ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『聖霊を見分けられますか?』 ヨハネの手紙一4:1〜6

聖書研究祈祷会 2021年6月23日


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案 内

華陽教会では、岐阜県の医療提供体制を踏まえて、6月末まで会堂に集まる集会を休止し配信等による在宅聖研を行っています。共に今、互いのために祈りを合わせ、聖書の言葉を味わいましょう。

 

讃美歌

讃美歌21の339番「来たれ聖霊よ」を歌いましょう。讃美歌21をお持ちでない方は、そのままお聞きいただき、心で賛美をささげましょう。

 

お祈り

ひと言お祈りをします。共に心を合わせましょう。

 

◆神様、あなたは全ての人を見えない教会へ招かれます。距離も時間も立場も超えた、見えないつながりをもたらします。どうか今、自宅で、施設で、職場で、屋外で、あなたの言葉を必要としている人に、語りかけてください。

◆神様、あなたは全ての人を見えない御手で包まれます。自分しか分からない痛み、周りに気づかれない悲しみを癒します。どうか今、心と体と魂が傷つき、弱っている人たちにあなたの息を吹き込んでください。

◆神様、あなたは全ての人を見えない助け手で守ります。必要な気づき、必要な力、必要な休息をもたらします。どうか今、私自身も誰かのために、あなたから派遣される助け手となるように、あなたの両手で押し出してください。

◆神様、あなたは全ての人を見えない軛でつなげます。一人で背負えない重荷を下ろし、新しい荷物を、ご自分と一緒に背負わせます。どうか今、私自身が囚われている多くのものから解放し、本当に背負うべきあなたの使命を負わせてください。

◆私たちを送り出される、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

聖書朗読

聖書の言葉を聞きましょう。ヨハネの手紙一4:1〜6(新共同訳より抜粋)

*当ブログ全体における聖書の引用を適切な範囲内で行うため、後ほど聖書箇所のみ記載し、本文をカットすることがあります。後からご覧になる方は、該当する聖書箇所を日本聖書協会の「聖書本文検索」か、手元に新共同訳聖書がある方はそちらからお読みください。

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Rudy and Peter SkitteriansによるPixabayからの画像

メッセージ

ある時、思い切って決断したことが、聖霊の働きによるものか、自分の意志から出たものか、自信を持って「見分けられる」と言う人は、そんなにいないと思います。礼拝で、牧師の口から聞いた言葉も、聖霊によって語らされたか、そうでないのか? むしろ、悪魔に惑わされた言葉じゃないかと悩まされる日もあるでしょう。

 

「あの人はキリストの霊を受けている」「あの人はサタンに操られている」……そんなふうに、見えないものが、誰に、どう働いているかを判断するって難しい……はっきり言って、見分けることは不可能でしょう。神に従うふりをした「偽りの霊」がついているのか、周りに理解されないことを成し得る「真理の霊」がついているのか、はたまた何にもついてないのか、一眼で分かる方法なんてありません。

 

ときどき、教会の中でも「あなたは聖霊を受けていない」と言ってきたり、「あなたは悪魔に惑わされている」と言ってきたりする人がいます。牧師の中にも「聖霊を受ければ、私の言うことを理解できる(理解できないのは聖霊を受けてないからだ)」と説明したり、「私に反対する者は悪霊に惑わされている」と責めてきたりする人がいます。

 

そんなこと言ったら、もはやカルトじゃないですか? 偽預言者のような異端と同じじゃないですか? 現代では多くの人がそう思うでしょうが、そもそも、偽預言者の見分け方自体も、ヨハネの手紙では「霊の違い」で確かめなさいと言われていました。「愛する者たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。偽預言者が大勢世に出ているからです。」

 

いやいや、その「霊」が見分けられないんだ……これじゃあ結局、権威を集めている牧師やリーダーが「あいつについているのは偽りの霊、私についているのは真理の霊」と言ってきたら、もうそれを受けとめるしかありません。ひょっとすると、偽預言者には、かえって都合が良いかもしれない。

 

