聖書研究祈祷会 2025年10月15日
案 内
華陽教会では、讃美歌委員会と日本聖書協会の著作物使用許諾を得て、聖書研究祈祷会を配信と並行して行っています。共に今、教会にいる人も、配信を見ている人も、互いのために祈りを合わせ、聖書の言葉を味わいましょう。
讃美歌
讃美歌21の574番「雪より真白い」を歌いしょう。最後の「アーメン」は、つけずに歌います。
お祈り
ひと言お祈りをします。共に心を合わせましょう。
◆希望の源である神様。今日もまた、あなたによって守られて、聖書研究祈祷会を始めることができ、感謝致します。どうか今、ここに集まった人たちと、自宅で、施設で、職場で、屋外で、あなたの言葉を求めている人に、祝福がありますように。
◆私たちの神様。今週も、体調を崩している人、心が弱っている人、疲れや衰えを感じている人に、あなたの助けがありますように。どうか今、一人一人にあなたの御手が伸ばされて、力と回復がもたらされますように。
◆私たちの神様。今週も、怪我をしている人、病気に苦しむ人、障害で悩んでいる人に、あなたの導きがありますように。どうか今、一人一人にあなたの御手が伸ばされて、癒しと励ましがもたらされますように。
◆私たちの神様。今週も、孤独を感じている人、孤立している人、無力に悩まされている人に、あなたの慈しみがありますように。どうか今、一人一人にあなたの御手が伸ばされて、恵みと繋がりがもたらされますように。
◆あなたの平和が実現し、あなたの栄光が現され、あなたの御名が、ますます豊かに褒め称えられますように。アーメン。
聖書朗読
聖書の言葉を聞きましょう。マタイによる福音書24:29~31の新共同訳を朗読します。会衆席にある新約聖書48頁です。
同じく、マタイによる福音書24:29~31の聖書協会共同訳を朗読します。新しい翻訳の新約聖書47頁です。お持ちでない方は、新共同訳と読み比べながらお聞きください。
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*日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、配信終了後に聖書箇所のみ記載し、本文をカットしています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。 |

メッセージ
今年度の聖書研究祈祷会は「信仰継承を考える」という華陽教会の年間主題に沿って、「カルトの教えとキリスト教」というテーマで聖書を読むときの注意点について共有しています。今回は「再臨主の見分け方?」というトピックについて、世の終わりに再び来られる救い主「メシア」について触れられている、マタイによる福音書24:29~31に焦点を当てて、話していこうと思います。
皆さんは「再臨」という言葉を聞く機会がどれくらいあるでしょうか? 同じキリスト教会でも、「再臨」について頻繁に語られる教会もあれば、普段の礼拝ではあまり聞かない教会もあります。「再臨」というのは、神の子であるキリストが、世の終わりに、再び地上へ訪れることを指しています。
もともとはギリシア語のパルーシアを日本語に訳したもので、本来は「到来」や「臨在」という意味の言葉です。原語には「再び来る」という意味はないので、厳密には「再臨」ではなく「来臨」と言うのが正しいとも言われます。ラテン語ではアドヴェントと言い、キリストの誕生を記念する、クリスマス前の4週間を指す言葉にもなっています。
これは、クリスマス前に、かつてキリストがこの世に来られたことを記念する日を待ち望みながら、将来キリストが再びこの世へ訪れるときを待ち望んで、祈りを合わせるからでもあります。そのため、普段の礼拝で「再臨」という言葉をあまり聞かない教会でも、クリスマス前の4週間、アドヴェントの時期には、キリストの再臨に関する記事が読まれたり、救いの完成する日を待ち望んで、祈りを合わせる礼拝が行われたりします。
たとえば、先ほど読んだマタイによる福音書24:29〜31は、まさに、イエス様ご自身が、世の終わりに再び地上へ訪れる「再臨」「来臨」について語っている箇所として読まれます。ここでは、天変地異と共に「人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る」と書かれています。
ちなみに、新約聖書に出てくる「人の子」という言葉は、神の子であるにもかかわらず、人の子として生まれてきてくださったイエス・キリストのことを指しています。ただし、旧約聖書では、もう少し広い意味で、神様に遣わされた指導者を指す言葉として使われており、旧約聖書の「人の子」が、全て「キリスト」を指しているわけではありません。
