ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『思い通りにならない』 創世記48:1〜9

聖書研究祈祷会 2020年11月18日


『思い通りにならない』聖書研究祈祷会 2020年11月18日

 

案 内

現在、華陽教会の聖書研究祈祷会は、配信に載せる第一部と、配信後、時間のある人と質問や感想を分かち合う第二部に分けて行っています。牧師に相談やお話がある方は、ぜひ、配信後も2階集会室へおいでください。

 

讃美歌

それでは、第一部「聖書研究会」を始めます。最初に、オンライン賛美歌「枯れた谷に鹿が」(©️柳本和良)を歌いましょう。飛沫感染を避けるため、マスクをしたままで歌います。

 

お祈り

ひと言お祈りをします。共に心を合わせましょう。

 

◆人と人との間におられる私たちの神様。今日もまた、あなたによって守られて、水曜日の聖書研究祈祷会を始めることができ、感謝致します。どうか今、自宅で、施設で、職場で、屋外で、あなたの言葉を必要としている人を祝福してください。

◆私たちの神様、先日の水曜日は、回線が不安定なため、教会に集まれない人たちが、配信を見られない状態となりました。どうか今、離れている人もここにいる人も一緒に祈りを合わせられるように、適切な環境をもたらしてください。

◆私たちの神様、新型コロナウイルスの感染者が、あちこちで再び増えています。教会や幼稚園も、いつ感染者が出るか分かりません。どうか今、極端な恐れからも、極端な楽観からも離れて、予防と治療と対策が適切に行えるように導いてください。

◆私たちの神様、今日は幼稚園で収穫感謝礼拝がありました。例年と違い、保護者は集まれませんでしたが、今年度も秋の実りを味わうことができました。どうか今、子どもたちの心に実った様々な経験が、それぞれの家庭でも分かち合われますように。

◆私たちと共におられるイエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

聖書朗読

聖書の言葉を聞きましょう。創世記48:1〜9(新共同訳より抜粋)

*当ブログ全体における聖書の引用を適切な範囲内で行うため、後ほど聖書箇所のみ記載し、本文をカットすることがあります。後からご覧になる方は、該当する聖書箇所を日本聖書協会の「聖書本文検索」か、手元に新共同訳聖書がある方はそちらからお読みください。

www.bible.or.jp

 

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Sookyung AnによるPixabayからの画像

メッセージ

名前が残らないヨセフ

創世記の最後に出てくるヨセフの人生は、信仰者にとって重要なエピソードが詰まっています。兄たちに捨てられ、エジプトに売られた弟が、大臣となって飢饉を乗り越え、故郷の家族を救う者として立たされる。アブラハム、イサク、ヤコブに続くイスラエルの祖先として忘れてはならない人物です。

 

ところが、聖書の中で、彼の名前を挙げる箇所は、思ったほど多くありません。「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」という表現は、旧約に何度も出てきますが、「ヨセフの神」という言い方は、ほとんど聞いたことがないですよね。神を言い表す表現に、ヨセフの名前は入らない。

 

また、イスラエルを構成する12部族にも、ヨセフの名前は入りません。紛れもなく、ヤコブの息子であるにもかかわらず、彼は12部族の名で呼ばれない。そのかわり、息子のエフライムとマナセが12部族に入ります。どうやらヤコブは死ぬ前に、ヨセフの息子、自分にとっては孫である2人を「養子にする」と言ったようです。

 

「今、わたしがエジプトのお前のところに来る前に、エジプトの国で生まれたお前の二人の息子をわたしの子供にしたい。エフライムとマナセは、ルベンやシメオンと同じように、わたしの子となるが、その後に生まれる者はお前のものとしてよい」……死の間際、生きている息子から、孫を取り上げて養子にするって、なかなか不思議な行動です。

 

ヨセフにとって、その行為が歓迎できるものだったのか、ちょっと想像がつきません。また、エフライムとマナセがヤコブの養子になってから、ヨセフに他の息子が生まれたかといえば、そうではない。息子2人が父のものとなった後、ヨセフに自分のものとなる子どもは生まれない。結果、ヨセフ族という名前は、ほとんど呼ばれずに消えていきます。

 

交差する夢と現実

一見、ヨセフ物語は、兄たちに貶められた末っ子が、地位や力を持つまでに成長した、逆転の物語に見えますが、最後の最後で、彼は兄たちと違って、名前を残せなくなっていく。単純な「逆転劇」ではなくて、より複雑に、様々な要素が「交差する物語」となっている。その象徴的なシーンが、ヤコブの最初の祝福です。

 

彼は、11人の兄たちを飛び越え、12人目の息子ヨセフを呼び出して、さらに一緒についてきた孫の2人を祝福します。かつて、ヤコブの父親は双子のうち一方にだけしか祝福を残しませんでしたが、彼はちゃんと、ヨセフの息子2人ともに、両手で祝福を与えます。ただし、右手と左手を交差して。

 

詩編73:23には、神は自分が保護する者の右手を保つと書かれています。多くの文化圏で、右と左に置かれたものなら、右手の方が優位とされる。けれども、その右手で祝福されたのは、長男のマナセではなく、次男のエフライムでした。ヨセフは不満を口にします。

 

「父上、そうではありません。これが長男ですから、右手をこれの頭の上に置いてください」……奴隷として売られたエジプトで、最初に生まれた自分の息子、父の家を忘れさせてくれた長男マナセ、こっちの方が、右手で祝福を受けるのが順当ですと、彼は主張するわけです。