何なら、ほんの20年前の本にも、異端は「霊の違い」から見分けられる……と書いてありました*1。裏を返せば、「異端やカルトに取り込まれるのは、霊を見分ける力を持っていない」ということになるので、自分は正統的な信仰を持っていると言いたい人は、フンフンと頷くことしかできません。

 

本当に、あの人の言っていることは聖霊から出たものなんだろうか? 本当に、あの時下した決断は、聖霊に導かれたものだったのか? 今、私を突き動かしているのは、真理の霊か? 人を惑わす霊か? 私があの人の言葉を聞けないのは、私が神に属してないからか、それともあの人が属してないからか? 厄介な問いが生まれてきます。

 

6月の聖書研究を聞いてきた人は、もう予想がつくと思いますが、正直に告白すると、私は聖霊を見分けられません。自分の言動が、聖霊に導かれたものか、そうでないのか? あの人は聖霊を受けているか、受けていないか? 悪霊に惑わされているか、そうでないか? 「見て分かる」「感じとれる」と言うことはできません。

 

「どうしたら、聖霊を見分けられますか?」「この感情は、この行動は、この態度は、聖霊が突き動かすものか、悪霊が惑わしているものか、どっちですか?」「あの人の業は聖霊によるものですか? 疑った方がいいですか? 私はどう考えたらいいですか?」……色んな疑問を目にします。

 

ヨハネの手紙には、どうしたら神の霊が見分けられるか、こんなふうに書いてありました。「イエス・キリストが肉となって来られたということを公に言い表す霊は、すべて神から出たものです」「イエスのことを公に言い表さない霊はすべて、神から出ていません。これは、反キリストの霊です」

 

意外と客観的な基準です。めちゃくちゃ分かりやすい。イエスのことを公に言い表さない、直訳すると、「イエスを告白しない」なら、それは神の霊じゃない。「イエスを無にする」「蔑ろにする」なら、それは聖霊から出たものじゃない。言い換えると、イエス様を無視した言葉や行動が出てくるのは、聖霊による働きじゃないということです。

 

たとえば、イエス様だったらどう語るかを気にしないメッセージ……神から直接お告げを受けたと言って、聖書に書いてあるキリストの言葉を無視する行為……イエス様が大切にした、貧しい人や病気の人、差別や抑圧を受けていた人を蔑ろにする態度……それらを促すものは、神の霊、真理の霊、聖なる霊の働きではない、という指摘です。

 

聖書には、聖霊の働きとして、イエス様が言ったこと、イエス様が行った業を、思い出させ、振り返らせ、理解させる働きがあると書かれています。つまり、聖書に示されたイエス様を振り返らないで、頭に出てくる「啓示」や「預言」を、無批判に「神の言葉」としてしまう……本当に神様がそう言ったかを気にしない、検証しないでやってしまう……という態度は、神から出たものじゃないんです。

 

旧約に出てくる「神の霊」を受けた士師や王や預言者も、度々、神様の言うことを確かめました。本当ですか? 本当ならこのようにしてください。私一人の思い込みじゃないか分かるように、確かめさせてください……直接神から語りかけられ、神の言葉を預かった人たちも、自分から出てきた思いや、言葉や、行動が、本当に神から来たものか、注意深く確かめ、悩み、葛藤しました。

 

人によっては、二度も三度も神に問いかけ、客観的なしるしを求めました。私はその行動を「すぐ従わない」「不信仰な」態度だとは思えません。実は、極めて誠実な姿勢であり正しい恐れであったと思います。だからこそ、自分の中から出てきた「神の言葉」「神の啓示」を、聖書と同じか、それ以上の権威として、ためらいなく発する者は「反キリスト」の「人を惑わす霊」にそそのかされた「偽預言者」と変わらない者だと思うんです。

 

