ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『聖なる者になれません』エフェソの信徒への手紙5:1〜5

オープン礼拝 2025年10月5日


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説 明

教会にお集まりの皆さん、おはようございます。オンラインで配信を見ている方も、おはようございます。まもなく、10:30から礼拝が始まります。礼拝の最中は、携帯をマナーモードにしていただき、後から来た人も座れるように、席の譲り合いをお願いします。

 

礼拝の中で、立ち上がって賛美歌を歌うところや、立ち上がって祈りを合わせるところもありますが、体が不自由な方や、お疲れの方は座ったままで大丈夫です。賛美歌、聖書、交読文は、備え付けの籠からお使いください。それでは、もうしばらくお待ちください。

 

案 内

華陽教会では、讃美歌委員会の著作物使用許諾を得て、日曜日の礼拝を、配信と並行して行っています。本日は、オープン礼拝として、前奏から後奏まで、一つ一つの要素を説明しながら進めていきます。

 

教会に来て間もない方も、初めて配信を見られる方も、今、礼拝の中で行われていることに、どんな意味があるのか味わいながら、神様の恵みを受け取りましょう。

 

前 奏

最初に、前奏を聞いて心を静めましょう。前奏は、礼拝の開始を告げる音楽です。奏楽者は、その日の教会暦や行事に合わせて曲を選び、会衆が礼拝へ参加しやすいように、その日に歌う讃美歌も、礼拝が始まる少し前から流しています。

 

(*奏楽者は牧師の案内のあと、前奏を弾き始めます。司式者は前奏の終わり頃に講壇へ立ち、会衆を招く準備をします。招詞の聖書箇所は読み上げる必要はありません。網かけ部分は司会が読むところ、四角部分は会衆が立つところです。(かっこ)は会衆の様子を見て省けるときは省きます。)

 

招 詞

「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。」(出エジプト記20:2)

招詞(招きの言葉)は、礼拝に集まった人たちへ神の招きを告げる聖句です。司式にあたる人は聖書箇所まで読み上げる必要はありません。この言葉は、その日の教会暦やメッセージに即したもの、あるいは、聖書日課で指定されている聖書箇所から選ばれます。

 

讃美歌

旧讃美歌503番「はるのあした」を歌いましょう。最後のアーメンは、つけずに歌います。

最初の讃美歌は、神の招きに対する応答の賛美です。礼拝委員会で季節毎にふさわしいものを選びます。日本語に訳された賛美歌は、ほとんどに「アーメン」がついていますが、その日の礼拝の流れや、訳詞の並びによっては、つけないで歌うこともあります。

なお、讃美歌は立って歌われることが多いですが、座ったままでも大丈夫です。差し支えない方は、お立ちください。共に賛美を合わせましょう。

 

お祈り

ご着席ください。共に祈りを合わせましょう。

開会の祈祷は、神の前に立った会衆が聖書の言葉を受けとめる準備をします。たとえば、自分の罪を告白して、神の憐れみを願い、神による罪の赦しを聞き、神の栄光をたたえて、聖霊の導きを求めます。最後の「アーメン」という言葉は、「本当にそうです」「本当にそうなりますように」という意味のヘブライ語で、祈りを合わせる全員が唱和します。共に、祈りを合わせましょう。

 

呼びかけ

◆愛と平和の源である神様。今日もまた、あなたによって守られて、日曜日の礼拝を始めることができ、感謝いたします。どうか今、初めて来た人、久々に来た人、自宅で、施設で、職場で、屋外で、あなたの言葉を受けようとしている人を祝福してください。

罪の告白

◆私たちの神様。私たちはこの一週間、思いと言葉と行いによって罪を犯し、あなたを悲しませてしまいました。どうか今、私たちが傷つけた人、怒りをぶつけた人を癒し、回復させてください。特に、私がとりなすことのできない人を、あなたがとりなしてください。

憐れみの賛歌(キリエ)

