ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

陰謀論は「盲信」でなく「疑い」から始まる

2021年6月1日

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TumisuによるPixabayからの画像

今年に入ってから、ずっと雑談の記事を更新できていませんでしたが、久しぶりにTwitterのモーメントを新しく作ったので、ブログの方でもう少し丁寧に書いておこう……と思い、こっちでも新しく記事にしました。

 

今回の記事は「疑う」ことをしていれば破壊的な運動や団体を避けられるという誤解についてです(疑問を持つなという趣旨ではありません)。

 

最近、「医療そのものの拒否」「感染症対策そのものの拒否」「メディアそのものの拒否」をもたらす極端な言動(「医者は嘘つき」「感染症対策は無意味」「メディアは信じるな」……など)が増えてきました。それらは一見、注意喚起のように見えても、恐怖を煽ることで適切なケアや情報から遠ざける陰謀論やデマの入り口となっています。

 

もちろん、医者や専門家やメディアの言うことがいつも正しいとは限りませんが、「どんな医療行為が」「どんな感染症対策が」「どんな情報発信が」どんな場合にダメなのか、定義と根拠が曖昧なままなされる主張は、たとえ善意から発信・共有されていても、陰謀論や破壊的カルトの教えと変わらない構造に陥ります。

 

電磁波や添加物の危険性を訴える場合も、空間除菌やEM菌の有効性を訴える場合も、ワクチンやマスク着用の有害性を訴える場合も、信頼に乏しい情報や曖昧な理由から発信されるのであれば、誠実な姿勢にはなりません。

 

「あるものが危険だ」と言うときも、「あるものは無意味だ」と言うときも、「あるものが効く」と言うときも、それを信じた人に及ぼす影響を甘く見てはいけません。危険を避けるために注がれる時間や労力、有効性を信じて払われる金銭、有害性を恐れて拒まれる薬……これらは人から健全な生活を奪います。

 

もちろん、勘違いや思い込み、情報が更新できてないことによる間違いは、誰にだって起こります。正しい情報のつもりで、後から誤りに気づく場合もあります。

 

大切なのは、自分の共有した内容の根拠が古かったり、曖昧だったり、信頼に乏しかったことに、後から気づいた/指摘されたとき、その内容を修正/撤回できるかです。そこが、破壊的カルトの一員と健全な社会人を分ける境界線になります。

 

これまで多くの人が言及してきたように、破壊的カルトの一員にならないために「疑う」ことは非常に大事ですが、同時にカルトも自分たち以外を「疑う」よう仕向ける構造を持っています。

 

常識を疑え、テレビを疑え、ネットを疑え……医者を、政治家を、メディアを信じるな……そこから入ってくる情報はどれも怪しい……彼らは利権のため、自分のためにみんな嘘をついている……そんなふうに、対立構造を作って自分たち以外の主張をシャットアウトさせる「情報コントロール」が自然に行われています。

 

「疑う」ことを促す内容であれば「盲信」させるカルトじゃない!……とはなりません。「あるものへの盲信」は「それ以外への疑い」とセットなんです。疑いも正しく持たないと、かえって泥沼に陥ります。

 

陰謀論、もしくはその傾向を有する主張の厄介さは、「盲信」というイメージに対して、まず「疑う」ことを促してくることです。しかも、自分たちが疑っているものを疑わなければ、世間の言うことを「盲信」している愚かな人だと思わせます。

 

何でも素直に信じることが、迷信や盲信を生み出すように、曖昧で根拠の乏しい疑いも、差別や魔女狩りなど負の遺産を生み出してきたことは、ここに挙げるまでもありません。しかし、意外と忘れがちです。

 

何かの安全性や危険性や有効性を「信じさせる」場合と同じく、「疑わせる」場合も、適切な根拠と理由による疑いなのか、恐怖を煽る「疑い」なのか、よく注意しないと、「盲信」してないつもりで、いつの間にか陰謀論や破壊的カルトの教えに引き込まれてしまいます。

 

内容が左派でも右派でも保守でもリベラルでも「疑わないとダメ」「信じないとダメ」と根拠なく、または曖昧な理由で、恐怖や不安を煽る主張は、善意の有無に関わらず危険です。私も発信するとき、受信するとき、繰り返しそのことを思い出したいと思います。