「真理の霊」と「人を惑わす霊」とを見分けることは、ヨハネの手紙で書かれているほど簡単じゃないかもしれません。神から出たものか、そうじゃないものかを判断することは、一筋縄ではいかないものかもしれません。でも、「本当に神の導きか?」「本当に神の望むことか?」「本当に神の啓示かどうか?」疑い、恐れ、確かめようと、聖書を手に取るあなたの姿勢は、イエスを振り返らせ、イエス様を言い表す聖霊の働きだと思います。

 

どうぞ、神の導きかそうでないかを、見分けられない自分のことも、蔑ろにせず、大事にしてください。分からないことを、すぐ不信仰と結び付けないでください。疑い、恐れ、聖書を読んで確かめることを恥じないでください。真理を追い求める姿勢こそ、聖霊があなたの内にいる証拠です。

 

私たち牧師や信徒から、神から出たものか疑わしい行為やメッセージが現れたとき、イエス様を思い起こさせ、イエス様の言葉に自身を向けて、確かめさせようとする聖霊の声を、どうぞしっかり受けとめてください。私たちが互いに、偽りの霊から解放され、真理の霊を受けることができるように、あなたの力を貸してください。

 

「どうか、平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように……あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき、非のうちどころのないものとしてくださいますように(テサロニケの信徒への手紙一5:23)」アーメン。

 

とりなし

共に、神様から与えられたとりなしの務めを果たしましょう。本日は『信徒の友』の「日毎の糧」で紹介されている(大阪府東大阪市の枚岡教会)のために、教会に来られない人のために、教会を出て行った人のために、怪我や病気にかかった人のために、祈りを合わせましょう。

 

◆神様、あなたは祈りに応えて恵みを与えてくださいます。どうか今、私たちがささげる祈りをお聞きください。

◆大阪府東大阪市の枚岡教会のために祈ります。70周年を迎えたこの教会に、あなたの祝福が豊かにありますように。コロナ禍により、教会へ来にくい人々へ、あなたの助けが与えられ、一人一人に信仰の成熟がもたらされますように。

◆教会に来られない人のために祈ります。今週から、訪問礼拝が再開しました。ビデオ通話や配信による礼拝に参加できない人たちも、新しい機会が生まれます。どうか今、遠慮して言い出せない人にも、あなたの恵みを届かせてください。

◆教会を出て行った人のために祈ります。様々な事情で、教会に居られなくなった人、距離を置かなければならなくなった人に、あなたの慈しみがありますように。教会が再び帰ってこられる場所となるよう、必要な変化をもたらしてください。

◆怪我や病気にかかった人のために祈ります。徐々にやってきた衰えや突然の病、事故や災害による怪我で、治療中の人たちに、あなたの癒しがありますように。焦りや不安から解放され、適切な医療とリハビリが受けられますように。

◆今も生きておられ、私たちをとりなしてくださる方、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

讃美歌

マスクをしたままで、オンライン賛美歌「あなたの内なる人を」(©️柳本和良)を歌いましょう。オンライン讃美歌の楽譜は、著作者の許可を得て掲載しています。

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主の祈り

共に、イエス様が弟子たちに教えられた最も基本的な祈りを祈りましょう。主の祈り。

天にまします我らの父よ。
願わくは御名をあがめさせたまえ。
御国を来たらせたまえ。
みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧を今日も与えたまえ。
我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。
我らを試みにあわせず、悪より救いだしたまえ。
国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり。
アーメン。

 

報 告

本日も、配信を通して聖書研究祈祷会にご参加くださり、ありがとうございます。先週の在宅聖研祈祷会は、ライブ配信の奉仕者2名、配信参加者の3名、計5名が出席されました。後から動画や原稿を見て、祈りを合わせてくださった方も感謝致します。

 

来週の水曜日も配信等による在宅聖研を行います。教会に集まる集会は7月から再開し、礼拝は第1・3日曜日と第2・4日曜日に分かれて、半分ずつ集まります。聖書研究祈祷会は、初めて来る方のみ人数調整のためお問い合わせください。また日曜日まで、皆さん一人一人に神様の平和がありますように。

*1:尾形守『異端見分けハンドブック 異端との霊的戦い』プレイズ出版、1998年より。