 

これってなかなか面白い。11人の兄たちを飛び越えて、先に自分の家族が祝福されているのに、ヨセフはここに来て、「順当な」祝福を父親に訴え出るわけです。かつて、「家族が自分にひれ伏す夢を見た」と話すヨセフに文句を言った兄たちのように……反対に、兄たちの方は、ヨセフが先に祝福されたことを、今度は素直に受け入れます。

 

態度が交差していますよね。ここだけではありません。12節で、ヨセフは父親の祝福を受けるために、地にひれ伏してひざまずいています。これも、かつて見た夢とは反対です。太陽と月と十一の星が自分にひれ伏す夢を見た、父も母も11人の兄たちも、自分にひれ伏す未来を見た……そう言っていたのに、実際には父親の前にひれ伏したのは自分だった。

 

新しい関係

まるで、「兄が弟に仕えるようになる」と言われていたにもかかわらず、ヤコブが兄のエサウと再会し、自分から兄に仕える僕のように行動してしまったときのよう。どうやらヨセフ物語で見られる「交差」は、アブラハム物語から続く様々な「交差」の頂点にあるようです。

 

実際、右手と左手を交差して、頭に手を置かれたマナセとエフライムの立ち位置も、エサウとヤコブの兄弟とは、反対のイメージを生み出します。先ほど、右手で祝福される方が優位に感じられると言いましたが、一方で、右手は攻撃用、左手は防御用の武器を持つ手とされていました。

 

攻撃用の武器といえば、真っ先に「剣」が思い浮かびますが、以前「お前は剣に頼って生きていく」と言われたのは、ヤコブの兄エサウの方でした。また、ヤコブの父親イサクの兄イシュマエルは「あらゆる人にこぶしをふりかざす」と預言されていた人物です。かつては兄の方が「争い」のイメージを持っていたのに、今度は弟の方が右手を置かれ、「争い」のイメージを付されている。物語の交差点はあちこちに見出されてきます。

 

そう、アブラハムから続くイサク、ヤコブ、ヨセフの家系では、この「交差」こそが、世代の中で葛藤を生み出し、変化をもたらす種となりました。それぞれが「順当な」報酬を欲して、それぞれが自分好みの贔屓を求めて、様々なドラマを見せましたが、神様は繰り返し、私たちの持つ立ち位置を、交差させ、覆し、新しい関係へ変えていきます。

 

神様自ら、「争う」と言った者でさえ、「滅ぼす」と言った者でさえ、和解や平和がもたらされる。固定化した関係でなく、常に新しい関係へと導かれる。この方は、本当に思い通りにならない方なんです。私たちをゆさぶってくる方なんです。それでいて、こっちが期待さえしなかった祝福をもたらしてしまう方なんです。

 

地震や台風やコロナ禍で、今揺さぶられている私たちも、イサクとイシュマエルの神、ヤコブとエサウの神、ヨセフとその子どもたちの神に、新しく立つよう導かれています。共に、思い通りにならない神様によって、豊かな祝福がもたらされる、新しい関係へ生かされましょう。

 

とりなし

共に、神様から与えられたとりなしの務めを果たしましょう。本日は『信徒の友』の「日毎の糧」で紹介されている(岡山県岡山市の岡山教会)のために、フィリピンの台風被災者のために、感染症にかかった人のために、岐阜地区の諸教会のために、祈りを合わせましょう。

 

◆神様、あなたは祈りに応えて恵みを与えてくださいます。どうか今、私たちがささげる祈りをお聞きください。

◆岡山県岡山市の岡山教会のために祈ります。コロナ禍の中、人数の多い教会として、様々な課題を抱えていると思いますが、「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」という言葉に立って、教会の一人一人が誠実な宣教を展開していくことができますように。

◆フィリピンの台風被災者のために祈ります。1日にルソン島を襲った台風ローリーによって、甚大な被害を受けた人たちに、あなたの慰めと回復がありますように。日本で故郷を心配している人たちにも、あなたの励ましがありますように。

◆感染症にかかった人のために祈ります。新型コロナの第3波の到来によって、クラスターとなった地域や、感染してしまった人たちに、あなたの癒しと支えがありますように。特に、高齢者や基礎疾患のある人が重症化から守られますように。

◆岐阜地区の諸教会のために祈ります。各教会でしばらく顔を合わせていない人たちに、あなたの祝福がありますように。どこの教会でも、どこの家庭でも、あなたによって与えられているつながりが、ますます大きく用いられますように。

◆今も生きておられ、私たちをとりなしてくださる方、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

讃美歌

讃美歌21の453番「何一つ持たないで」を歌いましょう。こちらも、飛沫感染を避けるため、マスクをしたままで歌います。

 

主の祈り

共に、イエス様が弟子たちに教えられた最も基本的な祈りを祈りましょう。主の祈り。

 

天にまします我らの父よ。

願わくは御名をあがめさせたまえ。御国を来たらせたまえ。

みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。

我らの日用の糧を今日も与えたまえ。

我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、 我らの罪をも赦したまえ。

我らを試みにあわせず、悪より救いだしたまえ。

国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

 

以上で第一部「聖書研究会」を終わります。配信後、時間のある方は飛沫防止用のパーテーションをつけた2階集会室で、質問や感想などを分かち合う第二部「分かち合い」のときを持とうと思います。また日曜日まで、皆さん一人一人に神様の平和がありますように。