ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

キリスト教とLGBT(3)

Myriams-FotosによるPixabayからの画像

 

LGBTQへのバッシング

今回の「キリスト教とLGBT(3)」では、現在も当事者や関係者に対して激しいバッシングが続いているトランスジェンダーについて、中心的に触れていこうと思います。

 

少し前に、カトリック社会問題研究所が発行する雑誌『福音と社会』で、2022年8月から12月にわたって3回掲載された『LGBTとキリスト教 20人のストーリー』(日本基督教団出版局)についての「書評」が話題になりました。その内容に対し「トランスジェンダーをはじめとする性的マイノリティーへの無知や偏見に満ちている」「差別的だ」という批判が殺到したからです[1]

 

実際に、トランス女性を「トランスジェンダーの男性(俗にいうオカマ)」と表現したり[2]、「ノーマルではない」という書き方がされたり、およそ適切とは言えない記述がありました。

 

このように、キリスト教会の中で、LGBTQへのバッシングが見られるのは、今に始まったことではありません。しかし、キリスト教の関係者ではない人からも「LGBTQの性自認を理由にすれば、何でもかんでも押し通せるようになる」と印象付けるような主張が度々展開されています。

 

さらに、犯罪を犯したLGBTの当事者や、不適切な治療や指導を行った支援団体の事例を見つけると、それをもって、性自認の尊重を訴える人たちが皆「カルト」であるかのように印象付ける発信も次々と投稿されています。

 

宗教者として宗教カルトの問題に関わっている者としても、このような結びつけ方は残念で、問題を感じています。また、トランスジェンダーについて語られる際、異性装、ジェンダーフルイド、オートガイネフィリア、ペドフィリア、ズーフィリア、ネクロフィリアの人たちが持ち出され、誤った議論を展開されてしまうケースも続いています。

 

まずは、トランスジェンダーや性自認について、基本的な理解と前提を確認することが大切だと思うので、以下に整理していきます。(それぞれの用語や事柄についての説明は、脚注ですぐに参照できるリンクを貼らせてもらいました)

 

トランスジェンダーとは?

トランスジェンダーとは「出生時にわりあてられた性別とは異なる性自認(性同一性)を持つ人」です。出生時に男性とわりあてられて女性の性自認を持つ人は「トランス女性」、出生時に女性とわりあてられて男性の性自認を持つ人は「トランス男性」と言います[3]

 

トランス女性を「MtF “male to female”(自分の性を男性から女性へ移行した/する人)」、トランス男性を「FtM “female to male”(自分の性を女性から男性へ移行した/する人)」と呼ぶこともあります。

 

トランスジェンダーには、男女いずれか一方に当てはまらない性自認を持つ「Xジェンダー」(あるいは「ノンバイナリー」)の人も含まれ、「MtX」「FtX」と表されることもあります。このXジェンダーの中に、性自認が複数の性の間で揺れ動く「ジェンダーフルイド」を含めて考えることもあります。

 

ジェンダーフルイドは、「男性」「女性」「男女の中間」「男女の両方」「男女どちらでもない」といった「複数の性を行き来している/揺れ動いている人」のことです。「今日は男性の気分だけど、明日は女性になろう」というふうに、自分で自分の性自認(性同一性)をコントロールできるわけではありません。

 

「昨日は自分を男性だと感じていたのに、今朝は男性というには違和感がある」「去年までは自分のことを確かに女性と感じていたのに、今年に入ってからは女性とも男性とも思えない」というふうに、出生時にわりあてられた性別と自分の性自認が一致するときもあれば、一致しないときもあります。

 

世の中には、そのような流動性/不定性の中で生きているという連続した自己認識を持つ人たちもおり、「好きなときに好きな性別になれる」という感覚とは異なります。ジェンダーフルイドを名乗る人は「自分の性が分からない」「自分の性を説明できない」と感じてきた人が多く、都合よく性を切り替えているわけではありません。流動する性自認に合わせて生きているだけです。

 

人は、それぞれ自分の性自認に合わせた生き方はできても、自分の性自認(性同一性)をコントロールできるわけではありません。つまり、「自分で自分の性自認(性同一性)を自由に決められる」わけではありませんが、「自分の性自認(性同一性)を踏まえて、自分の性をどう生きるかは自分で決める」ことはできます。

 

なお、トランスジェンダーではない人(出生時にわりあてられた性別と自分の性自認が一致する人)のことを「シスジェンダー」と言います。「男性らしく」「女性らしく」「男はこう」「女はこう」という社会生活において期待される固定的な役割(ジェンダーロール)に違和感を持つ場合でも、社会的・法的にその性別集団に所属することを望む場合には、トランスジェンダーではなく、シスジェンダーに含まれます[4]

 

性同一性障害(GID)とは?

性同一性障害(GID)とは医学的な診断名です。2019年5月25日にWHOの総会で「精神障害」の分類から外され「性の健康に関する障害」という分類の「性別不合(Gender Incongruence)」に変更されました。アメリカ精神医学会では2013年に「障害」という言葉を使わない「性別違和」という名称を採用しています[5]

 

一方で、今なお、性同一性障害を「精神的な異常」のように捉える発信が後を絶ちませんが、上記のようにそれは違います。また、「性自認という概念はニセ科学だ」という主張も時折見られますが、そのようなコンセンサスは科学者の間で見られません。

 

日本の「性同一性障害に関する診断と治療のガイドライン」では、ホルモン治療や性別適合手術などの治療を希望するトランスジェンダーは、専門の精神科で性同一性障害の診断を受けることが求められています。

 

ただし、診断や治療のできる医療機関は多くはなく、全てのトランスジェンダーが、受診・通院・入院できる病院へアクセスできるわけではありません。また、身体的な違和感の程度も、違和感を解消・軽減するやり方も、当事者によって様々で、金銭的・身体的な負担のかかる治療を望まない人もいます。

 

時折、「性同一性障害の診断や治療を受けなければ、本物のトランスジェンダーではない」という主張をされることもありますが、トランスジェンダーは「性別移行する/している/した」といった様々な状態を包括する用語で、ある移行段階や状態だけを抜き出して、他を除外するものではありません。

 

トランスジェンダーの中に、性同一性障害の診断や治療を受ける人もいれば、受けない人、受けられない人もいます。診断や治療を受けるかどうかで、トランスジェンダーとして「正しい」「正しくない」が決まるわけでもありません。それぞれの事情や背景に沿った現実があるだけです。

 

性自認、性的指向、性表現とは?

性自認(Gender Identity)とは「自分はどのような性別である/ないという連続した自己認識のありよう」です。時間的・社会的な同一性、一貫性というニュアンスが表れる「性同一性」とも訳されます[6]

 

よく誤解されますが、「今日は女だけど明日は男になろう」というふうに、自分の気分で性別を変えられるという概念ではありません。また、性自認は、男性か女性かに分けられるものではなく「男性と女性の中間」「男性でも女性でもある」「男性でも女性でもない」「男性か女性かにとらわれない」「複数の性の間を行き来している/揺れ動いている」など様々なものがあります。

 

なお、トランスジェンダーにおける様々な「性自認」と、DSDsの「体の性の様々な発達」も混同されやすいですが、両者は異なるものです。DSDs(性分化疾患)は、男女以外の性別ではなく、女性・男性の体のバリエーションを有する人たちです。こちらも混同すると当事者を傷つけることになります[7]

 

性的指向(Sexual Orientation)とは「どのような性別の相手に恋愛感情や性的関心が向くか/向かないか」を示したものです。性的指向が同性に向く人を「ホモセクシュアル」、性的指向が異性に向く人を「ヘテロセクシュアル」と言います。

 

性自認が男性で性的指向が同性に向く人は「ゲイ」と呼ばれ、性自認が女性で性的指向が同性に向く人は「レズビアン」と呼ばれます(海外では男女どちらの場合もゲイということがあります)。「オカマ」「ホモ」「レズ」という呼び方は長年、侮蔑語として使われてきたので、現在では「ゲイ」や「ビアンさん」といった呼び方をしています。また、女性でも男性でも、性的指向が両性へ向く人は「バイセクシュアル」と呼ばれます。

 

性自認と性的指向はよく混同されますが、それぞれ独立した概念です。トランスジェンダーの性的指向も様々で、トランス女性(MtF)の中にも、男性を好きになる人(異性愛)、女性を好きになる人(同性愛)、男女共に好きになる人(両性愛)など、色々な人がいます。トランス男性の場合も同様です[8]

 

また、性的指向が女性や男性だけでなく、ノンバイナリーやXジェンダーなど、あらゆる性自認の人へ向く「パンセクシュアル(全性愛)」の人もいます。性的指向があらゆる性自認の人へ向くからと言って、誰でも好きになったり、誰でも襲おうとするわけではありません。ヘテロ男性が皆、女性相手なら誰でも好きになったり、誰でも襲おうとするわけではないように、性的指向と身持ちの悪さは関係ありません。

 

その他に、どの性別にも恋愛感情や性的関心が向かない人を「アセクシュアル」や「Aセクシュアル」と言います。他者に対して恋愛感情や性的関心が向かないからと言って、愛情に乏しかったり、人間性に欠けているわけではありません。恋愛感情や性的関心が誰にも向かないだけで、多くの人と同じように、誰かを大切にしたり、尊敬したり、好ましく思ったりします。性的指向だけで人間性を判断することはできません。同じ性的指向でも一人一人違います。

 

性表現(Gender Expression)とは「見た目や言動などで表す性」のことです。服装や髪型、仕草、言葉遣いなどの外見に表れる性(ジェンダー)を、自分がどう表現したいかを意味します[9]

 

性自認が男性なら社会的に男性と結び付けられた(男性らしい)格好を、性自認が女性なら社会的に女性と結び付けられた(女性らしい)格好をすることが多いですが、誰でも性自認と性表現が一致しているわけではありません。性自認が女性でも、男性らしい格好や中性的な格好を好む人がいるように、性自認が男性でも、女性らしい格好や中性的な格好を好む人もいます。

 

トランスジェンダーのように、出生時にわりあてられた性別とは異なる性自認を持つわけではない人(シスジェンダー)が、異性の性表現をすることもあります。その場合、「異性装」や「クロスドレッサー」と呼ばれます。

 

異性装は、かつて「トランスヴェスタイト」という医学用語で呼ばれていましたが、「治療しなければならない異常な人」というネガティブなイメージを持たれることもあるので、現在は「クロスドレッサー」と呼ぶことが多いです。

 

なお、異性装をする人が皆「性的興奮を得るため」という目的があると考えるのは間違っています。単に、異性の服装、化粧、口調、仕草をすることが好きだったり、その方が自分らしいと思ってする人もいます。

 

性的興奮を得るために女装や男装をするのは「性嗜好」に関わることで、性自認や性表現とは区別されます。「出生時にわりあてられた性別が男性で自分の性自認が男性」であるオートガイネフィリアは、通常トランスジェンダーには含まれません[10](トランスジェンダーに含まれないだけで、自動的に攻撃していい対象ではありません。オートガイネフィリアにも様々な苦悩と自身の性に対する向き合い方があります)。

 

トランスジェンダーが自分の性自認に沿った格好をすることや、クロスドレッサーが好きなものを身につけることに対して、「性的興奮を得るためだ」「騙すためだ」という偏見を持つことは、当事者の苦悩につながります。

 

LGBTQ とLGBTPZNとは?