ただ、一部の宗教カルトでは、将来、再び来られる「救い主」「メシア」「再臨のキリスト」の特徴に、教祖が当てはまっていると主張するため、旧約聖書と新約聖書に出てくる「人の子」を同一視して、その特徴を恣意的に取り上げ、自分たちの教祖「先生」こそが、この時代に訪れた「メシア」「再臨主」だとアピールします。
また、「世の終わり」「終末」について起こることは、様々な幻や象徴的表現を通して語られる「黙示文学」の形式で記されることが多いため、それらの象徴的表現をかなり自由に、都合よく解釈して、世の終わりに再び来られる「メシア」「キリスト」とは教祖のことだと教えられます。
たとえば、先ほど触れた「人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る」という記述は、文字どおり、メシアが天の雲に乗ってくる……ということではなく「大勢の人(信者)を雲のように従えてやってくることの比喩である」と言って「たくさんの信者に囲まれた教祖こそ、預言されている再臨主だ」と説明するわけです。
ちなみに、聖書の中で「雲」が人を表す比喩として用いられているところは、私の目では見つかりませんでした。むしろ「雲」は、神様が人前に現れるとき、人々に介入するときに伴う現象として描かれることがほとんどで、どちらかというと、「神様がそこに顕現した」ことを人々に伝えるための道具として出てきます。
また、「人の子」「再臨のメシア」が現れるとき、「太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる」といった天変地異が発生する、という記述を取り上げ、教祖が生まれた時代にも、日蝕や月蝕、隕石の落下、天体の異常や自然災害が発生したことに触れ、「まさに、この時代に我々の教祖がメシアとして来てくださった」と主張されることもあります。
しかし、誰であっても、一生の間に、世界のどこかで起きている天体の異常や大きな事件を見つけることは、そう難しくありません。加えて、世の終わりに関する象徴的表現を都合の良い比喩だと言い張れば、実は誰でも「再臨主」や「来臨のキリスト」を名乗ることができてしまいます。
けれども、「もし本当に、この時代にメシアが再び来られていて、それに気づいていなかったらどうしよう?」「再臨のキリストを、そうだと分からずに拒絶してしまったらどうしよう?」と不安になる人もいると思います。「再臨のメシア」「来臨のキリスト」を名乗る人が現れて、「本当だろうか?」と疑問に思っても、「もし本当だったら、疑うことで天の国に、神の国に入ることができなくなるんじゃないか?」と思わされる人もいるでしょう。
聖書を用いる宗教カルトは、そういった信者の不安を利用して、自分たちの教祖「先生」がメシア(救い主)と分からない者、悟れない者は、サタン・悪魔側にいる者として裁かれてしまう、滅ぼされてしまう……とあおり、疑う気持ちに蓋をするよう、誘導していきます。
さらに、ヨハネによる福音書14章6節で、イエス様が「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとへ行くことができない」と言っているように、この時代にメシアとして遣わされた教祖の教えを通して以外、父なる神のもとへ、天の国へ行くことはできない、とも教えられます。
また、人間は、自分で犯した罪は、自分で償って解決することができるかもしれないが、生まれたときから持っている「原罪」や、先祖から受け継がれている「遺伝罪」、自分たちの国や民族が犯してきた「連帯罪」は、メシアでないと解決できないと言われ「この時代のメシアである教祖を信じないと救われない」と思わされるところもあります。
ただし、本当のメシア・キリストであるイエス様は、自分のことをメシアだと分からない者へ、自分が再び訪れたことに気づかない者へ、裁きではなく、和解と回復をもたらしたことが、聖書にはっきり記されています。イエス様は、敵に捕まって十字架にかけられたとき、弟子たちみんなに見捨てられ、逃げられてしまいました。
しかし、「わたしは十字架につけられて死んだあと、3日目に復活する」と約束していたとおり、イエス様は死者の中から復活し、弟子たちのもとへ再び訪れます。ところが、再び来られたイエス様に、最初から気づく者は誰一人居ませんでした。マグダラのマリアは墓場でイエス様に直接声をかけられても、復活したイエス様だと気づかず、園丁だと思って泣き続けていました。
