ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『終末が語りづらい』ルカによる福音書17:20〜23、フィリピの信徒への手紙1:3〜7

聖書の学びと祈りの会 2025年1月17日


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案 内

華陽教会では水曜日の昼1時半〜2時半に行っている聖書研究祈祷会を第3金曜日の夜7時半〜8時半に「聖書の学びと祈りの会」として行っています。共に今、教会にいる人も、配信を聞いている人も、互いのために祈りを合わせ、聖書の言葉を味わいましょう。

 

讃美歌

讃美歌21の410番「昇れよ、義の太陽」を歌いしょう。最後の「アーメン」はつけずに歌います。

 

お祈り

ひと言お祈りをします。共に心を合わせましょう。

◆救いの源である神様。今日もまた、あなたによって守られて、聖書の学びと祈りの会を始めることができ、感謝致します。どうか今、ここに集まった人たちと、自宅で、施設で、職場で、屋外で、あなたの言葉を求めている人を導いてください。

◆私たちの神様。牧師の休暇と出張のため、教会を留守にしていた12日の礼拝を、あなたが守り、導いてくださったことを感謝致します。どうか今、メッセージを代わってくださった鈴木重正先生と、奉仕者、会衆の上に、あなたの恵みが豊かにありますように。

◆私たちの神様。今度の日曜日も、牧師の出張のため、メッセージを役員に代読していただきます。どうか今、それぞれの教会の礼拝が守られ、共に、恵みを分かち合うことができるように、一人一人を導いてください。

◆私たちの神様。この一週間も、病人を癒し、隣人を支え、多くの助けを与えてくださったことを感謝致します。どうか今、引き続き助けを求めている人たちに、あなたの御手が差し伸べられ、良い知らせをみんなで受け取ることができますように。

◆人と人との間におられる、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

聖書朗読

聖書の言葉を聞きましょう。ルカによる福音書17:20〜23の新共同訳とフィリピの信徒への手紙1:3〜7の新共同訳を朗読します。

*日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、配信終了後に聖書箇所のみ記載し、本文をカットしています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

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LinaによるPixabayからの画像

メッセージ

 「裁きの日」「終末の日」「審判の日」「終わりの日」……こういった言葉に触れること、語ることに、慎重になってしまうのは、私だけではないでしょう。去年の夏に「カルトと終末」というテーマで『礼拝と音楽』という雑誌に、記事を書かせてもらったことがありました。

 そのときも思いましたが、年々「世の終わり」について、「主の日」について、語ることを敬遠する、避けようとする傾向が、自分の中で強くなっている気がします。その原因は改めて言うまでもありません。これらの言葉は、多くの破壊的カルトと結びつく単語になったからです。

 厄介なことに、「世の終わり」「終末」というテーマは、入信を促すための脅しとして、不安や恐怖をあおる材料として、度々カルトが使ってきたものです。「カルトが……」と言いましたが、実際には、私たちキリスト教会も、長い間、何なら今でも、洗礼を勧めるためのトピックとして、程度の差はあれ、語り続けているものです。

 洗礼を受けなければ、審判の日に救われない!……神の国、天の国に受け入れてもらえない!……その日が訪れる前に、信仰を告白して、信徒になりなさい!……あからさまにそうやって勧められた人もいれば、もう少しマイルドに言われた人もいるでしょう。あるいは、裁きについて、終末について、イエス・キリストの再臨について、あまりしっかり触れないまま、洗礼を受けた人もいるでしょう。

 何となく、神様を信じていたら、イエス様を信じていたら救われる、神の国に受け入れられると思っている。でも、イエス・キリストが、再びこの世に来られる日、「再臨の日」が来たときも、なお、信じていない人は、信じないまま死んだ人は、「救われない」と言うべきか、そうでないのか、分からない。

 教会に来てない家族や友人、あるいは、教会から去ってしまった、仲間のことを考えると、信じない人はどうなるのか、身内や周りはどうなるのか、突き詰めて考えたくはない。カルトみたいに、「終末が来る」と恐怖をあおり、「信じなければ救われない」と脅迫し、力任せに信者を増やしていくような、怖い団体になりたくない。

 とても健全な感覚です。一方で、「カルト」と思われたくなくて、「危険だ」と思われたくなくて、「裁きの日」「終末の日」に、触れなくなったことにより、余計に、私たちはその日について、裁きと救いについて、曖昧なまま、問いかけないまま、放置するようになりました。

 その隙を狙って、多くの教会が語らない「裁き」について、「終末」について、「私たちが教えます」と、既成教会に忍び寄る、乗っ取り型カルトも増えてきました。世の終わりがいつやって来るのか、救い主はどのように現れるのか、暗号を解きほぐすように、秘密をこっそり聞かせるように、囁く人たちが近寄ってきます。