◆私たちの神様。私たちはこの一週間、自分自身も傷つけられ、痛みと苦しみを覚えてきました。どうか今、私たちの心と体の傷を癒し、変化と回復をもたらしてください。特に、様々な事情で、一緒に礼拝できない人たちを力付け、共に恵みを受け取らせてください。

赦しの言葉

◆私たちの神様、あなたは心から悔い改め、あなたに立ち返る全ての人を赦してくださいます。どうか今、ここに連なる一人一人をあなたが憐れみ、全ての罪から清め、永遠の命を受け継ぐ者としてください。特に、赦しを期待さえできない人へ語りかけてください。

頌栄(グローリア)

◆私たちの神様、あなたは後悔する者に癒しを、諦めている者に希望を与えてくださいます。本来なら、恵みを受け取れない者が喜べるように、変化と回復をもたらします。どうか今、天の上にも地の上にも、あなたの栄光が現されますように。

聖霊の導きを求める祈り

◆私たちの神様。あなたは心に平安をもたらし、大切な言葉を与えてくださいます。どうか今、心を乱す様々な事柄に惑わされず、あなたの声を聞かせてください。これからのち、新しい生き方をもたらされ、あなたの栄光を現すことができますように。

結び

◆人と人との間におられる、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

聖 書

聖書の言葉を聞きましょう。

聖書朗読は、神の語りかけを聞くときです。主に聖書日課で指定されている【旧約】【使徒書】【福音書】の中から選ばれます。礼拝の中心は神の言葉なので、できるだけ、この3つ全てを読むことが望ましいです。

どれかを省略しなければならないときは、クリスマス前の日曜日には【旧約】が、クリスマスからペンテコステ前までは【福音書】が、ペンテコステからアドヴェント前までは【使徒書】か、それに準ずる新約の文書が、なるべく読まれるようにしています。聖書についている見出しは箇所を見つかりやすくするもので、礼拝の中では読み上げません。

礼拝の中心である聖書朗読は、なるべく、現代のみんなに伝わる言葉で、原典研究の成果が反映されていることが望ましく、数十年ごとに、使用する聖書の翻訳を見直すことが理想的です。

華陽教会では、ここ一年、従来使ってきた新共同訳聖書を朗読した後、新しく翻訳された聖書協会共同訳聖書を朗読して、新しい翻訳の導入をゆっくり検討しています。同じ箇所を違う翻訳で読み上げるので、それぞれの違いや、変わらないところを味わいながら、神の言葉を受け取りましょう。

 

聖書の言葉を聞きましょう。エフェソの信徒への手紙5:1〜5の新共同訳を朗読します。会衆席にある新約聖書357頁です。(新共同訳より抜粋)

同じく、エフェソの信徒への手紙5:1〜5の聖書協会共同訳を朗読します。新しい翻訳の新約聖書350頁です。お持ちでない方は、新共同訳と読み比べながらお聞きください。(聖書協会共同訳より抜粋)

*日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、配信終了後に聖書箇所のみ記載し、本文をカットしています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

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交読文

詩編の言葉を読み交わしましょう。詩編119:33〜40、新共同訳交読詩編の137頁です(新共同訳交読詩編より抜粋)

交読文は、聖書の言葉を聞いた会衆が祈りへ導かれるように、詩編の言葉を司式者と会衆で交互に唱えていくものです。詩編の箇所も、聖書日課で指定されているものを選んでいます。なお、交読文の詩編を読むときは、普通の聖書ではなく、司会が読むところと会衆が読むところを段落で分けている『交読詩編』か、交読詩編付きの『讃美歌21』を開きます。会衆の皆さんは、一段下がったところと太字のところをお読みください。司式者は、会衆が読むところを間違えないように、テンポよく読むようにします。詩編119:33〜40。

 

讃美歌

讃美歌21の484番「愛の主イェスは(口語訳)」 を歌いましょう。最後のアーメンは、つけずに歌います。

メッセージ前の讃美歌は、神の言葉を受けとめるため、教会暦や聖書箇所に即した歌が選ばれます。今回は、神の子イエス・キリストが、私たちに注がれた愛について歌っている賛美を歌い、メッセージを聞く準備をします。差し支えない方は、お立ちください。讃美歌21の484番。