エマオの村へ行く途中、イエス様に出会った2人の弟子も、イエス様が復活したという噂について話していたにもかかわらず、その話を聞かせている相手が、復活したイエス様本人だと気づかないまま歩いていました。ペトロをはじめとする他の弟子たちも、早朝に魚を取りに湖へ舟を出していたとき、岸から反対側へ網を投げるよう呼びかけた人物が、イエス様だと気づかないまま従っていました。
けれども、イエス様は、彼らが復活した自分に気づかなくても、再びやってきた自分と分からなくても、気づくまで、分かるまで、一緒に居て呼びかけてくださいました。悟れない者、気づけない者を見捨てるのではなく、悟れるまで、理解するまで付き合い続けてくださいました。
イエス様が復活したとき、弟子たちのもとへ再びやってきた出来事は、イエス様が世の終わりに、私たちのもとへ再びやってくる出来事を、先取りしたものでもありました。本当のメシア、救い主は、再臨のキリストだと分からない者を、「神の国」「天の国」に入れないまま、滅んでいくまま、見捨てて放置するような方ではありません。救い主がやってきたという良い知らせに気づくまで、理解するまで、付き合い続けてくださいます。
だから、「キリストの生まれ変わり」や「再臨主」を自称する、あるいはそうだと思わされる人間が、「信じなければ地獄に落ちる」「受け入れなければ滅ぼされる」とあなたを脅してくるときは、どこまでもあなたに付き合い続けてくださる神、本当の救い主であるキリストを思い出して、ついていかないようにしてください。
キリストは、裁きで終わらせるためではなく、救いに至らせるために、私たちのもとへ訪れます。単に、人々を「滅びる者」か「救われる者」に振り分けるために来るのではなく、「滅びる者」に振り分けられた者が「救われる者」に振り分けられるまで、導くためにやってきます。
自分を見捨てた者も、信じなかった者も、疑い続けていた者も、信じるようになるまで離れなかったこの方に、栄光が現されますように。滅びに振り分けられる恐怖ではなく、救いが訪れた良い知らせを分かち合い、共に、新しい生き方へ変えられていきましょう。主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように。アーメン。
とりなし
共に、神様から与えられたとりなしの務めを果たしましょう。本日は『信徒の友』の「日毎の糧」で紹介されている京都府木津川市の泉伝道所のために、在園生のために、卒園生のために、教会学校の生徒のために、祈りを合わせましょう。
◆神様、あなたは祈りに応えて恵みを与えてくださいます。どうか今、私たちがささげる祈りをお聞きください。
◆京都府木津川市の泉伝道所のために祈ります。小さな群れの中で育まれてきた信仰が、誠実に、豊かに、受け継がれていきますように。近隣教会との連帯が深まり、宣教の業が大きく広がっていきますように。
◆在園生のために祈ります。芽含幼稚園をはじめ、近隣の幼稚園、保育園にいる子どもたちが事故や怪我から守られて、健やかに成長していくことができますように。保護者や先生、スタッフの心身も守られて、共に、豊かな保育を担っていくことができますように。
◆卒園生のために祈ります。芽含幼稚園の卒園生をはじめ、近隣の保育園、幼稚園を卒園していった子どもたちが、小学校や中学校、高校や専門学校でも、良い出会いと経験に恵まれますように。苦しいときの避け処、頼れる所として私たちのことも用いてください。
◆教会学校の生徒のために祈ります。華陽教会の教会学校生徒をはじめ、近隣の教会、ミッションスクールの子どもたちが、互いに尊重される、誠実な関係性を築いていくことができますように。関係が壊れたとき、危険があるとき、近くの大人が守れますように。
◆今も生きておられ、私たちをとりなしてくださる方、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
讃美歌
オンライン賛美歌12番「信じたくても」(©️柳本和良)を歌います。

主の祈り
共に、イエス様が弟子たちに教えられた最も基本的な祈りを祈りましょう。讃美歌21の93-5Aです。オンライン賛美歌の後ろの方の4頁にも掲載しています。主の祈り……

報 告
本日も教会に集まって、また配信を通して、聖書研究祈祷会にご参加くださり、ありがとうございます。配信終了後、時間のある方は午後2時半まで、聖研の質問や感想、キリスト教について気になっていることなど自由に聞ける第二部「分かち合い」の時を開きます。
よかったらぜひ、ご参加ください。来週の水曜日は『千年王国? 地上天国?』と題して、ヨハネの黙示録 20:4~6のお話をする予定です。日曜日の礼拝は、『血で洗って白くした』と題して、ヨハネの黙示録7:9〜17のお話をする予定です。
それではまた、日曜日まで、皆さん一人一人に、神様の平和がありますように。