 実際、こういう囁きは魅力的です。世界の終わりはどうなるのか、どうやって滅びを免れるのか、救われる方法を授けられ、みんなのために行動できる……家庭や、職場や、近所や、学校で、様々な問題に振り回されている自分でも、裁きの日に、どうしたら救われるかを知っている……そんな優位に立てるからです。

 しかし、イエス様は、世の終わりに、自分が再び訪れる、その日について語る際、はっきり警告していました。「あなたがたが、人の子の日を 一日だけでも見たいと望む時が来る。しかし、見ることはできないだろう。『見よ、あそこだ』『見よ、ここだ』と人々は言うだろうが、出て行ってはならない」「その人々の後を追いかけてもいけない」

 そう、キリストが再び来られる日のことを、私たちが見ようとしても、見つけようとしても、見ることはできないし、見せることもできません。見せようとする人がいても、ついて行ってはいけません。それは、イエス様が「追いかけてはいけない」と警告した人たちです。実は、「終わりの日を見ようとすること」「再臨の日を見つけようとすること」は、求められていないんです。

 聖書に出てくる数字を並べて、その日がいつか計算することも、聖書に書かれた象徴的な言葉を挙げて、メシアの登場を予測することも、求められていないんです。黙示録も、預言書も、世界情勢や、未来を予測するための「水晶玉」ではありません。これらは、世界の終わりが迫っていても、神の計画は滞ることなく進んでいる、という励ましのための文書です。希望を捨てないための言葉で、未来を詳しく知るための道具ではありません。

 きっと、中には「その日が来た」と分からなければ、「再び来られた救い主」に気づかなければ、救われることができないと、怯えている人もいるでしょう。でも、最初から、その日を「見て」知ることはできません。今が、その時かも分かりません。立派な信仰の持ち主なら、気づけるわけでもありません。どのタイミングで、何をしないとダメだとか、「秘密の攻略法」はありません。

 世の終わりの攻略法を探すこと自体、求められていないんです。イエス様が求めたのは強引に人を集めることでも、生活が破綻する献金でも、無理やり洗礼を受けさせることでもありません。恐怖心から伝道することでも、救われるために誰かを排除することでもありません。互いに愛し合うことです。平和を実現することです。それを願って、神様に祈り、頼ることです。

 また、神の国が訪れる「終末の日」を語るとき、イエス様ははっきり言いました。「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」

 もし、何かの事件や現象を通して、世の終わり、神の国の到来が、「自分だけ特別に見えた」と言い始めたら、「自分だけ特別に分かった」と言ってきたら、それは、神の国の到来ではありません。神の国は、誰かがみんなから離れたところで、こっそり知らされるものではありません。あなたがたの間にあります。皆さんの間にあります。

 何か、特別な秘密を知った者だけが、味わえるものではないんです。他の人が見えないまま放置され、自分だけ見えているものでもありません。信仰者なら「ここにある」「あそこにある」と言えるものでもありません。そう断言する人がいても、ついて行ってはいけません。それは、追いかけてはいけない「偽預言者」です。

 神の国がどこにあるのか、いつ来るのか、見えなくて、分からなくて、不安に思う方々は、どうか安心してください。神の国は、見える形では来ないからです。見えないこと、分からないことは、救いから外れたことを意味しません。復活したイエス様が、自分を見ても、自分だと分からなかった弟子たちに、何と告げたか思い出してください。

 「あなたがたに平和があるように」「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい」……同じように、キリストが再び来られる日、再臨の日に、あなたがイエス様を分からなくても、キリストの再臨を疑っても、「疑ったまま」にはされません。イエス様は、あなたが「信じない者」から「信じる者」となるように、ご自分を示してくださいます。

 パウロもそうでした。イエス様が復活してなお、疑い続け、あちこちでキリスト教徒を迫害していました。しかし、そんな彼にも、イエス様はご自分を示し、信じない者から、信じる者にされました。疑ったままにされませんでした。だからこそ、パウロはフィリピの信徒に向けて、力強く語ります。「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています」

 実は、フィリピの信徒も、問題なく、疑いなく、信仰生活を送れたわけではありませんでした。パウロの伝道旅行によって、ヨーロッパで最初にできた教会でしたが、パウロは間もなく、逮捕され、投獄され、解放後も、すぐテサロニケへ行ってしまいます。残された信徒たちは、その時代、白い目で見られ、ときには社会から排斥される仕打ちを受け、自分たちも逮捕されたり、殺されたり、家を荒らされたりしていました。

 よく見ると、複数の聖書箇所で、イエス様が語っている、「世の終わり」「終末の日」が訪れるときと、重なる体験をしています。誰かに攻撃され、争いが激化し、災害に巻き込まれ、命を脅かされる……もはや、この世に希望なんて見出せず、世界が終わりに向かっていく……神の救いをどれだけ待っても、一向にその気配がない。