LGBTQ とは(L)レズビアン、(G)ゲイ、(B)バイセクシュアル、(T)トランスジェンダー、(Q)クィア/クエスチョニングの頭文字をとったセクシュアル・マイノリティーの総称です。

 

(Q)クエスチョニングとは「自分の性別がわからない/意図的に決めてない/決まっていない人のこと」です。「自分はLGBTのどれかかもしれないし、どれでもないかもしれない」「どのセクシュアリティと言ってもしっくりこない」「どれかを決める必要はないと思っている」などの自己認識を持っています。

 

同じく、LGBTQの(Q)にあたるクィアとは「固定化された規範に対して『奇妙さ』を持つ人たち」が、それぞれに差異があることを認めつつ、連帯することができるように使われている呼び名です。

 

たとえば、「男は○○である」「女は○○である」「同性愛は○○である」「トランスジェンダーは○○である」というふうに、いつの間にか、固定化されてしまった枠組みによって、コミュニティーの外へ追いやられ、希薄化されてしまいがちな人たちが、仲間として一緒にやっていくための言葉です。

 

言い換えると、「男なのに○○するなんて変だ」「トランスジェンダーなのに○○しないなんて変だ」「LGBTのどれにも当てはまらないなんて変だ」というふうに「奇妙に」見なされる人たちも、差別や暴力から守られるように、違いを認めつつ、「クィア」として連帯することを目指した用語です。

 

ただし、LGBTQの連帯は、差別や偏見に抵抗するため、暴力から守られるため、社会を生きやすくするために行っているもので、他者の自由の侵害を擁護したり、犯罪に加担するための連帯ではありません。

 

最近、LGBTQの(Q)に、ペドフィリア(小児性愛)、ズーフィリア(動物性愛)、ネクロフィリア(死体性愛)も含まれるとして、LGBTQを「他者の権利の侵害となる性行為も多様性として認めろと言っている反社会的な連帯」かのように印象付ける発信が見られます。

 

LGBTPZNという言葉も、LGBTに(P)ペドフィリア、(Z)ズーフィリア、(N)ネクロフィリアの頭文字をくっつけて「両者は、自分たちがやりたいことを好き勝手やらせてもらう権利を主張している」と印象付ける発信に使われています。

 

しかし、LGBTQの連帯は、自分たちが差別や暴力から守られるように、不合理な制度や仕組みを変えていくための連帯であり、合意なく他者を巻き込んで、他者の自由を侵害する行為を認めているわけではありません。

 

PZNと一括りにされる小児性愛、動物性愛、死体性愛の人たちも、皆が「他者の自由を侵害していい」と思っているわけでも、皆が犯罪を犯しているわけでもありません。実行に移せば他者の権利の侵害となる欲望を持っていることに悩み、それを実行してしまわないよう「やらないための連帯」を当事者同士で行っているところもあります。加害者にならないよう、健全な社会生活を送れるよう、支え合っている自助団体があります[11]

 

そういった実情を鑑みずに「特定の性愛感情を持っているから/特定の性嗜好を持っているから、自動的に犯罪者として扱う」ことは、当事者の犯罪を防止するよりも、当事者の回復と健全な生き方を妨げます。

 

いかなる性自認・性的指向・性表現・性嗜好の人であっても、それだけで犯罪者や加害者と結びつけて、殊更に恐怖を煽るのは、差別であり、暴力です。それによって引き起こされるのは、性被害の防止ではなく、偏見と憎しみの連鎖です。

 

先に挙げたとおり、LGBTQの(Q)は、クエスチョニングやクィアを指す言葉で「どんな行為をする人も容認する枠組み」ではありません。差別や暴力から身を守り、社会を生きやすくするための連帯です。そして、PZNと一括りにされた人たちにも、自分が加害者にならないよう、健全な社会生活を続けられるよう、「やらないための連帯」をしている人たちがいます。

 

どちらの連帯も、否定的なイメージと結びつけて、貶めたり、壊したりしていいものではありません。それは被害の防止ではなく、健全な生き方の阻害であり、多くの人が一番やりたくない暴力への加担となるからです。

 

アンブレラタームとは?

トランスジェンダーのアンブレラターム(umbrella term)とは、「様々な差別や暴力の『雨』から身を守るための『傘』である『トランスジェンダーコミュニティ』に属する人たちを表すもの」です[12]

 

傘の中には、トランス女性も、トランス男性も、ノンバイナリーも、異性装の人も入っていますが、傘の中にいるもの同士は、それぞれ異なる定義を持っています。

 

同時に、トランスジェンダーは「自分の性自認(性同一性)が何か」を言語化していく、一致するものを探していく過程で、「自分は異性装かと思っていたけどトランス女性かもしれない」→「トランス女性かと思っていたけどノンバイナリーと言う方が正しい気がする」……というふうに、人によっては揺れ動く時期を過ごします。

 

そのため、トランスジェンダーの枠組みから、異性装の人を安易に外すことはできず、「ジェンダー規範から外れる外見や特徴を持つ人たち」として、一緒に内包されています。

 

トランスジェンダーアンブレラは、様々な差別や暴力を受けている各グループを見渡せるようにしたもので、いたずらに様々な境界をなくしたり、混乱させるために作られた概念ではありません。傘の中に含まれている人たちが、一様に同じ認識や同じ対応を当てはめてほしいと求めたり、訴えたりしているわけでもありません。

 

繰り返しますが、トランス女性、トランス男性、異性装の人たちは、同じ傘の下にいますが、異なる定義を持っています。トランス女性は「出生時にわりあてられた性別が男性で性自認が女性である人」、トランス男性は「出生時にわりあてられた性別が女性で性自認が男性である人」です[13]

 

異性装は、文化的に自らの性役割に属するとされる服装をしないことです[14]。トランスジェンダーコミュニティーが「異性装の人も異性と同じトイレや風呂を使えるようにして」と要請しているわけではありません。国や地域によっては、異性の性表現をしただけで罪に問われたり、刑罰に処せられてしまうことがあり、そうした差別や暴力から守られる必要のある人たちが、アンブレラタームの中に入っています。

 

トランスジェンダーの大多数は、必要な場面で必要な区別をなくすことを求めていません。問題が生じる、合理的でない区別の改善を求めています。痴漢やDVやいじめから守られたいのは、みんな一緒です。

 

トランスジェンダーも、それらの被害を受けてきて[15]、それらの被害を過小評価していません。シスジェンダーもトランスジェンダーも、共に性暴力から守られること、性被害が防がれることを望んでいます。

 

LGBTQと犯罪者とカルト

シスジェンダーの中に、犯罪や暴力を振るう人がいるように、トランスジェンダーの中にも、犯罪や暴力を振るう人がいます。それらは個々に指摘と批判をしながら止めていく必要があります。

 

様々な社会福祉団体の中に、不適切な行為や運営をする個人や集団がいるように、LGBTQの支援者の中にも、不適切な行為や運営をする個人や集団がいます。それらは個々に批判と糾弾をしながら止めていく必要があります。

 

あらゆる宗教、商業、非営利組織の中に、破壊的カルトやカルト化した団体があるように、LGBTQの活動をしている団体にも、カルト化するところは出てきます。医師や科学者の中にもニセ医学やニセ科学を広める人が出てくるように、必ず出てきます。

 

ボランティアでも、サークルでも、平和運動でも、人権団体でも、破壊的な傾向がある団体は既に存在し、それらは個々に批判と糾弾をされながら、実態を知らされたり、運営を止めたり、健全化を目指したりしていきます。

 

しかし、宗教を否定するために、商業を否定するために、非営利組織を否定するために、特定の意識を共有する人たちに対して、安易に「カルト」という言葉を用いてはなりません。同じように、LGBTQを否定するために、安易に「カルト」という言葉を用いることも健全ではありません。それはカルト対策にも被害防止にもなりません。

 

これまで、犯罪者や加害者に紐づけて行われてきた外国人への差別、移民への差別、障がい者への差別など、多くの差別の源には、膨れ上がる恐怖心と正義感がありました。「こういう人たちからみんなを守らなければならない」「こういう人たちの危険を知ってもらわなければならない」……そうした切迫感によって、ヘイトクライムという本来望んでいなかったはずの暴力も生まれてきました。

 

それらは、当事者がどんな世界に生きているか、どんな現実を生きているか、なぜ権利を求めて訴えているのか、偏った角度からしか見えてないゆえに、起きてきたことだと思います。大事なのは、私たちが互いのことを圧倒的に知らないという意識だと思います。

 

私たちが、正義のために、相手の訴えに反論しようとするとき、本当に相手の求めていることを正しく捉えられているか、相手の訴えを捻じ曲げて人に伝えてないか、常に自分を検証する態度を忘れずにいたいです。自分自身が揺るがされる勇気を持ちたいです。

 

[1] http://www.kirishin.com/2023/01/23/58300/ 参照。

[2] 後に「トランスジェンダーの女性」と訂正され、「オカマ」という言葉は削除された。

[3] https://trans101.jp/term/ 参照。

[4] https://trans101.jp/term/ 参照。

[5] https://www.outjapan.co.jp/pride_japan/news/2019/5/13.html 参照。

[6] https://trans101.jp/term/ 参照。

[7] https://www.nexdsd.com/dsd 参照。

[8] https://trans101.jp/faq1/#q1 参照。

[9] https://www.outjapan.co.jp/pride_japan/glossary/sa/7.html 参照。

[10] https://wezz-y.com/archives/91560 参照。

[11] https://wezz-y.com/archives/53907 参照。

[12] https://youtu.be/TeHeqkXR8Bg 参照。

[13] https://trans101.jp/faq1/#q1 参照。

[14] https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%B0%E6%80%A7%E8%A3%85 参照。

[15] https://trans101.jp/2021/11/12/1-8/https://www.outjapan.co.jp/pride_japan/news/2017/9/2.html 参照。

カルト脱会後のQ&A ⑴ 回復の過程

破壊的カルト 2022年11月29日

Moshe HaroshによるPixabayからの画像

破壊的カルトを脱会した後、よく質問されるような内容を整理しています。今後、追加したり、更新していく予定です。

 

私の居たところはカルトかどうか分かりますか?