 

メッセージ

本日は、『聖なる者になれません』と題して、柳本伸良牧師に、メッセージをしていただきます。

メッセージは、朗読された聖書の意味を解き明かし、神の恵みと勧告を受け取る時間です。「説教」や「宣教」とも呼ばれます。牧師は、聖書箇所の文脈や出てくる単語の意味を調べて、現代の会衆に語られているメッセージを伝えます。教会の信徒が信仰に至ったきっかけや、聖書の言葉に助けられた体験を話す【信仰の証(奨励)】をする場合もあります。本日は、『聖なる者になれません』と題して、牧師からメッセージをさせていただきます。

 

 「あなたがたは神に愛されている子供ですから」「神に愛された子どもとして」神に倣う者となりなさい……そんな言葉から始まる、エフェソの信徒への手紙5章は、皆さんにはどう響いたでしょうか? 「神に倣う」ということは「神の子であるキリストに倣う」ということでもありますが、具体的にどういうことか、頭に思い浮かぶでしょうか?

 おそらく、品行方正で、清廉潔白な生き方をして、思いやりに満ちた行動をする……という姿がイメージされると思います。実際、この手紙では「あなたがたも愛によって歩みなさい」「愛の内に歩みなさい」と勧められていますし、「あなたがたの間では、淫らなことも、どんな汚れたことも、貪欲なことも、口にしてはなりません」と言われています。

 加えて、畳み掛けるように、恥ずべきこと(卑猥な言葉)や愚かな話、下品な冗談も、(聖なる者に)ふさわしくありません!……と続けられています。神に愛されている子どもとして、聖なる者にふさわしく、自分自身を律して、正して、生きなさい……と言われているようです。

 けれども、こういう言葉を聞かされると、聖なる者にふさわしく、神に倣う者として、歩めていない自分の姿が、チクチクと心を刺してきます。「愚かな話」や「下品な冗談」というのは、どこから当てはまるんだろう? その場にいない人の失敗話で盛り上がったり、身内をからかったりするノリに、合わせてしまった経験が、全くないとは言えません。

 自分や誰かの容姿をネタにしたり、人の持っているものを羨ましがったり、恥ずべきことや貪欲なことを口にしたことがないなんて、それこそ嘘になってしまいます。誰がいくら稼いでいるか? 誰が誰と付き合っているか? 教室で誰が一番可愛くて、職場で誰が一番格好良いか? 噂話に花を咲かせ、そのうち、下世話な話になっていくことは、あちこちで見られる光景でしょう。

 果たして、自分は「聖なる者」「神に倣う者」と言えるのか? 胸を張って、愛によって歩んでいると言えるのか? ほとんどの人が、自信を持てないと思います。私だってありません。家にいるとき、学校にいたとき、文芸部で活動していたとき、やらかしたな……と反省する出来事が、ちょっと思い出すだけで出てきます。もちろん今だって、ふとしたときに、「まずかったな」と思う言動をしてしまいます。

 教会という場所に限定しても、それらの問題が「ない」とは言えません。先月、27日の土曜日には、愛知西地区と岐阜地区の共催で、「性差別問題を考える委員会」の学習会が開かれました。こういった委員会が、他の教区や地区にもあるのは、実際に、セクシュアル・ハラスメントや性差別の問題が、教会の中でも起きているからです。

 家庭や、学校や、職場や、地域で、卑猥な言葉や愚かな話、下品な冗談で傷つけられてきた人がいるように、教会でも、卑猥な言葉や愚かな話、下品な冗談で傷つけられてきた人がいます。けれども、そういった問題について、相談できるところ、防止できる取り組みを、教団や、教区や、教会で作ろうとすると、「必要ない」と言われることもあります。

 神に倣う者、聖なる者たちが集まる教会で、そんな問題は起こらない……うちの教会では相談されたこともないし、傷ついている人もいない……そういう問題があるかのように取り組みを始めたら、かえって教会の評判が落ちるかもしれない……「聖なる者、模範としての教会」の姿が、崩れるかもしれない……そんな意識から来るのでしょうか?

