止している」という思考回路になっていました。

 

専門家に限らず「それって違うんじゃない?」「正しくないんじゃない?」と指摘する全員が、被爆の危険を軽視していると思っていました。(ちょうど、ワクチンの効果と安全性を説明する専門家に対して、副反応やアナフィラキシーを軽視していると感じてしまう人のように……)

 

もちろん、専門家の人たちは被爆の危険を軽視していたわけではありません(ワクチンの安全性を説明する医師も、リスクがないと言っているわけではありません)。後からよく見返せば、ちゃんとした根拠をもって、放射線量がどれくらいあったら危険か、それらの基準がどう設けられているかを丁寧に説明していました。

 

しかし、どれだけ数値をもとにした説明があっても「10年後には異常が出てくる」「何かの危険が無視されている」という結論ありきで、反論できる証拠・情報を探し続けていました。恐ろしい可能性が目の前にあるなら、たとえ数値で安全が確認されたと言われても、信頼すべきでないと思っていました。

 

専門家や政府が語る「直ちに危険はない」「因果関係はない」という言葉に疑いを持つことは「正しさの押し付け」でも「盲信」でもないと思っていたのです。しかし、自分の持つその疑いが正しいか、検証する姿勢は不十分でした。

 

「本当に危険だったら手遅れになる」という意識が、自分の疑いに対する検証を後回しにし、恐怖を煽って警戒を促すことへ積極的になっていました。その結果、「自分も汚染された地域に住んでいる」と思わせたり、「食べちゃいけないものを食べてしまった」と思わせて、苦しませた相手がいたかもしれません。

 

しかし、「本当に○○が原因で病気になったら」「本当に○○しなくて滅んだら」取り返しがつかないから、まずは警戒し、注意喚起し、対策を促すことは間違ってない……そんなふうに思いこんでいました。

 

けれども、自分の持つ疑いを検証せずに、自分の行動が間違っていた場合どんな悪影響をもたらすか、十分考慮しない態度は、陰謀論や破壊的カルトに巻き込まれた人たちが加害者に転じてしまう状況と変わりませんでした。

 

極端に聞こえるかもしれませんが、「我々に従わないと世界が滅ぶ」と言われて、本当に世界が滅ぶかもしれないと怖くなっても、その「かもしれない」が正しくなかった場合の影響を考えないと、愚かな結果に陥ることは、大体の人が理解できると思います。

 

「あそこの地域は汚染されているかもしれない」も「ワクチンを打つのは危険かもしれない」も、その疑いが正しくなければ、膨大な時間と労力を奪ったり、防げるはずのリスクを防げなくなってしまうのです。

 

疑似科学も、ニセ医学も、陰謀論も、破壊的カルトも、「10のうち9の情報を疑わせて、自分が出す1の情報を信じさせる」という構造を有しています。知らず知らずのうちに、私もその構造にはまり、自分の疑いを支持しない情報をシャットダウンしていました。

 

やみくもに放射能の危険や恐怖を訴える自分の行為が健全でないと自覚したのは、皮肉にも、私の問題視している破壊的カルトが、同様に放射能の恐怖を煽って、信者獲得に動いていたからです。そこでは、誇張したデータや誤った情報が平気で使われ、危険を避けるため、自分たちの指示に従うよう誘導が行われていました。

 
また、放射能の不安を共有していたグループの中で、反ワクチンの言説が入り込み、問題を感じたことも、自分を振り返るきっかけになりました。そこで共有された記事の情報は、何年も前に誤っていることが分かって医学的に撤回された内容でした。しかし、恐怖から、不安から、大人にワクチンを打たせてもらえない子どもたちは、ワクチンで防げる病気の危険を軽視され、リスクにさらされることになります。

 

自分自身が陥っている状況と2つを比べて「似ているかもしれない」と思った私は、そこから少しずつ、自分が「危険だ」と訴えていた地域に住むこと、農産物の安全性について、調べ直すようになりました。すると「直ちに危険はない」「因果関係はない」という言葉は、本当に様々な検証がなされた上で、それでも慎重に発表された言葉なんだと分かってきました。

 

同じ反原発の人の中でも、不正確な情報については警鐘を鳴らし、過度に恐怖を煽ったり、デマを拡散したりすることを止めるよう注意している人もいました。それらの誠実な声も、いつの間にか聞こえなくなっていたことに、ようやくそのとき気がつきました。

 

一方で、「放射能はこれで防げる」「ワクチンの代わりにこれが効く」と安易な解決策を述べるものには、ニセ医学や疑似科学が元になった代替医療や民間療法が多く含まれることも見えてきました。調べ始めると、破壊的カルトの商法に使われているグッズにも、同じようなものが多々見られます。

 

全てが金儲けを目的にしているとは限りませんが、その方法が有効だと信じた人たちに悪影響が出た場合、責任を取ってくれる、取ることができる人は存在しません。

 

「放射能は危険だからできる限り遠くへ引っ越せ」「ワクチンは危険だからなるべく打つな」そういった「恐怖を煽ってシンプルな解決策を示してくれるもの」の多くは、信じた人たちの行動になかなか責任を持ちません。きちんとしたデータと根拠で間違いを指摘されても、調べ直したり、訂正したりすることがありません。私もその態度に加わってしまった1人です。

 

破壊的カルトやマインドコントロールの知識がある程度あっても、自分が似たような状況に陥っていると気づくまで、自分自身を顧みるまで、6年もかかってしまいました。恐怖・疑い・不信感から生まれてくる言説を信じた場合、自ら検証することがいかに苦しく、不本意で、難しいかを実感しています。

 

どうか、何かの安全を疑う際も、何かの効果を疑う際も、あるいはその逆を疑う場合も「自分が持っている疑いは本当に正しいか」それ自体も問い続ける姿勢を忘れないでください。そして、できる限り、「どういう証拠や材料が出てきたら、この主張は間違っていると認めるか」自分の中にフェアな基準を持つよう心掛けてください。

 

いつでも自分の間違いを認める準備があることは、ニセ科学や陰謀論や破壊的カルトに巻き込まれ、加担してしまうリスクから、必ずあなたを守ってくれます。恐怖も不安も疑いも、生きる上で大切な要素ですが、それらは無条件で正しい行動を与えてくれるものではありません。大切なのは、信じる根拠も疑う根拠もきちんと検証することです。

 

先日、6月26日に、私もモデルナ製の新型コロナワクチン1回目を接種しました。打ってから3〜4時間後に筋肉痛っぽい症状が肩に出てきましたが、刺されたときの痛みはほとんどなく、それ以降、特に大きな副反応もなく過ごしています。

 

次の接種は4週間後です。もしかしたら、今度は熱や倦怠感が出てしまうかもしれませんが、極端に恐れることよりも、世界中で検証され、積み重ねられてきた「ワクチンを打つベネフィットはリスクに勝る」という結果を信頼して、2回目も受けてきたいと思います。