破壊的カルトとは、

 

①霊感商法、霊視商法、募金詐欺などの「金銭的被害」
②性暴力、虐待、奉仕の強要、長時間の拘束などの「身体的被害」
③誹謗中傷、パワハラ、セクハラ、脅しなどの「精神的被害」
④交流する人を制限したり、家族を敵視させる「関係性の破壊」
⑤騒音、占拠、無許可の貼り紙など「公共の福祉や利益の侵害」

 

などをもたらす反社会的集団です。それらが組織的に行われ、隠蔽され、正体や目的を隠した活動が行われているのであれば、カルト団体である可能性が高いです。

 

JSCPRの『集団健康度チェック表』を使ってみると、自分のいた団体に、どの程度、破壊的要素があったのか、客観的に整理することができます。何が問題だったのか言語化できるようになると、自信と回復につながるので、ぜひ活用してみてください。

 

JSCPR集団健康度チェック目録

 

宗教と宗教カルトの違いは何ですか?

健全な宗教と宗教カルトの違いは、個人の人権を侵害し、公共の福祉を破壊するような行為が、組織的・継続的に行われているかどうかです。特に「正体や目的を隠した勧誘」や「信じない自由を保障しない」自己決定権の侵害は、宗教が宗教カルトになっていく境界線です。健全な宗教であれば、正体や目的を隠した勧誘、信仰の強制、虐待や不法行為は行いません。

 

カルトのマインド・コントロールとは何ですか?

マインド・コントロールとは、本人が他者から操作を受けていることに気づかずに、思考や行動をコントロールされてしまう様々なテクニックの総称です。本人は「自分の意志で他者(組織)のために行動している」と思い込まされますが、実際には様々なコントロールを受けています。


被害者は、自分が受けていた「情報コントロール」「行動コントロール」「思考コントロール」「感情コントロール」の仕組みについて理解し、現在もどのような影響下にあるか整理しなければ、脱会後も、他のカルトや個人の支配に巻き込まれやすくなります。


特に、自分で何かを決めること、自分で何かを選択することに恐怖を覚え、誰かの指示や許可を求めるように思考が固定化されている人は、種々のコントロールについて学び、自分で考える力を回復する必要があります。カルト被害相談窓口の「心の相談室 りんどう」など、カルト問題に理解のある臨床心理士や公認心理士、元脱会者、宗教者などが連携している機関を頼ってください。


支援者とつながることが困難な人は、同じくカルトの脱会者であるスティーブン・ハッサンが書いた『マインド・コントロールの恐怖』『マインド・コントロールからの救出』などを読んで、自分に何が起きたのか、どういう状態なのか、整理してみてください。

 

カルトの教えの特徴は何ですか?

カルト団体が教える内容は、1から10まで全てが間違っているわけではありません。辛いときに励ましや慰めを与え、希望を持たせ、視野を広げてくれる教えもあります。自分のいた団体で教えられたこと、気づかされたことを全て否定する必要はありません。

 

しかし、詐欺師が本当の話に嘘を織り交ぜて話すように、カルトも健全な教えに悪質な教えを織り交ぜて人々をコントロールします。たとえば、

 

「自分たちの目的のためなら嘘をついても許される」
「リーダーの言うことや教えの内容に疑問を抱いてはならない」
「自分たち以外は本当に正しいことを知らず、間違っている」
「自分たちを非難し、批判する人々は悪であるか、悪の操作を受けている」
「自分たち以外は救われない」
「自分たちから離れた仲間は酷い目に遭ったり地獄に落ちる」

 

といった内容です。これらは、あなたを救うための教えではなく、あなたをコントロールするために、あなたが頼れる人をカルトメンバーに限定し、あなたを身内や社会から孤立させ、あなたの居場所をカルト以外になくしていくための教えです。健全な宗教であれば、このような教えを安易に、乱暴に語りません。

 

カルトの教えの特徴は、二元論的で視野を狭くし、自由に取れる行動や選択を少なくし、自分の頭で考えることに自信をなくさせ、「悪いことが起きる」という恐怖心や「良い結果や成功を得られない」という切迫感を増幅させ、人を騙したり傷つけたりする行動にも従わせてしまうところです。

 

教えによって、心が軽くなったり、強くなれた部分もあれば、不安を煽られたり、恐怖に囚われた部分もあるでしょう。しかし、「良いことがあったから悪い部分は無視できる」わけではありません。むしろ、悪い教えでコントロールするために、良い教えでカモフラージュされているところもあります。

 

今後、自分が生きていく上で、「大切にして良い教え」と「放置してはならない教え」を整理しながら、カルト団体で得た経験を消化していきましょう。

 

カルトを脱会した人はどうなりますか?

脱会までのプロセスによりますが、長期間信じていたもの、積み重ねてきたものが崩れてしまうので、最初は何も手につかなかったり、誰も信頼できなかったり、不安定になります。この期間は、本人も周りも焦らずに、よく休むようにしてください。虚無感や無力感によって、何もできなくなる時間は、カルトにいる間、傷つき疲れてしまった心身を回復し、エネルギーを蓄えるために必要な期間です。
 

少し元気になってくると、今まで拠り所にしていたものがなくなって、何に従えばいいのか分からなくなっているので、他の宗教や自己啓発に触れ始める人もいます。しかし、脱会直後は、自分が受けていた種々のコントロールについて学び、現在もどのような影響を受けているか整理して、自分で考える力を回復するときです。

 

安易に、他の宗教や自己啓発を訪ねると、新たに支配される場所、依存する場所となりかねません。まずは、何に従えばいいのか探すのではなく、自分に何が起きたのか理解と整理を進めましょう。信じるべきものを探すのは、自分に何が起きたのか整理してからでも遅くはありません。
 

また、本人も周りも、社会復帰を焦らないでください。脱会者の多くは、罪悪感や自己責任論に支配されて、人に頼ることが困難です。健全な頼り方ができない状態で社会復帰をしてしまうと、問題を一人で抱え込んだり、かえって孤立してしまい、再び心身が壊れるまで頑張ってしまいます。

 

自立を急いで、情報商材やマルチ商法に絡め取られてしまう人もいるので、自分の限界を正しく認識し、適度な目標設定をできるようになるまで、焦って仕事を始めようとするのは控えましょう。骨折して手術した後、すぐにリハビリを始めたら回復しないように、脱会して帰ってきた後、すぐに社会復帰を始めるのは乱暴です。
 

脱会後の整理が進み、自分の状態を認識し、限界の理解と目標設定ができるようになれば、健全な日常を取り戻していくことができます。脱会したから、罰を受けて、調子が悪くなるのではありません。心身に染み付いたコントロールから脱する過程で、自分の限界を知って、休むようになるために、調子が悪くなります。
 

医療機関や社会福祉機関など、信頼できる機関を頼りながら、回復プロセスを踏んでいけば、カルトで経験したことやカルトに居たことで分かったことも、無駄にはなりません。脱会して、友達や仲間ができた人、恋人や家族ができた人、趣味や楽しみができた人、新たな目標ができた人もたくさんいます。
 

一人暮らしを始めたり、旅行へ行ったり、漫画や小説を書くようになった人もいます。ジャーナリスト、教師、弁護士、臨床心理士をしている人にも、様々な脱会者がいます。脱会したら、酷い目に遭ったり、地獄に落ちたりするわけではありません。組織から守ってくれる支援者もいます。仲間もいます。ぜひ、希望を持ってください。

 

脱会後の回復にはどれくらいかかりますか?

その人の生育歴やカルトでの経験、脱会までのプロセス、病気や障害の有無、周りの理解度によって様々です。短い人は3ヶ月〜半年くらいで日常を取り戻しますし、長い人は10年前後かかります。ただし、その期間、ずっと同じ状態が続くわけではありません。


社会復帰に至らなくても、人と話せるようになったり、人と話せなくても、本や漫画が読めるようになったり、家から出られなくても、身の回りのことが自分でできるようになったり、変化は徐々に訪れます。何年も回復しないのではなく、回復の段階が複数あり、どの段階で時間を要するか、人によって違うと思ってください。
 

また、回復には波があります。途中まで、調子が良くなってきたと思ったら、再び、自信の喪失や恐怖に襲われることもあります。それは「後戻り」ではなく「回復の波が小さくなるまでのプロセス」です。波があることは、正常な現象です。回復が止まった、後退したのではなく、回復が進む過程なので、焦らず休息してください。

 

カルトの脱会者が相談できるところはありますか?

脱会前でも脱会後でも、以下のところで相談できます。「全国霊感商法対策弁護士連絡会」「統一教会被害者家族の会」「カルト被害相談窓口 心の相談室りんどう」「宗教2世ホットライン」「日本基督教団カルト問題連絡会

 

これらは、カルト問題に取り組む弁護士、臨床心理士、社会福祉士、元脱会者、研究者、宗教者などが連携している機関です。ネットやSNSでは、誰でも支援者やカウンセラーを自称できるので、ここに挙げたような複数の支援者と連携しているところを頼るようにしてください。

2022年 礼拝研修会「①各讃美歌の使用と目的」「②聖餐式と愛餐式」

礼拝研修会 2022年1月23日


www.youtube.com

 

はじめに

この記事は、2022年1月23日(日)の在宅礼拝が終わった後、YouTubeの配信を使ってオンラインで行った日本基督教団華陽教会の礼拝研修会の原稿です。

 

華陽教会では、例年、1月のどこかで「前奏」から「後奏」まで、一つ一つの要素を説明しながら礼拝の意味について振り返る『オープン礼拝』を行った後、午後から『礼拝研修会』を持っています。今年は、新型コロナ感染症第6波に伴い、昨年同様、教会に集まっての研修会は休止することになりました。

 

その代わり、YouTubeの配信を通して、コロナ禍で在宅礼拝になってから使用するようになった讃美歌や、会衆と共に聖餐式ができない月に行われるようになった愛餐式について、改めて共有する時間を作ろうと思います。

 

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Khoa LêによるPixabayからの画像

『讃美歌』『讃美歌21』『オンライン賛美歌』の使用と目的

まずは現在、華陽教会で使われている3つの讃美歌、『54年版讃美歌』『讃美歌21』『オンライン讃美歌』の使用と目的について振り返ろうと思います。

 

讃美歌

華陽教会では、毎週日曜日の礼拝で、最初に歌う賛美歌に『54年版讃美歌』(普段は『旧讃美歌』と呼んでいます)を使っています。これは、礼拝の開始を告げる「前奏」に続いて、神の招きを告げる聖句「招詞」が読まれた後に歌われる賛美に位置します。この部分の賛美歌は、「神の招きに対する応答」として歌われます。

 

そのため、奏楽者を中心とする礼拝委員会で、2ヶ月毎に教会暦のテーマに沿ったものが選ばれます。『旧讃美歌』は、日本で古くから歌われている賛美歌が多数収録されているので、よく知られた歌や懐かしい歌が多いです。礼拝の最初の部分で、みんなが歌いやすい馴染みのある賛美歌を歌って、神の招きにあずかりやすくしています。