 けれども、旧約聖書には、神に選ばれ、神に従った王たちが、欲に溺れて、淫らな罪を犯したり、他人の妻を奪ったりした出来事が赤裸々に告白されています。新約聖書にも、献金の額をごまかしたり、父親の妻を奪ったりする仲間がいたことが赤裸々に告白されています。

 そんな中、預言者は、神に選ばれた王の不品行をないものとせず、公に告発して、悔い改めを迫りました。宣教者は、神に招かれた信徒の不品行をないものとせず、公に手紙を書いて注意しました。エフェソの信徒への手紙でも、下手すれば、「教会で、そんな注意をするなんて、教会を聖なる所と思っていないんじゃないですか?」「教会の仲間を信頼していないんじゃないですか?」と非難されても、おかしくない言葉が綴られています。

 もう一度読み直してみましょう。「あなたがたの間では、聖なる者にふさわしく、みだらなことやいろいろの汚れたこと、あるいは貪欲なことを口にしてはなりません。卑わいな言葉や愚かな話、下品な冗談もふさわしいものではありません。それよりも感謝を表しなさい」……まるで、古代におけるハラスメントの講習会みたいです。

 これを聞いて、手紙の著者に、自分たちことを「みだらな者」「汚れた者」「貪欲な者」と言っているのか? と怒り出す人もいたかもしれません。ハラスメントの講習会へ出るように言われ、怒り出す人がいるように……しかし、手紙の著者はためらわず、自分たちの間では、問題が起こらないかのように振る舞うのでなく、問題が起きてもおかしくないことを自覚して、聖なる者として、新たにされ続けるように、注意と勧告を送ります。

 実は、「聖なる者」にふさわしい振る舞い、「神に倣う」生き方とは、自分が貪欲なこと、恥ずべきことと、関係ない人間ではなく、むしろ、それらに流されてしまう存在だと自覚して、何を口にしてしまったか、どうやって気をつけなければならないか、向き合い続ける生き方でもあるんです。

 キリストを見捨てた弟子たちが、繰り返し、自分の過ちを告白したように……聖書を書き記した人たちが、何度も、自分たちの失敗を書き残したように……「聖なる者」になれない自分を見つめることから、「聖なる者」の歩みが始まります。「神に倣う者」になれない自分を見つめることから、「神に倣う」生き方が始まります。

 今日は、日本基督教団の教会暦で定められている「世界聖餐日」でもあります。キリストの十字架と復活を思い起こし、パンと葡萄液をいただく聖餐を通して、私たちは信仰を新たにされ、キリストの教えと業を伝えていく生き方に変えられます。この聖餐式の始まりである「主の晩餐」は、イエス様が十字架につけられて亡くなる前夜、弟子たちのために行われました。

 これから自分を裏切る弟子たちに、これから自分を見捨てる弟子たちに、イエス様は、「わたしの記念として、これを行いなさい」と命じ、我が身可愛さに、自分を否定する弟子たちに、イエス様は、「取って食べなさい」とパンを渡し、杯を回して、自分と一緒に、神の国を受け継ぐ者であることを宣言しました。

 イエス様を裏切り、見捨て、否定した弟子たちは、自らを「神に愛された子ども」と言うことも、「聖なる者」「神に倣う者」と言うことも、できないはずでした。しかし、復活したキリストが、再び自分たちを訪れ、自分たちのために、再び感謝の祈りを唱え、パンを裂いて、その手で分け与えられたとき、彼らは知ることになります。

 この方が、どこまでも自分たちに付き合って、自分たちを「聖なる者」「神に倣う者」として、新たにし続けてくださることを……この方が、どこまでも自分たちとつながって、自分たちを「神に愛されている子供」として、生かし続けてくださることを……味わい見よ、主の恵み深さを。アーメン。