 空を見ても、自分たちを助けてくれる、天の軍勢はやって来ないし、地上を見ても、救い主の姿はない。私はこのまま救われず、ただ終わっていくんだろうか? 悪に支配されたまま、滅ぼされていくんだろうか?……そんなとき、イエス様の言葉が響いてきます。「神の国は、見える形では来ない」「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」

 そう、神の国が訪れる「キリスト・イエスの日」は、私たちの目に見えませんが、既に始まっているんです。既に、イエス様は、私たちの間におられ、私たちと一緒に苦しまれ、私たちを支えているんです。神の国が完成する、神の支配が完成される「その日」まで、私たちは、見えない方と共に歩み、新しい変化をもたらされます。

 「世界の終わり」に思われる、迫害の時代を生き延びて、新しく私たちの時代へ、イエス様の教えと業を伝えてきた、信仰の先人たちのように……戦争や、災害や、事故や、事件を過ぎ越して、希望と励ましを語ってくれた、たくさんの証し人のように……見えない方との再会は、「既に」始まっていて、「今も」完成に向かっているんです。

 終末の日は、「救われる者」と「裁かれる者」に分けられる、「審判」で終わる日じゃありません。最後まで自分に従えない者を、見捨てられてなお、会いに来て、ご自分の弟子と呼ぶ方が、あらゆる人の間に立って、呼びかけに応えさせる日です。死んでなお、手を取って起こされ、応えないはずの者たちを、新しく応えさせる日です。

 死を越えて復活し、信じなかった者を、信じる者に変えた方は、今なお、信じない者と信じる者の間に立って、私たちの間に、神の国をもたらします。「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」……一方にだけ訪れるものでも、一方にだけ見えないものでもありません。私たちの間にあって、私たちみんなを、救いの完成へと導きます。

 どうか、その日が来るのを、疑いながらも、揺れ動きながらも、信じて待ち続けることができますように。恐怖や不安によってではなく、希望と励ましによって、信仰を告白する仲間が、加えられていきますように。キリスト・イエスの僕である私たちから、華陽教会にいて、キリスト・イエスに結ばれている、聖なる、皆さんへ伝えます。

 「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています」……わたしは確信しています……共に祈りを合わせましょう。

 

とりなし

共に、神様から与えられたとりなしの務めを果たしましょう。本日は『信徒の友』の「日毎の糧」で紹介されている岡山県倉敷市の玉島教会のために、遠方にいる信徒のために、外国から来た人のために、海外にいる人のために、祈りを合わせましょう。

 

◆神様、あなたは祈りに応えて恵みを与えてくださいます。どうか今、私たちがささげる祈りをお聞きください。

◆岡山県倉敷市の玉島教会のために祈ります。将来を見据え、地区の諸教会と連携・協力している働きが、ますます豊かにされますように。新鮮な喜びと共に、神様の知恵と力が豊かに与えられますように。

◆遠方にいる信徒のために祈ります。華陽教会から引っ越した人、仕事や介護のため、拠点が遠くなった人に、あなたの導きが豊かにありますように。それぞれに、必要な助けがもたらされ、良いつながりが与えられますように。

◆外国から来た人のために祈ります。海外から日本へやって来て、困難を覚えている人にあなたの慈しみがありますように。日常生活も、信仰生活も守られるように、必要な支えと導きをもたらしてください。

◆海外にいる人のために祈ります。日本から海外へ行って、生活している人たちに、あなたの祝福がありますように。様々な課題が解決し、喜びを分かち合うことができるよう、必要なケアとサポートをもたらしてください。

◆今も生きておられ、私たちをとりなしてくださる方、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

讃美歌

オンライン賛美歌9番「たくさん悩んでみたけれど」(©️柳本和良)を歌います。

主の祈り

共に、イエス様が弟子たちに教えられた最も基本的な祈りを祈りましょう。讃美歌21の93-5Aです。オンライン賛美歌の後ろの方の4頁にも掲載しています。主の祈り……

報 告

本日も教会に集まって、またスペースを通して、聖書の学びと祈りの会にご参加くださり感謝致します。スペース終了後、時間のある方は8時半まで、聖研の質問や感想、キリスト教について気になっていることなど自由に聞ける第二部「分かち合い」の時を開きます。よかったらぜひ、ご参加ください。

 

なお、来月2月の聖書の学びと祈りの会は、通常どおり、第3金曜日の2月21日(金)夜7時半から8時半に予定しています。また、2月23日(日)午後2時から3時には、華陽教会でピアノ奉献コンサートを予定しています。

 

コンサートは無料で、予約も必要ありません。受付に献金箱を設置しているので、お越しいただける方は、教会の活動のため、ご献金くださると嬉しいです。それではまた、日曜日まで、皆さん一人一人に、神様の平和がありますように。