 

また、『旧讃美歌』に収められた賛美歌は、ほとんど著作権の保護期間が切れているかJASRAC管理の内国作品となっています。そのため、YouTubeのライブ配信にも、アーカイブ動画にも、手続きなしで流せる作品が多くあります。直接礼拝に参加できない人やリアルタイムで配信を見られない人も、カット編集していない賛美歌を一緒に歌えるように、なるべくそういったものを選んでいます。

 

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讃美歌21

『讃美歌21』は、華陽教会がメインで使用している讃美歌です。主に、聖書と交読詩編を読んだ後、メッセージの前に歌われる賛美歌か、メッセージの後に歌われる賛美歌、あるいは、祝福の前に歌う「派遣」や「頌栄」にあたる部分で使われています。メッセージの前後にあたる賛美歌は、担当する牧師が選んでいます。

 

メッセージの前には、「神の言葉を受け取る準備」にふさわしい賛美歌が、メッセージの後には、「神の言葉を締めくくる」のにふさわしい賛美歌が選ばれます。そのため、だいたいは聖書箇所に即したものか、メッセージのテーマと一致する賛美歌を用いることが多いです。「派遣」や「頌栄」の部分の賛美歌は、教会暦に応じて礼拝委員会で選びます。

 

『讃美歌21』には、『旧讃美歌』ではあまり収録されていなかった新しい賛美歌や、アジア・アフリカ圏の賛美歌が多数収録されており、目次を見ても分かるように、礼拝の諸要素に適合する歌が、だいたい揃っています。

 

ただし、著作権保護期間の切れてない、新しい賛美歌が多いので、配信に流せないものやライブ配信後にアーカイブからカット編集しなければならないものも入っています。コロナ禍による特例で、日本基督教団出版局が著作権を管理している楽曲については、一定期間手続きなしで使えますが、通常は1週間から10日ほど前に申請手続きを行います。

 

オンライン賛美歌

オンライン賛美歌は、コロナ禍に入ってから、配信等による在宅礼拝に切り替わったタイミングで、徐々に使用するようになった賛美歌です。日本基督教団鈴蘭台教会で牧師をしている柳本和良先生(名前を見たら分かるかと思いますが、私の弟です)が作った賛美歌で、メッセージ後の「神の言葉を締めくくる」賛美か、祝福の前に「派遣」や「頌栄」として歌われる賛美に使っています。

 

新しい賛美歌なので、歌い慣れてない人も多いため、基本的には1ヶ月毎に礼拝委員会で検討して、教会暦やその月のメッセージにふさわしい歌を選んでいます。オンライン賛美歌を使用するようになったきっかけは、感染症拡大のため、配信を通して自宅から礼拝に参加する人たちが、歌うことのできる賛美歌を確保するためです。

 

というのも、著作権保護期間の切れていない賛美歌や、日本基督教団出版局、および、JASRAC管理の内国作品以外の楽曲は、許諾申請手続きが困難だったり、使用料を支払う必要が出てくるため、普段の礼拝に使用できないことがたくさんあります。

 

また、著作権保護期間の切れている賛美歌が多い『54年版讃美歌』も、YouTubeに搭載されたAIにより、CDに収録された楽曲をそのまま教会で流していると勘違いされ、著作権侵害の申し立てを受けることがあります。よく歌われる有名な賛美歌ほど、CDやレコードに収録されていることが多いため、泣く泣く後からカットしている賛美歌もあります。

 

最近は、子育てや介護の関係で、リアルタイムの配信に参加できない人も増えているので、できる限り、ライブ配信が終わった後も、アーカイブ動画に歌える賛美歌を残しておきたいと願っています。しかし、配信に残せる賛美歌には限りがあります。そこで、礼拝で使用する目的なら手続きなしで使えるように……と作られたのがオンライン賛美歌です。

 

オンライン賛美歌は、柳本和良先生が、2011年の東日本大震災以降、コツコツ作ってきた賛美歌で、信仰的なつまずきや疑問、悩みや課題を分かち合える歌が多く入っています。配信で楽譜の掲載も許可されているため、始めて動画を見る人にも分かりやすく、水曜日の聖書研究祈祷会や教会学校こども礼拝でも使わせていただいています。

 

賛美歌を選ぶ理由と準備

以上、紹介したように、華陽教会ではそれぞれの讃美歌を、教会暦やメッセージのテーマ、使用する目的を考えて、牧師や奏楽者を中心とする礼拝委員会で検討しながら選んでいます。YouTubeで礼拝を配信するために、著作権も事前に調べて準備しています。好きな賛美歌を適当に選んで用意するわけではありません。

 

奏楽者の方も、前奏や後奏に使う賛美歌をギリギリまで悩んだり、祈りながら準備しています。それらのことを踏まえながら、会衆の皆さんから「この賛美歌も使えないか?」「こういう時期に、こういうテーマでこの歌を歌えないか?」という提案があれば、他の歌集の歌であっても、一緒に検討したいと思っています。

 

ただし、賛美歌なら何でも使えるというわけではなく、中には、キリスト教を装った破壊的カルトや、議論ある団体から発行されている歌集もあります。著作権フリーになっていても、使用する教会が増えることで、出版元のカルト的な団体の信頼を高めてしまう危険もあります。

 

これは、聖書翻訳についても同様で、著作権フリーだからと言って、全てが安心して使えるわけではありません。基本的には、教団出版局など、どういう背景のところが、どういう目的で作ったものか、明らかなものを使用するのが適切です。何か、気になる賛美歌があったときは、まずは、牧師や礼拝委員の方々へご相談ください。

 

賛美歌を歌う会衆の準備

ここまでは、メッセージを担当する牧師や奏楽者を中心とする礼拝委員会の視点から、どの賛美歌を、どんな目的で使用しているのか話してきました。ここからは、会衆である皆さんの視点から、賛美歌の使用と目的について、確認したいと思います。

 

毎年、オープン礼拝や礼拝研修会があるときは、繰り返しお話ししていますが、賛美歌は、「神の招き」「神の言葉」に対する会衆の応答です。皆さんが、神を呼び求める声であり、祈りであり、姿勢であって、神の恵みに対する感謝のささげものでもあります。自分たちが満足することを目的にしているわけじゃありません。

 

ときどき、馴染みのある歌、気に入った歌だけを、自分たちのために歌っている……という状況に陥ってないか、気をつけてほしいと思います。歌うのが難しい曲が選ばれたときも、今、その歌を通して、どんな姿勢をみんなで現そうとしているのか、一緒に考えてほしいんです。

 

もっとゆっくり歌いたい、もっと早く歌いたい……という気持ちのときも、奏楽者が、なぜ、このテンポでリードしているのか、なぜ、この曲調で弾いているのか、歌詞を味わいながら考えてほしいんです。自分が歌いやすいように、歌って満足するのが賛美歌ではありません。慣れない歌い方でも、失敗しがちでも、集まったみんなで、精一杯、神様にささげる賛美に、神の栄光は現れます。

 

そして、歌詞や曲調に込められた意味を考えながら、賛美をささげようとすれば、自ずと色んなことに気がついてきます。たとえば、賛美歌の最後には、ほとんど必ず「アーメン」という言葉をつけますが、「アーメン」で終わるのが、不自然なときもたまにあります。

 

「アーメン」は多くの方がご存知のとおり、「本当です」とか「本当にそうなりますように」という意味のヘブライ語で、もともと、賛美歌の最後に、必ずつけると決まっていたものではありません。日本では 1931 年版と 1954 年版の『讃美歌』で、全ての歌詞に「アーメン」が記載されたことにより、習慣的に「アーメン」をつけるようになりました。

 

しかし本来は、その賛美歌の歌われる位置や用途、歌詞の内容によって、「つけるか」「つけないか」を決めるものです。『讃美歌21』では、混乱を避けるため、便宜上、ほとんどの歌詞に「アーメン」の歌詞を載せていますが、必要に応じて使い分けるよう勧められています。

 

特に、コロナ禍で時間を短縮して礼拝を行う場合、全ての歌詞を歌わずに、1番と3番だけ……というふうに、省略して歌うこともありました。そういうとき、「この礼拝で、この時間に、この歌詞とこの歌詞で歌うなら、最後に『アーメン』とつけるのはおかしい」という場合も出てきます。

 

たとえば、「神よ、あなたは来てくださいますか?」という疑問で終わる歌詞なのに、「本当です」とか「本当にそうなりますように」という「アーメン」が最後についたら、どういう姿勢?……となりますよね。

 

つけたり、つけなかったりじゃ、ややこしいから……という理由で、全部の賛美歌に一律「アーメン」とつけるのではなく、どのように歌うのが、「感謝の応答」としてふさわしいか、神を呼び求める姿勢にふさわしいか、一緒に考えながら、これからも歌っていきたいと思います。

 

「聖餐式」と「愛餐式」

次に、華陽教会で行われている月一回の「聖餐式」と、在宅礼拝期間中に配信を通して行われている「愛餐式」について、信徒の皆さんには繰り返しになりますが、改めて共有したいと思います。

 

聖餐式とは?

まず、パンとぶどう液をいただく「聖餐式」は何のための式かと言うと、これは「キリスト者であり続けるための式」です。よく、洗礼を受けて教会員になった人の「ご褒美」と勘違いしている人がいますが、それは違います。聖餐式は、信仰告白をした人が繰り返しあずかるように命じられた「務め」であり、「恵み」です。

 

信仰的につまずいたから、神様を疑ってしまったから、今日は聖餐を受けるのを控えます……という態度は、間違いです。むしろ、信仰者であり続けることが困難に感じたときこそ、聖餐を受けて、イエス・キリストが共にいることを覚えます。

 

この食事は、キリストが十字架につけられる前夜、これから自分を見捨てる人たちと最後にとった食事であり、キリストが復活した後、自分に出会っても気づかない弟子たちと一緒にとった食事です。イエス様の弟子であり続けるのが困難なときこそ、イエス様はこの食卓へ一緒に着くのを求めています。

 

だから、信仰を告白した方は、あなたに命じられた務めとして、できる限り、聖餐式に参加できるときはあずかってください。また、聖餐式は、キリストの十字架と復活を思い起こすという意味だけでなく、将来行われる、神の国の祝宴を先取りした食卓でもあります。自分を見捨てる弟子たちに、神の国で再び飲もうと言われたイエス様を思い起こし、私たちも、その食卓へ招かれていることを思い出します。

 

これらは、個人的な体験として行われる儀式ではなく、信仰共同体の体験として、繰り返される儀式です。誰が一番偉いか、誰がイエス様を裏切るか、疑ったり、争ったりする仲間たちが、イエス様を中心に一つとされたことを思い出す儀式です。ですから、「あなたは受けるべきじゃない」とか「私は一人で受けたい」とか言うのではなく、信仰者同士、互いにとりなし合いながら、パンとぶどう液を受け取ることが勧められます。

 

そして、聖餐式は、キリストが行うよう命じた、教会が行う「聖礼典」の一つで、基本的には牧師が執行します。離れたところにいる人たちと、画面越しで、顔の見えないまま、配信を通して執行できるかは議論があり、私も慎重派です。少なくとも、華陽教会でやるには、まだその準備が整っていないと思っています。そこで、現在は、対面で集まれるときのみ聖餐式を行っています。

 

愛餐式とは?