 

讃美歌

オンライン賛美歌27番「あなたはわたしの避け所」(©︎柳本和良)を歌います。

メッセージ後の讃美歌は、神の言葉を締めくくるのにふさわしい歌を歌います。今回は、私たちを守り、引き寄せ、神の国へと招いてくださるキリストをたたえて歌います。差し支えない方は、お立ちください。

使徒信条

教会の信仰を告白しましょう。「使徒信条」讃美歌21の93-4Bです。オンライン賛美歌の後ろの方の3頁をご覧ください。

使徒信条は、神の言葉に共鳴して、教会の信仰を告白するキリスト教会共通の信条です。信仰者が何を信じているのか表す便利な要約となっており、一人一人が自分の口で、神様と、イエス様と、聖霊について、集まった人たちに伝える時間でもあります。

その性質上、なるべくみんなに分かる言葉で告白するのが望ましいですが、華陽教会では現在も文語の使徒信条を使っています。今回は、初めて来た人や子どもにも私たちの信仰が伝わるように、口語の使徒信条を告白したいと思います。

『讃美歌21』の93-4Bか、オンライン賛美歌の後方3頁に載っている口語訳をご覧ください。使徒信条。

紹 介

華陽教会では、その日、初めて教会に来た方や、久しぶりに礼拝へ集まった方を意識して「とりなし」と「祝福」を行います。それは、この礼拝につながった全ての者が、神の民として招かれた隣人であり、新たに加えられた仲間だからです。

みんなの前で紹介されるのを遠慮したい方は、受付の新来者カードの記入欄で「紹介されるか/されないか」を選ぶことができます。連絡先や住所の記入欄は、緊急時の連絡先や集会案内などを希望される場合に使うもので、書いても書かなくても大丈夫です。

 

本日も、初めて礼拝に来られた方、初めて配信を見られた方、久しぶりに参加された方と一緒に礼拝にあずかれたことを感謝致します。受付でご了承いただいた方のみ、配信終了後にご紹介させていただきます。ぜひ、これからも一緒に礼拝へ出られると嬉しいです。

 

とりなし

共に、神様から委ねられた、とりなしの務めを果たしましょう。オンライン讃美歌の後ろの方の1頁をご覧ください。

とりなしの祈りは、自分自身がイエス様のとりなしによって助けられていることを覚え、今度はこちらから、周りのため、世界のために、神様へとりなす祈りです。お祈りごとに沈黙を挟むので、皆さんも、それぞれ思い浮かぶ人のためにお祈りください。

主の祈り

イエス様が教えられた『主の祈り』を祈りましょう。オンライン讃美歌の後ろの方の4頁をご覧ください。差し支えない方は、お立ちください。

主の祈りは、神の国でイエス様と共に食卓に着く日を待ち望み、キリストの十字架と復活を思い起こす「聖餐式」(パンとぶどう液をいただく式)の準備をする祈りです。イエス様が「祈り方の基本」として弟子たちに教えたものであり、現代でも、どう祈ったらいいか分からない人へ、最初に教えられる祈りでもあります。

「祈り方の基本」を伝えるものでもあるため、なるべくみんなに分かる言葉を用いることが望ましいです。華陽教会では、今も文語訳を使っていますが、今回はオンライン賛美歌4頁右側の『日本聖公会/ローマ・カトリック教会共通口語訳』を祈りましょう。

聖 餐[1]

御着席ください。ただいまより、聖餐式を始めます。聖餐式は、神の恵みに感謝して、信仰が新たにされるよう、キリストの十字架と復活を思い起こし、パンと葡萄液を分かち合う式です。

信仰を告白した人が、信仰者であり続けるための式であり、やがて来たる神の国で、イエス様と一緒に着く食卓を先取りしたものでもあります。洗礼を受けていない人が、誤ってパンと杯を取ってしまった場合には、非難するのではなく、この食事の意味を伝えます。