一方、「愛餐式」というのは、「集まった人たちと神の祝福を分かち合う食事」です。信仰を告白した人も、告白していない人も、共に分かち合う恵みとして、「パンと水」「パン菓子やお茶」などをいただきます。

 

これは、キリストが山の上で5千人に分けられた、パンと魚の食事を根拠に整えられているもので、イエス様の弟子になった人も、ただ集まっただけの人も、一緒に分かち合った食事が元になっています。

 

華陽教会では、さらに、キリストがサマリアの女性に与えると言った「命の水」、キリストが群衆に与えると語った「命のパン」の聖書箇所から、神の祝福を分かち合う食事の式文を考えています。愛餐式も、聖餐式と同様、個人的な儀式ではなく、聖書の言葉を共に聞く者たちの儀式なので、なるべく家族や同居している人たちと一緒に行うことが望ましいです。

 

キリストが行うよう命じた聖礼典ではありませんが、華陽教会のルーツであるメソジスト教会が、各家庭で積極的に行っていたものでした。必ずしも牧師が執行しなければならないものではありませんが、集まった人たちが、一緒に聖書を聞いてから行うことが本来の形です。ですから、自宅でやる場合も、礼拝の中で行うか、聖書日課で定められた聖書箇所などを読んでから行うことが望ましいです。

 

もともと、各家庭で行われていた性格のものから、配信を通して、それぞれの自宅でこの食事を分かち合うことができるようにしています。愛餐式は、集まった人たちが信仰に導かれ、いずれは、一緒に聖餐を受けることを願い、共にあずかる食事でもあります。聖餐式ができない間、在宅礼拝期間中は、離れた人たちと一緒に、再び聖餐ができる日を願いながら、配信を通して、各家庭から愛餐式に参加していただいています。

 

また、中部学院大学の聖歌隊や新来者がたくさん来られるクリスマス、教会員の家族や遺族が集まる召天者記念礼拝など、信仰を告白した人と告白していない人が、一同に介する機会のときは、役員会で検討し、愛餐式を会衆礼拝の中で行うこともあります。

 

実際、去年の12月は、第一日曜日に聖餐式を行い、クリスマス礼拝で愛餐式を行わせていただきました。教会員が、帰省してきた家族と一緒に来られることが多い、1月1日の元旦礼拝にも、感染症対策を徹底した上で愛餐式を行っています。

 

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まとめ

このように、華陽教会では、コロナ禍によって、配信等による在宅礼拝が何度か繰り返される中で、その都度、使用と目的について検討しながら、新しい賛美歌や愛餐式を取り入れて来ました。緊急の事態でもあったので、繰り返し共有されても、いまいち飲み込まないまま受け入れて来た方もいたかもしれません。

 

今回、改めて、教会がどのように礼拝の仕方を検討し、模索し、実践してきたのかを考えながら、私たちのこれからの礼拝をより豊かにしていければ幸いです。オンライン研修会のアーカイブは、この後も残しておく予定なので、質問のある方はコメント欄でも、直接牧師に電話やメールをしていただいてもOKです。

 

また、再び今日からしばらくの間、会衆が集まる礼拝を休止することになりましたが、この間もそれぞれの自宅、施設から行われる礼拝が、神様に支えられて、一人一人の信仰生活が守られるようにお祈りしています。

 

お祈り

日々、歩みを共にしてくださる、私たちの神様。

今日は、急遽、在宅礼拝へ以降することになりましたが、

こうして最後まで、礼拝と研修会を導いてくださり、感謝致します。

まだまだ、どうすることが最適なのか、模索し続ける日々ですが、

あなたとのつながりを強く持ち続けることができますように。

そして、教会に連なる一人一人の交わりも、

引き続き、新しくされていきますように。

人と人との間におられる、イエス・キリストのお名前によって祈ります。

アーメン。

礼拝のYouTube配信と著作権

2021年11月1日

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StockSnapによるPixabayからの画像

 

私が牧師をしている華陽教会では、新型コロナウイルスが流行し始めた2020年4月以降、感染リスクの高い方や、その身内のいる家庭のため、自宅待機中も配信を通して祈りを合わせられるように、YouTubeによる礼拝の動画配信を続けてきました。今後、感染症の拡大が収まってからも、様々な事情で直接教会へ集まりにくい人のため、配信を続けていく予定です。

 

しかし、配信を行う際、一番頭を悩ませてきたのが著作権の問題です。これから配信を始めようか迷っている教会、あるいは、一度止めた配信を再開しようとしている教会で、著作権に関する手続きが、よく分からなくて困っているところも多いと思います。

 

そこで今回は、華陽教会の日曜礼拝、教会学校こども礼拝、聖書研究祈祷会を配信する上で、どのように著作権を確認して、どのような作業をしているのか、2021年11月の時点で行っている内容を紹介したいと思います。

 

ただし、著作権の専門家ではない素人が調べて確認してきた内容であること、動画投稿サイトの規約や法律が変更される場合もあることをご理解いただき、必ず公式発表の確認や問い合わせを行うという前提のもと、あくまで参考程度に読んでいただければ幸いです。

 

(*2021年11月2日に日本基督教団出版局、2021年11月5日にキリスト教視聴覚センターAVACO、2021年11月8日に日本聖書協会からそれぞれ確認してもらい、記事を一部修正しています。)

 

聖書の著作権

まず、礼拝の動画配信をする上で、注意すべき著作権と言えば、賛美歌の著作権と考える人が多いと思います。しかし、あまり注意を払われてない「聖書朗読」の著作権も、実は気をつけなければなりません。

 

キリスト教の聖典である旧約聖書、新約聖書は、何世紀も前に書かれたものだから、既に著作権を失っている……と考えるかもしれませんが、日本語に翻訳された聖書を使う以上、その翻訳にも著作権があります。著作権保護期間が終了していない訳については、定められた手続きが必要です。

 

もしかしたら、礼拝の動画配信で朗読するのは、聖書の「引用」であって「転載」ではないから、著作権の侵害には当たらない、引用であればどれだけやっても大丈夫、と考える人もいるかもしれません。

 

確かに、法律に定められた「引用」であれば、著作権の侵害には当たりません。しかし、難しいのは「正当な範囲内の引用かどうか」の判断です。著作権法での「引用の範囲」に数量的な決まりはないものの、引用として認められるには、オリジナル部分と引用部分の間に圧倒的な差が必要で、全体の1割程度までに留めることが推奨されています*1

 

私も、礼拝の中心である聖書朗読は、正当な範囲内の引用として認めてほしいと考えていますが、毎週礼拝の配信を続けていたら、一つのサイト(チャンネル)で、かなり多くの分量が引用されます。「それはもう引用ではなく転載に等しい」と捉えられても、仕方がないかもしれません。

 

また、残念ながら「引用」と称して、聖書を何十章もまるまるコピーペーストし、書籍やホームページに無断で載せてしまうケースも存在します。日本語訳の聖書を発行している各出版局は、教会諸団体に関係する、あらゆる方面へ様々な便宜を図りつつ、そういった問題を放置しないよう、ネット上で聖書を使用する際のルールを定めています。

 

今後、礼拝の配信における聖書朗読の扱いについては、もう少し議論されることを望みますが、まずは、各出版局が著作権者としてお願いしている内容をよく確認し、できる限り「適切な範囲内の引用」を心がけて、聖書朗読・聖書箇所の表示を行うことが、誠実な配信だと思います。

 

新共同訳聖書の場合

華陽教会では、礼拝の中で新共同訳聖書を使っているので、発行元の日本聖書協会による「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、チャンネル全体での引用が250節以内になるよう、礼拝や聖書研究祈祷会のライブ配信をした後、聖書箇所の表記を残して、本文の表示と朗読は後日カット編集しています。

 

教会学校こども礼拝については、配信を見られる人が、教会学校の生徒と保護者に限定されるようパスワードをつけています。

 

まとめると、

  • 礼拝の配信を誰でも見られるように全体公開する場合は、チャンネル全体での引用が250節以内になるよう、後からカット編集するか非公開にする必要がある。
  • 全体公開でライブ配信するのであれば、日本聖書協会(lib@bible.or.jp)へ、チャンネルのURLを知らせておく必要がある
  • リモート機能を用いて、教会や個人から聖書の朗読の送信や絵本聖書などの読み聞かせをする場合、送信先が所属する教会員の家庭など把握・特定できる所に限定され、出所の明示(聖書なら、何訳の何書何章何節~何節と表示、音声のみの場合はこれを言い添えること)をするのであれば、特に知らせる必要はない。

……ということです。

 

同じく、日本聖書協会発行の聖書協会共同訳を使用しているところも、同様のやり方で大丈夫です。

 

動画を後からカット編集するのが大変な場合は、ライブ配信後、アーカイブを順次「非公開」にするか、削除していくと、カット編集しなくて済むので手間が省けます。

 

ちなみに、1955年に日本聖書協会から発行された口語訳聖書については、著作権の保護期間が終了しているため、使用許諾申請なしで配信に使用できます。

 

ただし、「聖書語句訂正一覧」にある、1975年、1984年、2002年に訂正された単語や文章は、今も著作権が保護されているので、これらの改訂を含む口語訳聖書の使用については、使用許諾申請が必要です。ご注意ください。

 

賛美歌の著作権

次に、問題となってくるのは、やはり賛美歌の著作権です。礼拝の配信で使う賛美歌は「使用許諾申請の手続きが必要なもの」と「不要なもの」に分かれています。注意しなければならないのは、配信のプラットフォーム(動画投稿サイト)やその楽曲の著作権管理団体によって、手続きが不要か必要か変わる場合があることです。

 

また、ライブ配信のみを行うか、後から見られるようにアーカイブ動画も残すようにするかで、必要な手続きや作業が変わります。必ず、プラットフォーム上の音楽利用に関するルールを確認し、楽曲の著作権者や出版元が、使用にあたってどのようなお願いをしているか調べるようにしましょう。

 

讃美歌21の場合

華陽教会では、主に、日本キリスト教団出版局発行の『讃美歌21』を使用しています。讃美歌21については、日本キリスト教団出版局ホームページの「賛美歌著作権」で、原詞、訳詞、原曲、編曲、すべてにおいて日本キリスト教団出版局に著作権が帰属しているか、または保護期間が終了しているもののリストを掲載しています。(下記)

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このリストに掲載された楽曲については、今のところ、2024年3月31日まで、以下の条件で許諾申請不要で使用することができます。

 

  • 配信目的が新型コロナウイルス感染症の対策であること
  • 各個教会、学校、幼保こども園の礼拝であること
  • 2024年3月31日配信開始分まで(アーカイブの場合も賛美歌の削除は不要)

 

また、JASRACが利用許諾契約を締結しているプラットフォームであれば、JASRAC管理楽曲の賛美歌を手続きなしで配信に使うことができます。YouTubeもその一つです。JASRACの「動画投稿(共有)サービスでの音楽利用」によると、YouTubeで配信する場合は、

 

(1)賛美歌の音源(奏楽や歌唱)が会衆の手によるもので、

(2)作詞、作曲、訳詞、編曲の著作権がJASRAC管理か、保護期間の終了しているP.D.(パブリック・ドメイン)であれば、手続きなしでライブ配信(リアルタイムでの配信)をすることができます。

(3)加えて、楽曲が「内国作品」であれば、教会名義のアカウントでもアーカイブ動画に残しておくことができます。

 

ただし、楽曲が「外国作品」の場合は、手続きなしで個人以外の企業・団体がアーカイブ動画に残しておくことはできません。配信での使用を避けるか、ライブ配信後にカット編集するか、非公開にする必要があります。その代わり、配信するチャンネルが個人(牧師名義のチャンネルなど)であれば、(1)(2)を満たす外国作品もライブ配信後に残しておくことができます。

 

使用する賛美歌の作詞、作曲、訳詞、編曲の著作権がどこで管理されているかは、 J-WIDというサイトで「上記の内容に了承して進む」から検索画面に入って調べることができます。「作品タイトル」か「著作者名」に記入して「検索」を押すと、検索結果が出てくるので、該当する作品の「詳細」をクリックします。

 

すると、「管理状況(利用分野)」というところに「配信」というアイコンが出てくるので、そこをクリックして「管理状況詳細」で、作詞・作曲・訳詞・編曲の管理情報の「所属団体」を確認します。ここが「P.D.」か「JASRAC」になっていれば、YouTubeのライブ配信で使用することができ、楽曲のタイトル左下にある「内外」で「内国作品」と表示されていれば、アーカイブ動画にも残せます。

 

もう一度まとめると、J-WIDで検索して、作詞、作曲、訳詞、編曲の著作権管理情報の所属団体が全て

  • JASRAC
  • P.D.(著作権保護期間の切れたパブリック・ドメイン)

のいずれかであれば、手続きなしでYouTubeの教会名義のチャンネルで、ライブ配信をすることができます。

 

また、作詞、作曲、訳詞、編曲の著作権管理情報の所属団体が全て

  • JASRAC
  • P.D.(著作権保護期間の切れたパブリック・ドメイン)

のいずれかで、かつ

  • 内国作品

であれば、手続きなしでYouTubeの教会名義のチャンネルで、ライブ配信もアーカイブ動画に残すこともできます。

 

日本基督教団讃美歌委員会など「日本基督教団」と表記のある団体が管理しているものについては、今のところ2024年3月31日開始分までの配信は、新型コロナウイルス感染症対策として手続き不要で使用でき、アーカイブにも残しておけます。

 

2024年4月以降のことはまだ決まっていませんが、感染症が落ち着いた状態となり、「通常」でれば、日本基督教団出版局が著作権を管理している作品も、配信のため申請が必要になってきます。申請に必要な書類はホームページの『賛美歌の使用申請について』からダウンロードし、メールで送ることができます。

 

一週間前に申請すれば十分間に合いますが、場合によっては他所への申請を案内されたり、再選曲が必要なこともあり得るので、10日くらい余裕をもって申請できると安心です。許諾業務は、うっかり他の権利者のものを使ってしまわないように、各教会に気をつけていただくのが目的なので、なおざりにしないようにしましょう。

 

追記:2024年4月16日

2024年度から、日本キリスト教団出版局に著作権が帰属する賛美歌(詞・曲)をインターネット配信(映像、音声)で使用する際、

 

1. 使用者が、各個教会およびキリスト教主義教育機関(同窓会、保護者会を除く)であること。

2. 使用目的が、各個教会およびキリスト教主義教育機関の礼拝・集会(結婚式と有料行事を除く)であること。

3. インターネット配信で収益を得ていないこと。

4. ライブ配信、アーカイブ配信を問わず、年度末日(3月31日)までに配信開始するコンテンツでの使用であること。

 

に該当する場合には、使用料なしで、下記のリンクから年度分一括許諾申請を行うことができるようになりました。

 

bp-uccj.jp 

 

なお、各個教会の礼拝配信以外に使用する場合(コンサートや近隣教会との合同礼拝など)は、使用料がかかるときもあります。作品を提供してくれた著作者の生活に影響してくるので、こちらも合わせて注意しましょう。

 

華陽教会では、アーカイブを残す許諾を得られた作品かP.D.かJASRAC管理の内国作品以外は、ライブ配信後2〜3日中にカット編集しています。カット編集の手間が惜しい場合は、ライブ配信後は非公開にするやり方でもいいと思います。

 

讃美歌(1954年版)の場合

華陽教会では『讃美歌21』の他に、同じく日本キリスト教団出版局発行の『讃美歌』(1954年版)も使用しています。こちらの場合はほとんどが保護期間の切れたP.D.ですが、一部、保護期間中の日本語歌詞・日本人作曲作品があります。ただし、配信についての条件は『讃美歌21』と同じです。

 

下記の『讃美歌』(1954年版)の日本キリスト教団出版局外の著作権管理リスト載っている番号以外の賛美歌であれば、著作権保護期間を終了しているため、手続きなしで配信に使用することができます。このリストは、先ほどと同じくホームページの「賛美歌著作権」から見ることができます。

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また、リストに載っている「JASRAC管理賛美歌」であれば、YouTubeのライブ配信に使用することができ、かつ J-WIDで調べて「内国作品」であれば、教会名義のアカウントでアーカイブにも残せます。この点は『讃美歌21』と同じです。

 

華陽教会では、JASRAC管理賛美歌の内国作品か著作権保護期間の切れた賛美歌は、ライブ配信後もそのままアーカイブに残しています。

 

著作権侵害の申し立てについて

YouTubeで礼拝の配信をしていると、使用して問題ないはずの楽曲が「著作権侵害の申し立て」に引っかかることがあります。中には、本来著作権を有していない団体から不当に申し立てが行われていることもありますが、多くの場合、AIによる誤認です。

 

おそらく、CDやレコードなどに収録されたものを、無断で流していると機械が勘違いするためでしょう。面倒だから放っておきたくなるかもしれませんが、後々、チャンネルの運営に影響してくる可能性もあるので、「詳細」から「著作権侵害の異議申し立て」を行うか「セグメントをカット」するのがいいと思います。

 

多くの場合、「著作権侵害の異議申し立て」をしてから一ヶ月以内に、申し立てを取り下げてもらえます。何度やっても申し立てを取り下げてもらえない場合は、もう一度、著作権法上の取り扱いが間違ってないか確認しましょう。

 

華陽教会では、「著作権侵害の異議申し立て」を行って一ヶ月以内に申し立てを取り下げてもらえたものは、引き続きアーカイブに残し、取り下げてもらえないものは、放置が一番良くないので、一律セグメントをカットして編集しています。

 

絵本や紙芝居の著作権

華陽教会では、『聖書朗読と読み聞かせを中心とする教会学校カリキュラム』を作成し、教会学校こども礼拝で、絵本や紙芝居を用いています。これらを配信に載せる場合も、著作者・出版元の許諾を取っています。

 

現在、配信に載せる礼拝で使っているのは、日本聖書協会発行の『聖書絵本シリーズ』とキリスト教視聴覚センターAVACOの紙芝居です。どちらも、新型コロナ感染症の流行で、教会学校に行きたくても行けない子どもたちへの緊急措置として、絵本聖書/紙芝居の読み聞かせを教会学校に属する生徒に、送信先を把握できる範囲に限定してなら、配信することができます。

 

華陽教会では、教会学校に属する生徒と保護者の人たちが見られるよう限定公開にして、URLとパスワードで管理しています。

 

AVACOの紙芝居の場合

キリスト教視聴覚センターAVACOの紙芝居を使う際は、ホームページのお問い合わせから、下記のような項目を記載した使用許諾申請を送っています。

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配信期間は1ヶ月以内となっているので、YouTubeのライブ配信で限定公開したあと、次週までに紙芝居部分をカット編集しています。実際に記入した例が下のようになります。

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ただし、紙芝居のオンライン配信著作権申請受付は、コロナ禍に陥ってから緊急に対応されたことでもあるので、 今後、状況の変化によって対応も変わったり、内容の改定があるかもしれません。

 

また、許諾申請手続きは、出版元によって異なるので、それぞれ問い合わせた上で定められた手続きを行うようにしてください。

 

著作権フリーの聖書翻訳・賛美歌について

こういった著作権に関連する作業は、慣れればルーティーンなので、思っているほど大変ではありません。しかし、色々ややこしいから著作権フリーの賛美歌や聖書翻訳があったら、そちらを使いたいと考える人も多いでしょう。

 

華陽教会の礼拝でも、教会の集会・礼拝・礼拝配信に限った使用であれば、許諾を取ることなく無料で活用できるオンライン賛美歌(©️柳本和良/詞 柳本和良、曲 滝田真治)も利用しています。ただし、多くの場合は、出典の明記の仕方などが指定されているので、よく確認する必要があります

 

また、著作権フリーの賛美歌や聖書翻訳の中には、背景団体がよく分からないものや破壊的傾向が指摘される団体(カルト的な団体)の手によるものもあります。多くの人がそれらを使用することで、世間の信頼を獲得し、結果的に団体の被害者を増やすことに加担してしまう危険があります。

 

もし、著作権フリーのコンテンツを用いる際は、必ず作成者や背景団体についてきちんと調べ、問題ないか確認してから利用しましょう。

 

アーカイブの編集と非公開について

華陽教会では、礼拝や聖書研究祈祷会の配信は基本的に全体公開しています。そのため、ライブ配信後、アーカイブにも残す動画は、定められたルールに基づいて、聖書朗読や賛美歌の一部をカット編集しています。

 

もちろん、カット編集には多少手間がかかるので「メッセージ部分だけ配信する」「ライブ配信のみ行う」「ライブ配信後、一定期間を経たら限定公開か非公開にする」などの対応でもかまわないと思います。その方が配信のハードルも下がるでしょう。

 