聖餐式は「神の言葉の見えるしるし」であり、ここに集まった全ての者、あなたの隣に、前に、後ろにいる人へ、あなたの信仰を証しする時間です。パンと杯を受けとる方は、パンと杯を受けない方へ、神様の愛と祝福を祈ってください。

 

讃美歌

最初に、マスクをしたままで讃美歌21の81番「主の食卓を囲み」1節を歌いましょう。(*ご着席いただいたままで大丈夫です)

 

主の食卓への招き

ようこそいらっしゃいました。今から神の民の祝宴が開かれます。主は言われました。「やがて人々は東から西から、北から南から来て、神の国で共に食卓に着く」

 

また、食事の席で、主は約束されました。「前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは間もなく聖霊によるバプテスマを授けられる」

 

主は、弱っている者を励まし、閉じこもっている者を力づけ、ご自分が用意された祝宴にあずからせてくださいます。この方を信じ、その信仰を公に告白した方は、進んでこの食事にあずかりましょう。また、信仰を告白していない者、共に集った兄弟姉妹も、キリストのとりなしと祝福を受けましょう。

 

感謝と聖別の祈り

世界の創造者、また統治者である神よ、あなたはご自分にかたどって私たちを造り、あなたを愛し、あなたに仕え、全被造物と平和のうちに生きるために、この世界に住まわせられました。私たちがあなたに逆らい、信頼と服従を拒んだ時にも、あなたは私たちをお見捨てにならず、ご自分のものと呼んでくださいました。あなたは私たちを、ご自分の道に立ち返らせるため、御子イエス・キリストを世に遣わしてくださいました。

 

主イエスは、罪人と共に食事をし、その生き方を新たにし、信じない者を信じる者に、滅ぶべき者が永遠の命にあずかるために、十字架にかかってくださいました。そして、死という絶対的な隔たりを超えて、ご自分を見捨てた者たちに現れ、「あなたがたに平和があるように」と宣言してくださいました。

 

私たちの神よ、どうか、今ここにあるパンと杯を受け入れ、御言葉と聖霊によって、聖なるものとしてください。そして、これによって、御子イエス・キリストの尊い体と血にあずからせてください。これにあずかる者たちが、皆キリストの体と一つになり、永遠の命を受け継ぐことができますように。アーメン。

 

陪 餐

ただいまより、パンとぶどう液を配ります。誰でも洗礼を受けて信仰を告白し、この食事にあずかることができます。洗礼式はキリスト者になるための式で、この聖餐式はキリスト者であり続けるための式です。ですから、この食事には洗礼を受け、信仰を告白してからあずかることをお勧めします。

 

まだ、洗礼を受けておらず、信仰を告白していない方は、恐れ入りますが、しばらくお待ちください。皆さんの信仰の自由と、その決断とを尊重させていただきます。なお、洗礼を受けて信仰を告白した方は、進んでこの聖餐にあずかり、パンと杯を受けない方へ、神様の祝福と平和を祈りましょう。(*配餐者は手指の消毒をしてパンと杯を配る)

 

オンライン賛美歌の後ろをめくった「陪餐」のところをご覧ください。パンと杯を共に受けつつ、ここへ招かれた人のために、神の祝福を祈りましょう。

 

(パンを手に取る)

これは、あなたがたのために与えられた主イエス・キリストの体です。あなたのために主が命をささげられたことを覚え、感謝をもってこれを受け、御子イエス・キリストとの交わりにあずかりましょう。

 

パンを手にしている方は、パンを受け取っていない方へ、神様の祝福を祈りましょう。

 「あなたの手が、キリストの愛と平和で満たされますように」

 「アーメン」

食べなさない。あなたがキリストから受けて、あなたから分けられるように。

 

(杯を手に取る)

これは、あなたがたのために流された主イエス・キリストの血潮です。あなたのために主が血を流されたことを覚え、感謝をもってこれを受け、御子イエス・キリストとの交わりにあずかりましょう。

 

杯を手にしている方は、杯を受け取っていない方へ、神様の祝福を祈りましょう。

 「あなたの手が、キリストの愛と祝福で満たされますように」

 「アーメン」

飲みなさい。あなたがキリストから受けて、あなたから溢れ出るように。

 