しかし、それでもリアルタイムに礼拝全体を公開しているのは、「礼拝を配信する」のであれば、礼拝の中心である「神の言葉(聖書)」や感謝の応答である会衆賛美や告白を省略したくないからです。

 

また、リアルタイムで礼拝に参加できない人や、配信によってしか礼拝に触れる機会のない人もいます。「動画配信は、あくまで礼拝のサポートであって、礼拝そのものではない」と考える場合も「そのサポートによって、困難な状況でも礼拝ができるようにする工夫」は必要だと思うので、アーカイブもなるべく残すようにしています。

 

さらに、礼拝全体の雰囲気が見えることは、教会に行こうか迷っている人にとってもプラスに働きます。入ってみるまで分からない教会、出席するまで分からない礼拝より、どういう雰囲気で、どういう内容か見えるところの方が、圧倒的に親切でしょう。

 

特に、感染症が拡大している間、教会に行きたくても出席者が信徒のみに制限されていたり、配信が教会員に限定されている場合、教会に行ったことがない人は、ずっと礼拝に触れる機会がありません。みんなが集まれないときに「伝道する」ということを考える際、ここを放置したままでいることは、誠実な姿勢とは言えないと思います。

 

今後、感染症がおさまってからも、華陽教会では配信を続けていく予定ですが、ぜひ色んな教会が色んなやり方で(配信以外にも)、礼拝に参加しにくい人たちの手段や礼拝に触れる入り口を一緒に増やしていけたらいいなと思います。

関西学院大学の学生の皆さまへ

2021年9月3日

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Spencer DavisによるPixabayからの画像
 
SNS上で、関西学院大学の学生に向けて、大学接種会場で新型コロナワクチンの異物混入が見つかったことに触れ、「ワクチンは生物兵器」「世界中のキリスト教団体は接種に反対してる」と発信しているアカウントが見られますが、卒業生で牧師の私も2回接種を受けています。教会員のほとんども接種を済ませ、みんな元気です。
 
確かに、アメリカをはじめとする福音派の一部(全部ではない)では、新型コロナワクチンに反対する人たちがいますが、世界中の主要なキリスト教団体の多くは、ワクチンに反対ではありません。接種を呼びかけているところもあります。
 
カトリック教会では、ワクチン接種が呼びかけられ、ローマ教皇自身も受けています。(https://www3.nhk.or.jp/.../20210115/k10012815281000.html
 
英国国教会のカンタベリー大主教も、自身がワクチン接種を受けたことを公表しています。(https://twitter.com/JustinW.../status/1351136454668382220...
 
キリスト教精神を土台にしている日本バプテスト病院(https://www.jbh.or.jp/news/9433.html) や淀川キリスト教病院(http://www.ych.or.jp/news/covid-19_vaccine.html) でも、新型コロナワクチンの案内をしています。各国のキリスト教精神を土台とした病院も、同様にワクチン接種に協力しています。
 
私が属する日本基督教団の牧師たちも、既に何人か新型コロナワクチンの接種を受け、教会員のワクチン予約に協力している人もいます。副反応でしんどかった人もいますが、新型コロナにかかって重症化するリスクより、はるかにデメリットが低いです。
 
今回、異物混入が見つかったことで不安になっている学生も多いと思いますが、見つかっている金属片は、注射器の針に入らず、ゴム栓の破片であった場合も、筋肉注射で血管に詰まる恐れは低いです。また、アレルギーを起こさない素材のため、人体への危険性は考えにくいと言われています。(https://www.asahi.com/articles/ASP8Y6TLVP8YULBJ004.html
 
そして、SNS上で訴えられているように、もし、ワクチンが「生物兵器」なら、政府は接種の呼びかけに従う従順な国民を削減し、自分たちに従ってくれない、コントロールしにくい人たちを残すことになります。人口が減って、徴収できる税も減ります。複数の方が指摘しているように、メリットがありません。
 
どうか、不安を煽る人たちに注意し、正確な情報に触れて、自分自身や周りの人を守ってください。

カルト信者の家族ができること

2021年8月6日

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Sabine van ErpによるPixabayからの画像

 

カルト信者の家族のスタンス

破壊的カルトの信者から脱会の意志を引き出すには、目の前で起こる出来事(金銭トラブル、育児放棄、休学・退社 etc.)に囚われず、適切なスタンスで接していくことが重要です。その捉え方は、アルコール依存症の「家族ができる治療的行動」と、幾つか重なるところがあります*1

 

今回は、カルト信者の被害者家族が、本人にどのようなアプローチを取れるのか、アルコール依存症の家族の向き合い方を参考に、6つのポイントからまとめ直してみました。

 

① 正しい知識を持つ

カルト信者の家族は、破壊的カルトの正しい知識を持つことで、目の前で起こる出来事(カルト問題)に冷静に対処するきっかけが掴めます。カルトの実態について書かれた本やマインド・コントロールに関する本、脱会者の証言を読んだり、被害者家族の会やカルト問題の相談会へ積極的に参加してください。

 

独学で、自分流に、家族や友人を脱会させようとする人もいますが、ほとんど失敗しています。それは、よく知らない病気にかかった人を、医者や病院を頼らずに治そうとするのと似ています。かえって状況を悪化させるので、まずは専門家を頼ってください。

 

また、カルトについて、ニュースや知り合いの体験談、自分の経験から、「知っている」「分かっている」気になっているのは危険です。それ以上勉強するのを止めてしまい、自分の中にある材料で解決しようとするからです。

 

カルト信者の救出は、取り戻したい家族が、自分たちの無知や無理解を意識することから始まります。「一般の人よりカルト問題をよく分かっている」と思う人ほど失敗するので、謙虚に学び続け、情報を更新してください。

 

② 無力を知る

カルト信者の高額な献金や長時間の奉仕は、家族や周囲の力でやめさせることはできません。マインド・コントロール下にある人を単なる説得によって変えることは不可能です。

 

カルト信者の家族は「自分たちが怒っても、叱っても、注意しても、本人を変えることはできない」と認識することが重要です。これが、正しい対応の出発点になります。

 

まずは、本人へ「言い聞かせて」解決することはできないと認めましょう。たとえば、高額な献金をしてしまった家族へ、通帳やカードを持たせたまま「もう献金するな」と言ったところで、献金は止まりません。

 

それは、アルコール依存症の人へ、居酒屋のキッチンを管理させるのと同じくらい愚かなことです。たとえ長い間、家計を任せていたとしても、マインド・コントロールを受けている人に、その後も頼り続けるのは、無責任な行動です。

 

できないと分かっていることをできるかのように認識し、できなかったことを後から責めるのはやめましょう。カルト信者は「自分が望むように」ではなく「組織の望むように」行動します。そのように人格が変えられていることを理解してください。

 

③ 問題行動と闘わない

本人が隠れて集会へ行っても、黙って献金していたことを知っても、それと闘わないようにしましょう。なぜなら、カルト信者はどんな方法を使っても(嘘をついても、借金しても、体を売っても)献金をささげることができるからです。それが、マインド・コントロール下にある人の症状なのです。

 

集会へ行くのを禁じたり、献金を禁じたりしても、直接の解決にはなりません。むしろ、本人がカルト生活の限界に気づくこと(=直面化)を遅らせ、「正しい行動をしているからこそ、責められるのだ」と、本人が受けているマインド・コントロールを強化してしまいます。

 

話し合うときは、冷静に、自尊心を傷つけないように、その行動が問題を抱えていること、不自然な状態であることを伝えていきましょう。その際は、以下のように気をつけてください。

 

「どんなに周りが困っているか」よりも「どんなに心配しているか」を伝えてください。
「どんなに現状が酷いか」よりも「どんなに以前の方が良かったか」を伝えてください。
「どんなに怒っているか」よりも「どんなに傷ついて悲しんでいるか」を伝えてください。

 

④ 後始末をしない

カルト信者の問題は、悪質なマインド・コントロールにより、人間関係が破壊され、金銭トラブルやハラスメントで、自らの生活に限界が来るものです。

 

しかし、周囲の人が後始末(本人の代わりに献金を出す、借金を返す、周りに隠す)をすることで、カルト問題の直面化が遅れていきます。危険な状態でない限り、破壊的カルトが原因で起こした行動は、本人に責任を取らせましょう。

 

たとえば、献金のために借金をしたのであれば、単純に家族が肩代わりすることは避け、弁護士と相談して、一緒に返済計画を立てさせる……などの方法を考えましょう。(「勝手にしなさい」ではなく「みんなで見守る」態度を続けます)

 

お金を無心してきたら、何に使われる献金か、何のために集められるのか、本人から説明させましょう。その説明で、理解できないことや疑問に感じたことがあれば、責めずに聞き返しましょう。(断るためにではなく、本人を理解するために聞いていることを意識してください)

 

集会へ行くために、職場や家族への言い訳をお願いされたら、自分で説明させましょう。集会へ行ったことで問題が起きた場合も、迷惑をかけた人たちへ自分で説明させましょう。組織のために嘘をついて困るのは、対処しなければならないのは、自分自身であると理解してもらうことが大切です。

 

⑤ 献金を責めない、言葉の脅しを使わない

カルト信者の家族が本人に求めるのは、「これ以上献金したら生活できない」「組織を優先し続けたら色んな関係が壊れていく」という認識です。しかし、周囲の叱責がカルト問題の直面化を送らせてしまう場合もあります。

 

「あなたが私の邪魔をするから、不幸の元が溜まっていく」「あなたが教えを理解しないから、家族を幸せにできない」と、自分の行動の問題が他者の問題にすり替わり、自尊心を守ろうと否認が深まってしまいます。

 

また、「今度勝手に献金したら離婚する」「家族と縁を切らせる」等の言葉の脅しも、軽はずみに使わないようにしてください。言葉の重みが失われます。実行することのみ口に出し、実行しないことを口に出すのは止めましょう。叱責や脅しでは、カルト信者の行動は止まりません。

 

むしろ、献金したことを責めないで、「その献金は誰を幸せにするの?」と聞いてみましょう。その献金を誰が受けとり、どのように消費され、どうやって人々を幸せにするのか考えさせましょう。

 

本人に答えられなければ、組織はどう説明しているのか聞きましょう。それに納得しているのか、考えさせましょう。このときも、責めるため、やめさせるためではなく、本人を理解するために質問することを意識してください。むやみに責める態度は、マインド・コントロールを強めます。

 

⑥ 仲間に支えてもらう

カルト問題は周りをどんどん巻き込んでいきます。カルト信者と接すると、家族も心のバランスが崩れていきます。弁護士、臨床心理士、僧侶、牧師のサポートだけでなく、同じ問題に直面した「被害者家族の会」などの支えを定期的に得ましょう。ご家族の出席が、カルト信者本人の気づきを早めます。

 

もし、自分たちがいくら勉強したところで、いくら相談したところで、本人を変えることにならないと思っているなら誤りです。救出支援のポイントは、「本人を変えようとする」ことにあるのではなく「家族が変わろうとする」ことにあるからです。

 

支援者につながって、相談会へ来るようになって、1年ほどで救出に成功する家族もいれば、何度も挫折しながら10年も20年も経って、諦めかけた頃に救出できた家族もいます。向き合い方を変えること、接し方を模索し続けることは、決して無駄ではないのです。

 

家族の変化によって、カルト信者にも少しずつ変化が訪れます。破壊的カルトの救出支援は、カルト信者の回復を目指すのではなく、家族全体の回復を目指すものです。どうか、そのことを忘れずに向き合い続けてください。

 

参考資料・相談窓口

破壊的カルト、マインド・コントロールの参考図書

 

 日本脱カルト協会(JSCPR)『カルトからの脱会と回復のための手引き《改訂版》』遠見書房、2009年

 

 スティーブン・ハッサン 著、浅見定雄 訳『マインド・コントロールの恐怖』恒友出版、1993年

 

 スティーブン・ハッサン 著、中村周而・山本ゆかり 訳『マインド・コントロールからの救出』教文館、2007年

 

 西田公昭『マインド・コントロールとは何か』紀伊国屋書店、1995年

 

カルト問題の相談窓口

 

e-kazoku.sakura.ne.jp

www.stopreikan.com

controversialgroupscommittee.info

参考にできるアルコール依存症の治療サイト

 

www.seimei.org

alcoholic-navi.jp

www.hiro-clinic.or.jp

 

*1:たとえば、糸満晴明病院のホームページに挙げられている、アルコール依存症の「家族ができる6つの捉え方(家族ができる治療的行動について | 糸満晴明病院)」は、カルト信者の脱会を願う家族の対応とも重なっています。

ワクチン接種に恐怖を感じている人へ

2021年6月30日

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Liz MasonerによるPixabayからの画像

ワクチン接種・マスク着用・アルコール消毒に関して「同調圧力を感じる」「危険性を無視してないか」という不安の声が、私の知り合いからも聞こえてくるようになりました。

 

心配になる気持ちは痛いほど分かるのですが、一歩立ち止まって、自分を不安にさせている根拠が正しいかを見つめないと、医療拒否や他者を巻き込む危険な態度につながってしまいます。

 

なぜ、こんなことを書いているかというと、私自身が、不安や恐怖から生まれた疑問を、よく検証しないまま共有してしまったことで、周りにも極端な恐怖を抱かせたり、安全が確認されているものを危険だと思わせてしまったことがあるからです。

 

それは、東日本大震災で福島第一原発事故が起きて以降、約6年にわたって、私自身が放射能汚染に関する様々な不安や恐怖を呟いていたときの経験です。最近、何人かの方が指摘しているように、ワクチンに対する恐怖を訴える人々の様子は、放射能汚染の恐怖を訴えていた頃の私とよく似ている気がします。

 

過去に、私がSNSで投稿した内容の中には「原発事故以降、癌や奇形児が増えている」「福島から出荷されている食品は危険」といった記事のシェアや「自分が住んでいる関東も放射線量が高くて不安」といった呟きが含まれました。

 

それらの多くは正確でない、確認不十分な内容か、検証不十分な言説を元にした呟きで、デマや不正確な情報の拡散に、私も加担してしまいました。

 

被曝の不安にさらされていた福島とその周辺の方々、私が間違った情報を拡散してしまった方々、私が耳を傾けなかった放射線に関する正しい指摘をしておられた方々に、この場では不十分ですが、深くお詫び致します。

 

当時も、放射能に関するデマや不正確な情報を指摘する専門家の方々がいましたが、あるキーワードが聞こえてくる度に、私はその人たちの声を「御用学者」や「フェイク」と一括りにして切り捨てていました。

 

そのキーワードは「恐怖を煽るな」「風評被害」という言葉です。以前、別の記事にも書きましたが、私はこの2つが出てくるだけで「相手は自分を黙らせようとしている」「正しい情報を拒んで思考停止している」という思考回路になっていました。

 

専門家に限らず「それって違うんじゃない?」「正しくないんじゃない?」と指摘する全員が、被爆の危険を軽視していると思っていました。(ちょうど、ワクチンの効果と安全性を説明する専門家に対して、副反応やアナフィラキシーを軽視していると感じてしまう人のように……)

 

もちろん、専門家の人たちは被爆の危険を軽視していたわけではありません(ワクチンの安全性を説明する医師も、リスクがないと言っているわけではありません)。後からよく見返せば、ちゃんとした根拠をもって、放射線量がどれくらいあったら危険か、それらの基準がどう設けられているかを丁寧に説明していました。

 

しかし、どれだけ数値をもとにした説明があっても「10年後には異常が出てくる」「何かの危険が無視されている」という結論ありきで、反論できる証拠・情報を探し続けていました。恐ろしい可能性が目の前にあるなら、たとえ数値で安全が確認されたと言われても、信頼すべきでないと思っていました。

 

専門家や政府が語る「直ちに危険はない」「因果関係はない」という言葉に疑いを持つことは「正しさの押し付け」でも「盲信」でもないと思っていたのです。しかし、自分の持つその疑いが正しいか、検証する姿勢は不十分でした。

 

「本当に危険だったら手遅れになる」という意識が、自分の疑いに対する検証を後回しにし、恐怖を煽って警戒を促すことへ積極的になっていました。その結果、「自分も汚染された地域に住んでいる」と思わせたり、「食べちゃいけないものを食べてしまった」と思わせて、苦しませた相手がいたかもしれません。

 

しかし、「本当に○○が原因で病気になったら」「本当に○○しなくて滅んだら」取り返しがつかないから、まずは警戒し、注意喚起し、対策を促すことは間違ってない……そんなふうに思いこんでいました。

 

けれども、自分の持つ疑いを検証せずに、自分の行動が間違っていた場合どんな悪影響をもたらすか、十分考慮しない態度は、陰謀論や破壊的カルトに巻き込まれた人たちが加害者に転じてしまう状況と変わりませんでした。

 

極端に聞こえるかもしれませんが、「我々に従わないと世界が滅ぶ」と言われて、本当に世界が滅ぶかもしれないと怖くなっても、その「かもしれない」が正しくなかった場合の影響を考えないと、愚かな結果に陥ることは、大体の人が理解できると思います。

 

「あそこの地域は汚染されているかもしれない」も「ワクチンを打つのは危険かもしれない」も、その疑いが正しくなければ、膨大な時間と労力を奪ったり、防げるはずのリスクを防げなくなってしまうのです。

 

疑似科学も、ニセ医学も、陰謀論も、破壊的カルトも、「10のうち9の情報を疑わせて、自分が出す1の情報を信じさせる」という構造を有しています。知らず知らずのうちに、私もその構造にはまり、自分の疑いを支持しない情報をシャットダウンしていました。

 

やみくもに放射能の危険や恐怖を訴える自分の行為が健全でないと自覚したのは、皮肉にも、私の問題視している破壊的カルトが、同様に放射能の恐怖を煽って、信者獲得に動いていたからです。そこでは、誇張したデータや誤った情報が平気で使われ、危険を避けるため、自分たちの指示に従うよう誘導が行われていました。

 
また、放射能の不安を共有していたグループの中で、反ワクチンの言説が入り込み、問題を感じたことも、自分を振り返るきっかけになりました。そこで共有された記事の情報は、何年も前に誤っていることが分かって医学的に撤回された内容でした。しかし、恐怖から、不安から、大人にワクチンを打たせてもらえない子どもたちは、ワクチンで防げる病気の危険を軽視され、リスクにさらされることになります。

 

自分自身が陥っている状況と2つを比べて「似ているかもしれない」と思った私は、そこから少しずつ、自分が「危険だ」と訴えていた地域に住むこと、農産物の安全性について、調べ直すようになりました。すると「直ちに危険はない」「因果関係はない」という言葉は、本当に様々な検証がなされた上で、それでも慎重に発表された言葉なんだと分かってきました。

 

同じ反原発の人の中でも、不正確な情報については警鐘を鳴らし、過度に恐怖を煽ったり、デマを拡散したりすることを止めるよう注意している人もいました。それらの誠実な声も、いつの間にか聞こえなくなっていたことに、ようやくそのとき気がつきました。

 

一方で、「放射能はこれで防げる」「ワクチンの代わりにこれが効く」と安易な解決策を述べるものには、ニセ医学や疑似科学が元になった代替医療や民間療法が多く含まれることも見えてきました。調べ始めると、破壊的カルトの商法に使われているグッズにも、同じようなものが多々見られます。

 

全てが金儲けを目的にしているとは限りませんが、その方法が有効だと信じた人たちに悪影響が出た場合、責任を取ってくれる、取ることができる人は存在しません。

 

「放射能は危険だからできる限り遠くへ引っ越せ」「ワクチンは危険だからなるべく打つな」そういった「恐怖を煽ってシンプルな解決策を示してくれるもの」の多くは、信じた人たちの行動になかなか責任を持ちません。きちんとしたデータと根拠で間違いを指摘されても、調べ直したり、訂正したりすることがありません。私もその態度に加わってしまった1人です。

 

破壊的カルトやマインドコントロールの知識がある程度あっても、自分が似たような状況に陥っていると気づくまで、自分自身を顧みるまで、6年もかかってしまいました。恐怖・疑い・不信感から生まれてくる言説を信じた場合、自ら検証することがいかに苦しく、不本意で、難しいかを実感しています。

 

どうか、何かの安全を疑う際も、何かの効果を疑う際も、あるいはその逆を疑う場合も「自分が持っている疑いは本当に正しいか」それ自体も問い続ける姿勢を忘れないでください。そして、できる限り、「どういう証拠や材料が出てきたら、この主張は間違っていると認めるか」自分の中にフェアな基準を持つよう心掛けてください。

 

いつでも自分の間違いを認める準備があることは、ニセ科学や陰謀論や破壊的カルトに巻き込まれ、加担してしまうリスクから、必ずあなたを守ってくれます。恐怖も不安も疑いも、生きる上で大切な要素ですが、それらは無条件で正しい行動を与えてくれるものではありません。大切なのは、信じる根拠も疑う根拠もきちんと検証することです。

 

先日、6月26日に、私もモデルナ製の新型コロナワクチン1回目を接種しました。打ってから3〜4時間後に筋肉痛っぽい症状が肩に出てきましたが、刺されたときの痛みはほとんどなく、それ以降、特に大きな副反応もなく過ごしています。

 

次の接種は4週間後です。もしかしたら、今度は熱や倦怠感が出てしまうかもしれませんが、極端に恐れることよりも、世界中で検証され、積み重ねられてきた「ワクチンを打つベネフィットはリスクに勝る」という結果を信頼して、2回目も受けてきたいと思います。