陪餐後の感謝

共に、感謝の祈りをささげましょう。愛と憐れみの主である全能の神よ、今日この場に、若者も年長者も、信仰を告白した者も告白していない者も、共にあなたが招いてくださったことを感謝致します。あなたは今、御子イエス・キリストの尊い体と血によって、私たちを養い、この場に連なる全ての者を結び合わせてくださいました。

 

あなたはこれによって、私たちに対する愛と恵みを示し、私たちがキリストの体の手足であること、神の国を受け継ぐ者であることを確かにしてくださいました。今、イエス・キリストを通して、自分の体を生きた聖なる供え物として献げます。どうか聖霊を注いで、私たちをこの世に遣わし、あなたが求めていることを行わせてください。主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

讃美歌

ご着席のまま、讃美歌81番の2節、3節を歌いましょう。

 

以上で、聖餐式を終わります。

 

献 金

感謝の献げ物として献金をします。クリアファイルに挟まれた封筒をご利用ください。献金に、金額に定めはありません。持ち合わせのない方は、空のまま封筒をお入れください。

献金は、神の恵みに対する感謝の応答です。自分の生き方を神にささげるしるしとして、献げ物を行います。初代教会では、信徒一人一人がパンや飲み物を持ち寄って祭壇にささげ、集まった食事を生活に困っている人たちへ分け与えていました。そのとき集められた一部を聖餐に用いたため、献金と聖餐は、本来セットで行われます。

現代では、集めた献金を教会の維持や運営のため、牧師の謝儀(給与)のため、地区・教区・教団の働きのため、福祉や慈善活動のために用いています。あくまで「恵みに対する感謝」としてささげるものなので、金額に定めはありません。

どうしても献金の目安が欲しい方は「2人でお茶やお菓子を分けられるくらい」あるいは「2人でご飯を分けられるくらい」の気持ちで考えていただけたらいいです。献金の後、係の方が祈りをささげますが、書いたものを読んでもらって大丈夫です。

 

献金の祈り(例)

全ての祝福の源である私たちの神様。今、私たちがささげるものを受け入れてください。あなたの平和が実現し、あなたの御名があがめられ、神の国の栄光があらわされますように。主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

讃美歌

献金の讃美歌512番「主よ、献げます」2節を歌いましょう。

 

讃美歌

頌栄の賛美歌、24番「たたえよ、主の民」を歌いましょう。

最後の讃美歌は、会衆が神の栄光をたたえて、礼拝から送り出されていくものです。神の栄光をたたえる「頌栄」の讃美歌が選ばれる他、祝福との関連で「派遣」をテーマにしたものが選ばれます。季節毎に礼拝委員会で話し合って決められます。お立ちください。

 

祝 福

共に、神様の祝福を受けましょう。

派遣の言葉と祝福は、会衆一人一人が、神様の愛を示していく生き方ができるように、神の祝福を宣言して、日常へ送り出すものです。祝福の間、目を閉じなければならない決まりはありません。

できれば、互いに祝福し合う気持ちで、顔を上げていただけると嬉しいです。なお、体の不自由な方やしんどい方は座ったままで大丈夫です。立っている方も、牧師が祝福を宣言して、手を下ろした後は、静かに座って、後奏を聞いていただけたら大丈夫です。

 

派 遣

あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。(エフェソの信徒への手紙5:1)

 

祝 福

平和と、信仰を伴う愛が、父である神と主イエス・キリストから、兄弟(姉妹)たちにあるように。恵みが、変わらぬ愛をもってわたしたちの主イエス・キリストを愛する、すべての人と共にあるように。(エフェソの信徒への手紙6:23〜24)

 

[1] 以下、「聖餐式」の式文は、日本基督教団信仰職制委員会 編『日本基督教団 式文(試用版Ⅰ)』日本キリスト教団出版局、2006、2010を参照し、大きく手を加えたものを載せています。